12
太陽がにわかに夏の気配を纏わせはじめたように感じる午後、ティアナはいつものように薔薇園で刺繍をしていた。もう定位置となった木陰からの視界はいつ見ても鮮やかだ。先日よりは幾分か数は減ってしまったが、それでも視界を彩る赤やピンクの鮮やかさは衰えていない。
昼食のサンドイッチが詰まったバスケットを傍らに置き、ティアナは黙々と刺繍をしてく。二時間ほど刺し続けて、ティアナはようやく顔を上げた。
「こんなものでしょうか」
ティアナは出来上がったハンカチを広げて眺める。今日も良い出来だと満足げに頷けば、白いハンカチの奥に黒い影が見えた。黒くて長い固まりが薔薇園の奥に横たわっている。長さはティアナの身長と同じか、少し短いぐらいだろう。何度も瞬きを繰り返して、ティアナはその物体を凝視した。そして立ち上がり、ゆっくりとそれに近づいた。
「子供?」
それは黒い布を頭から被った男の子だった。美しいはずの銀色の髪は所々泥がこびりついているし、頬だって少し痩けている。着ている物は何日も洗っていないかのようなすえた臭いがした。
ティアナはその子供に駆け寄ると、力一杯に体を揺さぶった。意識だけでも取り戻させないとまずいと思ったからだ。
「あ、あのっ! 大丈夫ですか!? 起きてください! 今、誰か人を呼んでっ……」
「まって……」
まだ声変わりのしていない声で、その少年はティアナを止めた。自分の肩に置いてあったティアナの手を捕って、彼は彼女がどこにも行ってしまわないようにぎゅと握りしめる。少年の濃い灰色の瞳がティアナを映して小さく揺れた。
◆◇◆
「おかしい」
「……ヴァレッド様、変なこと仰ってないで仕事してください」
「レオ、おかしいと思わないか?」
「あぁ、もぉ、また胃が痛くなってきた……」
結婚式まで後二週間と迫ったある日、ヴァレッドは執務室で書類にサインをしながら低くそう声を漏らした。眉間には深い皺が刻まれていて、不機嫌そうなオーラを纏わせている。
その様子にレオポールが青い顔をして胃を押さえるが、それには目もくれず、ヴァレッドはとうとうサインを書いていた手を止めて何か考え事をし始めた。
「今度は何ですか?」
レオポールも負けじと不機嫌さを滲ませた声でヴァレッドを威嚇するが、そんなことで怯むような彼ではなかった。
「最近、ティアナを見かけないんだが……」
「は? 朝食の時は居られたじゃないですか。見えていなかったんですか? 頭だけでは飽きたらず、とうとう目まで悪くなって……」
「……お前は、最近辛辣だな」
「思ってることを言ったまでですよ。まだ敬語を使ってるだけましだと思ってください」
「敬語は使わなくても良いと言ってるだろう?」
「一応、貴方は私の主人ですから、こればかりはご容赦ください。で、ティアナ様を見かけないってどういうことですか?」
話の方向修正をしたレオポールに、ヴァレッドはレオポールの背後にある窓を指さしてみせた。窓の外には緑色のアーチと椅子の並んだ小さなドーム、緩やかに曲がっている道に沿った形で腰の高さほどの緑が植えられていた。その緑は多くないながらも赤い花を咲かせている。執務室が二階にあるからか、その場所はヴァレッドには手に取るように見て取れた。
「あぁ、薔薇園がどうかしましたか?」
「ティアナがいない」
「は?」
「いつもこの時刻は、大体あの辺で刺繍をしているはずなんだが、ここ三日間、俺はアイツを見ていない」
「『いつも』!? 貴方、毎日何してるんですか!? それ、完全にストーカーってやつですよ!?」
レオポールが悲鳴じみた声を上げる。
