第67話ビザンティンの発展と危機

ところで、コンスタンティヌス帝がビザンティンに街を築いた四世紀以降、皇帝たちは実は、この地にあまり住んでいない。


例えばユリアヌス帝は即位後半年ほどビザンティンにいたものの、シリアのアンティオキアに移る。そしてそこからペルシア遠征に出かけ、帰らぬ人となった。


次の皇帝ヨビアヌスは、一度もビザンティンには足を踏み入れず、続くヴァレンス帝も数度訪れた程度。


治世の大半をこの街で過ごした皇帝は先代のテオドシウス一世(在位379~395)である。ドナウ河畔のシルミニウムにて即位後、すぐにコンスタンティノープルに移ってきた。3年間程度のイタリア滞在は任期中にあったものの、大半はコンスタンティノープルの宮殿で過ごした。

彼の死後、ローマ帝国は東西に分裂。

その後、東ローマの皇帝は生涯の大半をコンスタンティノープルの宮廷で過ごし、帝都としての実質を供えることになった。


帝都として定着することにより、人口が増加、通商も拡大の一途をたどる。

コンスタンティヌス帝によりきずかれた城壁の内側は市街地で占め尽され、次第に城壁の外側にも住居が増えてきている。


また、今から37年前の410年8月、「永遠の都」と呼ばれたローマが、ゲルマンの一部族西ゴート人により、3日間の徹底的な略奪、占領を受けた知らせは、ここビザンティンにも、大きな衝撃を持って迎えられた。

ローマが失われた以上、自分たちこそが「本来のローマ人」で「永遠のローマ人」の意識を持たなくてはならない。

その意味で、結束がなければ、ゴート人以上に「野蛮で殺戮を好む」フン族が、既にドナウ川を超え、ローマ領に迫りつつある。

都として発展しつつあるビザンティンにも、危険が近づいていることは否定できない。

ローマの悲劇を繰り返さないためには、強固な防衛体制、城壁を強化する必要に迫られた。


こうして、新しい城壁がコンスタンティヌスの旧城壁の西方1キロ半に、大規模に建設されることになった。

工事自体も迅速に進み、412年から始まり翌年には完成した。

これが、歴史上「テオドシウス(2世、在位408~450)の城壁」と言われるものである。


しかし、前年の447年に、凄まじい大地震が起こった。

アッティラの軍勢がマケドニア・トラキア地方を略奪していた時期である。

聖ソフィア教会は倒壊、それ以上に衝撃的なのは、城壁そのものが崩れ落ちてしまったのである。


ヨーロッパ中を恐怖に陥れていたアッティラは、その期を逃さなかった。

すぐさま、ビザンティンに直行した。

そして、なおかつ「ローマ社会の希望の星シャルル」まで、自らの仲間に引き入れてしまったのである。

まさに、歴史のなせる「神の配慮」とでも言おうか、テオドシウス二世の前では、ここビザンティンの都のみならず、世界を変えるような重大な話し合いが行われようとしていた。

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