第28話 一夜が明けて




「ん…あれ、わたし―――」


「起きたか?まだ夜明けまで時間があるからこのまま寝ていていいよ」


 あと三日で年の代わる年末の明け方、いつもの様に自分の部屋のベッドでアンナは目を覚ました。ただ、場所は同じなのだが、いつもと些か状況が異なっていた。

 まず第一に、寝間着を何も着けておらず、一糸纏わぬ姿である事。第二に、自身は寝覚めの良い方で体調が特別悪いわけでもないのに、今朝は妙に身体が気怠く、股が酷く痛む事。最後にこれが最も大きな差異なのだが、自身の視界に逞しい筋肉の壁が広がっており、他人の熱が全身を包み込んでいる事だ。

 起きがけで気怠い思考が徐々に鮮明になると同時に、前日の自分の痴態を思い出し、顔を紅潮させ、目の前の男の胸に顔を沈めてしまう。


「あーなんか済まない。どうにも初めての事で無茶をさせてしまったようだ。身体は大丈夫か?」


「うう……ちょっと痛くて身体が思うように動かないです」


「重ねて済まない。昨日はずっと身体を動かしていたからな、今日はこのまま寝てた方が良いかもしれないぞ」


「大丈夫です、まだ痛いですけど歩けないほどではないですから。それに―――お腹が空きました」


 少し恥ずかしそうに、アンナは空腹を訴える。アラタも同様に空腹感は多少感じていたが、我慢出来ない程ではない。二人とも前日の夕刻から食事も摂らず、互いを貪り合っていたので、身体が栄養を求めているのだ。前日のお茶受けぐらいならまだ残っているのだが、それだけでは到底足りないだろう。

 夜明け前と言っても冬の夜明けは遅く、使用人は既に朝食の仕込みに忙しく厨房で動き回っている頃だ。食堂に行って頼めば、用意してくれるだろう。

 取り敢えず起きて着替えなければ何も出来ないので、アラタはアンナを置いてベッドから抜け出す。愛する男の身体を名残惜しそうに見つめるアンナだったが、ずっと裸でいるわけにいかないのは分かっているので黙っていた。



 手早く着替え終えたアラタは冷え切った部屋を暖める為に、暖炉に薪を入れて火口に火打石で火を付けておく。

 部屋を出てからすぐに女の使用人を捕まえて、アンナの着替えと体を拭く布とお湯を用意してもらう。


「ではレオーネ様は食堂でお待ちください。女の身支度に殿方が入って来る事は不作法でございますので」


 そう言われてしまうとアラタには何も言えず、言われるがまま食堂へ足を運ぶ。そういえばヨハンの奴をほったらかしにしていたこと思い出して昨日のログを検索すると、アラタの情事を知って朝に迎えに来ると言って城に一度戻ったらしい。顔を合わせたら労いぐらいはしておかねば。

 食堂に入ると、忙しく朝食の支度をしている使用人以外にもミハエルとリザが、朝食の前のお茶を楽しんでいた。いや、楽しんでいたのはリザだけで、アラタの姿を目にしたミハエルはギリリと歯ぎしりをして睨みつけてきた。何故睨まれているのかはアラタも知っているので、黙って睨まれていた。


「おはようございます、お二人ともお早い目覚めで」


「おはようレオーネ殿、私達はいつもこのぐらいですよ。アンナもいつもはこのぐらいには起きてますけど、今日は朝寝坊していますね」


 リザがアラタにうふふと笑いかける。この老婆は全部知ってて、とぼけているのだろう。同じ屋敷で寝起きしていて、孫娘が男と一緒に朝まで部屋から出てこないとなったら、誰がどう考えても何をしていたのか分かり切っている。


「おはようレオーネ殿、昨日は夕食も食べずに何をしていたのかね?それに深夜まで色々と聞こえてきてね、おかげで儂は殆ど寝着けなかったのだよ。本当に何をしていたのかね?」


 勤めて冷静を装っていても眼光鋭く、口調こそ穏やかに聞こえるものの、その内心は烈火の如く猛り狂っている。可愛い孫娘を鳴かせた男を前にして憤怒の情を必死に押さえつけようと努力していた。


「さて、私からは何も言うべきではないと心得ておりまして。むしろ何をしたのかを鮮明に事細かに、口にした方が色々と困るのではないでしょうか」


 皮肉を皮肉で返すと、ミハエルが目を剥いて歯を食いしばる。確かに何をしていたのかなど心底聞きたくない。だが、それはそれとして目の前の男に対する怒りが収まるわけではない。

