14
「ティアナ、つかまっていろ!」
そう言ってヴァレッドが馬の腹を蹴ろうとした瞬間、馬の鼻を掠め二本目の矢が地面を抉った。
驚き、嘶く馬を強引に操り、ヴァレッドは馬車を置いて走り出す。その行動に声を上げたのはティアナだった。
「ヴァレッド様! カロルはっ! 他の方はっ!」
「ジルベールに任せておけば大丈夫だ。それよりしゃべるな、舌を噛むぞ」
簡潔に説明を終えると、またグンッと馬が速くなる。ティアナは馬の鞍に捕まりながら小さくなっていく馬車を振り返った。すると、馬車はもう何者かに囲まれてしまっていた。
◆◇◆
ヴァレッドとティアナの乗った馬は荒道をゆっくりと歩く。道の右側は馬で上ることが困難なほどの斜面で、左側は断崖絶壁だ。もう誰も追っ手は来ないだろうというところまで逃げた二人は、後ろを振り返りつつ、今晩の宿を目指していた。
「皆さん、大丈夫でしょうか……」
「ジルベールに任せたんだ。積み荷は多少被害を受けるかもしれないが、問題はないだろう。もしかしたら、案外アイツらの方が先に宿屋に着いているかもしれないぞ」
「それなら良いのですが……」
ティアナはいつもより元気のない声を落とす。何度も確かめるように後ろを振り返るその様子に、ヴァレッドは困ったように片眉を上げた。
「君はいつも自分の心配をしないな。さっきの奴らだって、貴族を人質にとって金儲けをしようとする奴らだったかもしれないのに」
「そういった覚悟は貴族の家に生まれた段階でもう出来ていますし、それに今はヴァレッド様も私もこのような格好なので貴族とはバレてないと思いまして……」
「まぁ、そうだな」
ティアナもヴァレッドも今は町を歩く男女とそう変わらない。確かに乗っている馬は良い馬だし、腰に帯びている剣は上物だが、本当に違いといったらそれくらいだ。ティアナに至っては、本当に見分けがつかないほどだ。
だからなのか、ティアナはしきりに後ろを振り返りながら「カロル……」と零す。
「そんなに心配なのか? 君はカロルと本当に仲が良いんだな」
「もちろん他の方も心配ですが。そうですね、カロルは特別かもしれません。小さい頃からいつも側にいてくれましたから」
そうして、なにか特別な記憶を思い出すかのようにティアナは目を瞑る。
「初めてパーティーに参加したときも、お父様とお母様に外出を禁止されたときも、ローゼにお気に入りの指輪を取られて落ち込んだときも、フレデリク様に離縁を申し渡されたときも……。いつもカロルと一緒にいましたので……」
「フレデリク?」
「あぁ、ヴァレッド様にはお話ししていませんでしたか? 私の元婚約者……ではありませんね。元夫です」
その瞬間にヴァレッドの呼吸が一瞬止まる。しかし、前を向くティアナはそんなヴァレッドの様子に気づかない。
「元夫、といっても婚姻関係は数日間で、一緒に住んだこともない間柄なんですけれど」
昔のことを思い出して気が紛れたのか、ティアナの顔にうっすらと笑みが浮かぶ。
「……君は、その男と仲が良かったのか?」
「そうですね。小さいときから彼の妻になるものだと思っていましたので、交流はしていました。……フレデリク様って、すごくお優しくてふんわりとした方なんですよ? いつも乗馬の授業と剣術の授業は怖いからってずる休みばかりしていて……暇さえあれば私達の屋敷に逃げてきていました。ふふふ、今思い出しても楽しい気持ちになってきますわね」
昔を懐かしむティアナの頬は、興奮のためかうっすらとピンク色に染まっている。ヴァレッドはティアナのそんな様子を頭の上から覗き見ると、眉間に皺を寄せた。
「あぁ、そういえば、こんなこともありましたの! あれは五歳の時だったのですがフレデリ……」
ティアナがフレデリクの名を呼ぼうとしたとき、腹部に回されていたはずの手が彼女の口をそっと塞いだ。
「もういい。君がそのフレデリクという男と仲が良かったのは理解した」
どこか気落ちしたようにそう言って、ヴァレッドはティアナの口から手を離す。そして、今度はその手を腹部に戻すことなく、しっかりと手綱を握り直した。
「あぁ、すみません。私ばかりぺらぺらと……」
「いや。……君はフレデリクと離縁することになって悲しかったか?」
先ほど自分で止めたフレデリクの話題を持ち出して、ヴァレッドはそう問いかける。
「……はい。多少は」
「それなら君は、俺と離縁しても悲しんでくれるか?」
「え?」
ヴァレッドの言葉に、今度はティアナが固まった。振り返ろうと上げた顔を緊張で強ばらせ、そうして少しだけ俯くように顔を前に戻す。
「……ヴァレッド様はもしかして、私と離縁をしたいのでしょうか?」
「ちが……」
「もしそうなのでしたら、早めにおっしゃってくださいませ。心の準備をちゃんとしておきたいので……」
明らかに小さくなった背中に、ヴァレッドは慌てて声を掛ける。
「違う! そういう意味で聞いたんじゃない! 俺はただ、君がこの結婚を惜しんでくれるのかが知りたかっただけでっ――……! 離縁はしない! 少なくとも、今、その気はないっ!」
ヴァレッドのその言葉にティアナはくるりとヴァレッドの方を向く。そして、いつもの跳ねるような声を響かせた。
「本当でしょうか?」
「あぁ。今のところ、その気はない」
いきなり元気になったティアナに顔を背けるようにそう言えば、彼女の声色は更に高く、大きくなった。
「それでは、私はヴァレッド様に今後そのようなことを言われないよう、切磋琢磨しなくてはいけませんね! まずはヒルデの言うとおりに夫婦のちゃんとした接し方を身につけますわ! 私、頑張りますっ!!」
「ほどほどにな」
「はい!」
ヴァレッドの方をしっかりと向いて、ティアナはにっこりと笑う。
しかし次の瞬間、彼女は真顔になり、急にヴァレッドの頭を抱え込んだ。頭を下げる形になったヴァレッドの髪の毛を“何か”が一撫でする。
風切り音を響かせて飛んできたその“何か”を顔に受けて、ティアナは思いっきりのけぞった。そして、馬の鞍から滑り落ちてしまう。その先には黒く大きな口を開けている谷が……。
「ティアナ!」
必死に伸ばしたヴァレッドの腕が空を掴む。目の端には先ほどヴァレッドの頭を掠めただろう矢が、ティアナの赤をその先端に付けて地面に深々と突き刺さっていた。
黒く深いその谷間にティアナの身体が吸い込まれる。
「くそっ!」
ヴァレッドはなんの躊躇いもなく、その谷に飛び込んだ。
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