ヴァレッドは領主だ。彼の執務は勿論少ない方ではない。むしろ領地が多い分、それを管理するヴァレッドは多忙といっても過言ではなかった。当然、それを補佐するレオポールも毎日かなり忙しい。各地に手足となる人間を置いてはいるが、城があるこの地域はヴァレッドの持ち回りだし、各地で起こった重要事項の可否はやはりヴァレッドが決めなくてはならないからだ。
そんな多忙な仕事の合間を縫ってヴァレッドは婚約者のストーカーをしていたのだ。レオポールは開いた口が塞がらないというように、口に手を当て目を見開いていた。そんな彼をヴァレッドは鋭く睨みつける。
「ストーカーではない、監視だ。ティアナもなんだかんだ言って、女だからな。変な真似をしないかどうか見張っていただけだ」
「言い訳っぽいー!! 凄く言い訳っぽいですよ!? 大体、そうにしたって毎日はやりすぎでしょう!?」
「毎日と言っても、ちらっと見るだけだ。別に大したことをしているわけじゃない」
「でも、時刻まで把握してましたよね? 一日に何回チェックしてるんですか!? ティアナ様だって、ちょっと気分じゃないとか、体調が悪いとか多分そんな理由ですよ!」
「別段、今朝は体調が悪そうには見えなかったぞ。でもまぁ、無理をしてるのかもしれないな」
「ヴァレッド様!?」
そう言いながら立ち上がったヴァレッドに、レオポールは喉をひっかいたような叫び声を上げた。執務室の机には山のように積まれた書類がある。それを放ってどこに行くのかと非難の声をあげれば、ヴァレッドはさも当然と言わんばかりに、レオポールにこう言い放った。
「ティアナの様子を見に行ってくる」
「ヴァレッド様が、とうとうおかしくなった……」
その呟きはヴァレッドが閉めた扉の音によって、見事に掻き消えた。
◆◇◆
執務室からそんなに遠くない距離にティアナの私室はある。廊下の角を三回ほど曲がった二階の角部屋が彼女の部屋だ。ちなみに、その反対側の二階の角部屋がヴァレッドの私室である。本来ならば隣り合わせであるはずの夫婦の私室がこうも遠いのは、偏にヴァレッドの強い要望からだった。
ヴァレッドはその扉の前に立ち、一度も躊躇することなくその扉をノックした。しばらく待っても返事がないので、そっとその扉を開ける。顔だけで覗き込みぐるりとあたりを見渡すが、ティアナも、それに仕えているはずのカロルの姿もどこにも見あたらなかった。
「居ないのか」
それならばしょうがないと、扉を閉めようとしたその時、部屋の隅に置いてある大きな箱に目がいった。その中には大量のハンカチと刺繍糸が入っている。いかに彼女が刺繍が好きだろうと、この量を使い切るには相当の時間が必要だろう。そしてその隣の机には請求書らしき紙が一枚置いてあった。ヴァレッドは部屋の中に入り、机上の請求書を手に取る。それは五十以上のパンと、大量の干し肉の請求書だった。金額もそれ相応にお高いものとなっている。
「ティアナに浪費癖が……?」
そんな考えが一瞬頭をもたげたが、それはないだろうとヴァレッドは頭を振った。宝石やドレスの類ならそうなのかもしれないが、彼女が買っているのは刺繍糸に、刺繍の土台となるハンカチ。それと、大量のパンと干し肉だけだ。パンに至っては保存が利くような堅い物である。
「何にせよ、何か隠し事をしているようだな」
ヴァレッドは不機嫌そうにそう唸った。しかし、その瞳には非難の色は見て取れない。どちらかと言えば、寂しそうな色を湛えるその瞳を滑らせて部屋の中を見渡せば、出会った初日に渡した書類が机の上に置かれていた。
「隠し事も禁止にすれば良かったな」
綺麗に揃えられているそれをぱらぱらと捲りながら、ヴァレッドは一人そう呟くのであった。
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