第52話 法と倫理



 罪を犯す人間はどのような時代、どのような国でも一定数存在する。盗みや食い逃げといった軽犯罪から、殺人や放火という重犯罪まで様々だ。特定の国によっては犯罪と見なされない行為であっても、ある国では極刑に処されるような罪もある。

 法とは集団を形成する上で不都合な事をさせない為の安全装置の役割を期待されている。殺人の様な暴力行為を野放しにした場合、集団は容易く崩壊する。

 それは当然である。隣人がいつ自分を殺しに来るかを考えては、まともに生活する事など不可能に近い。互いの安全を保障し、集団の秩序を維持していくために法が必要になるのだ。

 しかしどれだけ規範を掲げた所で、それが利益に勝れば人は容易く法を踏みにじる。それを止まらせるのが罰則なのだ。刑罰とは、法を犯す精神を踏み止まらせるのに不可欠であり、弱者が強者に踏みにじられない様にするための武器と言える。



 ドナウにもれっきとした法律は存在する。地球ほど長い時間を掛けて成熟させたわけではないが、それなりに理に適った法律と刑罰がある。裁判所と裁判官の様な専門部署は無いが、法務官が罪状を精査して、犯罪者に刑罰を科すのがドナウの流儀である。ただしそれは都市部に限られており、法務官を派遣できない地方の直轄領ならば代官が法務官の代行を務める事が多い。地方の領地ならば領主自らか、その一族や雇われ者が判断を下す事が殆どだ。教育を受けた者が貴重である以上、それは仕方がない。

 刑罰の重さは厳密には決まっていない。大抵は法務官や代官の裁量に任されている物の、あまりおかしな判決は聞こえてこない。殺人を犯して棒叩き数回や、小銭を盗んで死罪といった極端な判決があれば、王都の人間が調査に乗り出して問題を指摘するので、それなりに公平な裁きがあるのだ。

 それでも完全ではないのが未発達な文明のままならない所である。特に貴族と平民との間で起こった諍いはそれが顕著で、平民が貴族を殺した場合、余程の理由が無い限りは平民は死刑になる。しかし、貴族が平民を殺しても死罪になる事はあまり無い。まったく無いわけではないが、ほぼ無いと言っていい。過去に罪の無い平民を戯れに数十人殺した貴族は処刑されたが、一人程度ならば残された遺族に賠償金を払って和解が成立する事が殆どなのだ。

 命の値段は一定ではない。しかし、努力は認めるべきである。地球文明とて数千年の積み重ねがあって初めて法律や憲法が生まれたのだ。何時かこの星にも地球と同等の方が生まれる事を期待するばかりである。



 アラタが目の前に横たわる男女の死体を解体しながら、法の精神が培われる事を願っているとは、ここにいる全員は知らない。と言うより、そんな余裕は無かった。ちなみに男女は連続強盗犯で、前日に斬首刑に処されており、アラタはその死体を講義の教材として貰い受けていた。

 アラタと若い学務官僚、それに自主的に参加していた軍士官や各省の官僚達の中には青ざめた顔をしていたり、吐き気を堪えながら、解体された人間の臓器や脳を観察している。

 今回の講義では人体の仕組みをテーマに進めており、官僚の殆どは慣れない血や臓物の匂いに耐えながら、アラタの説明を一言も逃さないよう、必死に記憶するなりメモを取っていた。

 医者出身の学務官僚や軍士官は慣れているので大して取り乱していないが、事前知識の無い官僚らは今回の講義を受けた事を一様に後悔していた。



 何故、アラタが人間を丸ごと解体しているかと言えば、先日のホランドとの戦で、アラタの国では内臓の外科手術が確立されていると知った学務官僚が希望した為だ。アラタ自身は医者ではないが、人体の仕組みの知識や縫合技術、骨折の治療などを心得ている事から、出来る範囲で医療技術の発達の為に講義を開いたわけだ。

 ドナウの医療技術は低い。人体の構造や役割が全て解明されて人体改造技術が確立された地球と比べるのは酷だが、それでもアラタから見れば低いと言わざるを得ない。それなら自分が可能な限り力になってやらねばと、張り切ったのだが、付いて来れた者は少数だった。