 どうしたものかと途方に暮れていると、リザが取り敢えず座ってお茶を飲みましょうと、助け舟を出してくれたので、そのままお茶をご馳走になる。

 使用人を除けば食堂には三人いるが、主に喋っているのはリザだけで、残りの男二人は気の無い返事をするだけで、あまり会話に参加していない。それを知っていても、リザは構わず喋り続けていた。



 一杯目のお茶を飲み終わる頃になると、このおかしな空気の漂う食堂に、もう一人加わる事になる。


「おはようございます。少し寝坊をしてしまいました」


「おはようアンナ、今日ぐらいは構わないわ。貴女も大変だったでしょう?最初は痛いでしょうけど、次はもう痛くないですから」


「おばあさま!いきなり何を―――」


「私もそうでしたから良く分かります。あの時は一日痛みと気怠さで、ぼけっとしていたのですよ。ね、そうでしょあなた?」


「い、いや、そんな昔の事忘れてしまったわい……それはそれとして、おはようアンナ。ささ、みんなで朝食を食べようか」


 いきなり五十年近く前の恥部を掘り出されて動揺を隠せないミハエルが、アンナに挨拶する事でどうにか誤魔化そうとしていた。この一言で食堂に漂っていたギスギスした空気は霧散し、多少は和やかな雰囲気が生まれつつあった。



 朝食を食べ終わる頃になると、四人の雰囲気はある程度元通りになっており、特にミハエルは平静さを取り戻していた。いや、平静さと言うよりもリザの話に戦々恐々していたのだ。


「この人ったら結婚したての頃は毎日のように私を鳴かせていたのよ。それだけ昔の私に魅力があったって事でしょうけど、当時はこの助兵衛めって呆れてたのよ」


「お爺様も若い頃はそんなことしてたんですか。男の人ってみんなそんな物なのでしょうか?」


「そうよ、男なんて大して変わらないわ。他にも――――――」


 こんな調子で昔の恥部を切開されてしまい、アラタの方がミハエルを慰める事になってしまった。思えば全部リザの計算通りの結果になったのかも知れない。



 その後、城で連絡を受けたヨハンとエリィが脚竜を連れてアラタを迎えに来た。ヨハンに昨夜の事を謝罪すると、よくある事ですからと軽く流された。ドナウの貞操観念では他の貴族の屋敷に泊まる事は珍しくないらしい。むしろ、ようやくですかと僅かに呆れられていた。

 エリィの方はニヤニヤとしていたが、リザにたしなめられて慌てて品の無い笑みを引っ込めていた。

 アラタが屋敷を出る時に、アンナにもらったマフラーを早速着けようとした所、アンナがアラタの手からマフラーを奪い取ってしまい、


「アンナ、何を――」


 アラタの疑問を無視して手にしたマフラーを自らアラタの首に巻く。巻き終わると、アンナはアラタに微笑みかける。


「ふふ、昔お母様がお父様に同じ事をしていまして、私もずっと殿方にこうしてみたかったんです。それではお勤め行ってらっしゃいませ」


「ああ、行ってくるよ」


 アラタも同じように微笑み、ベッカー邸を後にした。ミハエルは草陰で泣いていた。



「アラタ様、楽しそうですね。いつもは顔が堅かったり、仕方なく笑ってるけど、今は凄く楽しそうに笑っています」


 城に帰る途中、エリィがアラタの顔を見ながら、そう評価する。

「エリィは意外とよく人を見ているんだな。確かに普段は相手を不快にさせないように作り笑いをしているが、今は違うように見えるのか?」


「見えますよ。アンナ様と仲良くしてたからですか?男って単純ね」


「エリィ、レオーネ様に失礼だぞ!ですが、エリィの言う通りいつものレオーネ様に比べると表情が柔らかいのが僕にも分かります」


 二人にそう言われてしばし考え込む。自覚症状はあるが、他人から見てもすぐに分かる程違うのかと、自身評価を修正する。


「俺は思ったより単純なんだな。いやはや何事も経験はするものだ」


 しみじみと語ると従者の二人は噴き出してしまう。ヨハンの方は慌てて謝罪したが、アラタが構わんと鷹揚に許した。エリィは最初から謝らなかった。



 城に戻ると、早速騎士団の指導が待っており、いつも通り精力的に戦術の指導をしていた。終わりがけに近衛騎士のウォラフが話しかけてくる。


「お疲れさま。エーリッヒ殿下と昼食を予定しているけど君も来るよね?」


「ああ、お疲れさん。じゃあ一緒に殿下の所に行こうか」


 年末とはいえ城の使用人たちは忙しく動き回っており、新年を清らかに迎えたいと、今日から大掃除の真っ最中だった。エリィもそれに参加しており、城のどこかで掃除に励んでいるのだろう。