 内心だらしのない奴等めと悪態を吐いたが、士官学校でも動物の解体や人体のホルマリン漬けや模型を見て、気分を悪くしていた者が一定数居たのだから、気質の向かない人間だったのかと納得した。

 取り出された臓器を手に持ちながら一つ一つ丁寧に役割を説明すると多くの質問が聴講生から寄せられ、アラタはその質問に一つ一つ答えていく。

 心臓の様な分かりやすい機能の臓器は全員知っていたが、胃や腸のような消化器官の役割が細分化されていた事に全員が驚き、脊髄を始めとした中枢神経の重要性を説明すると、しきりに感心している。

 青ざめた顔の者も多かったが段々と感覚が麻痺してきたらしく、聴講生達は自ら臓物を手に取って観察し出す。人間慣れれば案外何とかなる物である。



 一通り臓器の役割を説明したアラタに多くの質問が寄せられるが、その大半は治療方法だった。ドナウの医療技術では外傷は治せても、体内の臓器までは治せない。それどころか今日初めて臓器の役割を知ったのだから、治療法も知りたいと願うのは当然だ。

 しかしアラタは医者ではないのでそこまでは答える事が出来ない。より正確に言うなら、治療法は知っていてもこの国では薬も手に入らず、医療器具も揃わない以上、机上の空論でしかないので、敢えて教えなかった。精々が病気にならない為の予防法を教えるに留まったぐらいだ。


「酒の飲み過ぎは内臓を傷めるので控える事、塩気も同様だ。偏った食品ばかり食べると病気にもなりやすい。穀物、肉、野菜、それぞれを釣り合うように食べるのが健康の秘訣だ。水も出来れば沸かした物を飲んだ方が下痢や嘔吐の危険性は随分と下がる」


 他にも食事の前には手を洗浄する事や、うがいを薦めるといった基本的な衛生管理でも一定の効果があり、身体を清潔に保事が病気の予防になると説明した。

 特に疫病や黒死病が発生した場合、おびただしい死者が出る。それを未然に防げるのは極めて大きな利点だ。幸いドナウでは入浴の習慣があり、身辺を清潔に保つのは礼儀の一つと考えられているので、アラタの言い分は受け入れられやすかった。

 ただし、軍の士官から行軍中はどうすればいいのかと、若干意地の悪い質問が出たが、アラタはそれにも的確に返答をしていた。


「清潔な水が手に入りにくい場合は強い酒を代用する。布に染み込ませた蒸留酒で身体を拭けば似たような効果を得られるからだ。ただ、尻の穴や股間の一物はあまり酒に触れない方が良いな。酒はかぶれやすくなる」


 真面目な話の中で唐突にアラタの口からジョークが放たれると、どっと笑いが巻き起こる。堅物な印象の強いアラタだが、冗談を解さない訳では無い。集団を維持する上でのコミュニケーションの重要性はアラタも知っている。年がら年中冗談を飛ばす気は無いが、時折こうして戯言を飛ばす事を忘れないのがアラタの流儀だ。それも意味の無い冗談では無く、笑いの中に重要な情報を混ぜておけばそれが印象に残り忘れにくくなる。



 他にも幾つかの質問に答えた所で今日の講義は終了し、後片付けをしていると、アラタを手伝う者も多かった。

 最近になってアラタの関心を得る為に色々な人間が近づいてくる。何せ王女との婚姻が正式に発表されたので、どうにか取り入ろうと、多くの人間がアラタに接触していた。王家の技術顧問として動いていた時にも様々な形で媚びを売る者が多かったが、ここ最近は目に見えて急増している。

 普段は自分の部署に関係のある事柄しか聴講していないのだが、今回は全く関係の無い官僚も参加しておりアラタの気を引かせたいのが丸わかりだった。ただし、却って学問を利用しての功名に走る行動がアラタには不快であり、参加を拒みはしないが評価は低かった。

 アラタの講義に最初から参加している学者もそれを快く思っていない。特に若い者ほど学問を利用しての出世に否定的なのだ。


「レオーネ先生の講義も随分人が増えましたね。全く関係ない地方領主の縁者も居たらしいですが、出来れば学問に政治を持ち込んで欲しくは無いです。我々も貴族ですから政治とは無縁でいられませんが、せめて学問ぐらいはそのようなしがらみから離れていたい」


 片づけを手伝っていた聴講生の一人がそうぼやくと、何人かは同意を示す。彼等は純粋に学問に傾倒している者達で、学問を政治利用する事に不快感を感じていた。

 その中に学務長官ルドルフ=デーニッツの末の息子がいる。父親と違って組織人の才が皆無なのだが、治療の神術の使い手だったので王家の典医を任されている。父親から言い含められて来ているのは知っていたが、学問に対する真摯な態度に偽りは無いので、歳も近い事からアラタとはそれなりに良い関係だった。


「それにしてもレオーネ先生の国の医療技術は、我々の持つ知識など足元にも及びはしないです。先生の国には病で死ぬ者はいないのでは?」


「そうでもない。病気というのは常に新しいものが生まれ続けている。ある病気を克服しても、その病気が変化して別の似た病になってしまう。人類が文明を築いてから数千年経過したが、どれだけ学問が発達しても病気の根絶は不可能だったよ。ただ、随分と病死者が減った事は確かだがな」


 特に子供の死者が極めて少ないと語るアラタの地球を彼等は羨ましそうに聞いている。この国の子供の五人に一人は十歳まで生き残る前に病気で死んでしまう。

 貴族の生まれなら多少は生存率も高くなるが、それでも死ぬ時は死ぬ。医者の数も十分と言えず、精々薬草を煎じて飲ませるのが治療法なのだ。栄養状況も悪い状態で風邪を引こうものなら、体力の無い子供や老人は簡単に死んでしまう。

 それ故に治療の神術使いは、文字通り神のような扱いを受ける。ただし、神術使いの絶対数も少なく、望んだ才能が発言する訳では無いので、それこそ数十年に一人しか現れない。


「私が言うのはおかしなことかも知れませんが、神術に頼らず人を救えるなら、これほど尊い知識は無いと思います。私のような治療の使い手がもっとたくさん居たら、救える命もずっと多かった。ですが先生の知識はそんな神術に頼らずとも人が救える。私はもっと多くの人を身分に関係なく救いたいのです!」


 そう熱弁を振るう青年こそ、ルドルフ=デーニッツの末の息子、ヘルマンだった。

 彼の父ルドルフは、水面下ではアラタの足を引っ張ろうとしている。だが彼はその事とを知らせれておらず、純粋にアラタの知識を求めており、組織人としての才能の有無というのは、親子であっても随分違いがあると、遺伝子の遊びを興味深いと感じていた。

 そして彼の熱の入った演説に周りの若い者は同調し、アラタにさらなる知識の伝授を希望していた。そんな熱に浮かされた同世代の若者をアラタはずっと醒めた眼で見ていた。



(青臭い事を―――だが、その思いは尊いだろうよ)


「熱意は理解したが、あまり急ぎ過ぎるのは賢明ではないぞ。先ほど言ったが私が教えた知識は数千年かけて蓄積されたもので、この国には満足な薬も医療器具も無い以上、自分達で確立する他ない。ただし、医療技術の発達には生きた人間が大量に必要になるという事を忘れるな。私の故郷では誇張抜きで数千万人の生きた人間を人体実験の被検体にして医療技術を向上させた。君達にそれが出来るのか?人を救うために人を死なせる事を容認するか?」


 アラタが冷や水を浴びせかけると、途端に熱に浮かされた聴講生が静まり返る。学問の発展に犠牲は付き物だが、嬉々として犠牲を出す者は少数派だ。彼等も多くの人は救いたいが、その為の犠牲は出来れば避けたいと考えている。最初から人体を用いた実験はしないだろうが、最後は人体を用いねば効果は確認できない以上、犠牲者はきっと出る。この苦悩こそアラタが彼等に忘れてほしくない最後の一線だと考えている。

 嬉々として三万のホランド兵を焼き殺したアラタが言う資格は無いだろうが、それでも彼等には最低限の倫理観を捨てないでほしいと願っていた。



 それから全員がアラタの忠告を噛みしめ、強張った表情のままその日は解散する事となった。彼等はこれから生涯付いて回る理想と現実の間で苦悩しながらも向き合っていく事になるのだった。



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