 宰相の政務室には相変わらず書類の山が出来ており、宰相のアスマンやエーリッヒが官僚達と必死になって政務に励んでいた。


「お疲れ様です皆さま、既に昼を回りました。そろそろ休憩を入れてはどうでしょう?」


 ウォラフが労いの言葉を掛けると、全員がピタリと動きを止めるが、すぐに仕事を再開する。いつもならここで仕事を中断するのに今日は誰も仕事を止めなかった。


「ウォラフ、アラタも先に行っててくれ。切が付いたらこちらも行く」


 エーリッヒはそれだけ言うと、また書類に掛かりきりになってしまった。二人は顔を見合わせて、言葉通りエーリッヒが来るのをいつもの部屋で待っていた。


「いつもより忙しそうだな。何か飛び入りの仕事でもあるのかね?」


「うーん、最近はいつも忙しそうだからね。―――あっ、分かった」


 思い当たる節があったらしく、ウォラフは一人合点が行く。アラタがなんなのか問おうとした時、エーリッヒが遅れてやって来た。


「待たせたね、ようやく区切りがついた。まったく、年末は行事が立て込んでいて忙しいけど、今年は別件も絡んでいるから、二倍は仕事があって困る」


 大きくため息を付くエーリッヒを二人は労うと、三人そろってテーブルに着いて、昼食を摂り始める。三人とも色々な仕事を抱えて忙しいが、三人そろっている時は極力昼食だけは一緒に摂るようにしていた。


「軍の兵糧補充や、各地の地方軍の派遣に、騎士団の治安維持への出向。おまけに年越しの祭の準備に、年始の祝賀会、幾ら時間があっても足りない。私この国の王子なのに、宰相の次ぐらいに働いてるよ。もっと自堕落に生きたくなった」


 これは随分心労ため込んでるな。二人は内心、エーリッヒに同情したが、エーリッヒの代わりが自身に勤まる訳が無いので、当たり障りのない労いの言葉しか掛けることが出来なかった。ウォラフが思い当たる節は、年末年始の行事の手配だったのだ。


「私はこの国に来て日が浅いので、今の時期の行事には疎いのですが、どんな事をされるのですか?」


「んー、年越しには王家や貴族から祝いの酒や菓子、料理が無料で振る舞われるんだよ。それを街の平民たちは飲んで食べて、新年を祝うんだ。アラタの国にも似たような行事はあるんじゃないかい?」


「仰る通り、似たような行事はあります。無料の料理などはありませんが、各地方や家庭で祝いをする習慣はそれぞれあります。静かに神に祈りを捧げる宗教もあれば、あちこちで火を焚いてお祭り騒ぎをする国もあります。私の国では年末の六日前を聖者の誕生日として一番盛大に祭りを開きますね」


「へーちょっと変則的な祝い方だね。なら年末の年越し祝いは初めてになるんだね。今年は私も年越しの警備に割り当てられていて、残念ながら妻とは一緒に過ごせそうにないんだ。父も翌日の年始の告辞の為に毎年、早めに切り上げていて家は誰も年を越すまで祝いをしないんだ」


「なるほど、殿下が碌に休む暇もない理由が分かりました。王家主催の城の年越しの宴に加え、年越しの祭ともなれば羽目を外した者が酒に酔って暴れることもある。その為には街に兵士をいつもより巡回させねばならないが、今年は諸事情により兵の数が少ない。それをねん出するために軍と騎士団とで協議する必要がある。他にも王家からの酒や料理の手配に、祭の見世物の用意。それが終われば年始の特別な行事もあり、総責任者として書類の山に埋もれる事になったと」


「そう言う事。アラタ、君にも手を貸してもらうかもしれないから、準備だけはしておいてくれ。多分祭の現場監督か、治安維持の指揮を執ってもらうことになる」


 忌々しそうにパンを齧りながら、怨嗟の声を漏らす。完全にオーバーワークで精神的に余裕が無くなっているエーリッヒを痛ましく思うが、二人には仕事の肩代わりは出来ない。読み書きや計算は出来ても、王子と言う地位の者でしか判断出来ない書類があり、それには代わりが居ないのだ。エーリッヒ以上の人間となれば、後は宰相と国王しかおらず、その二人も最近は過労気味なのだ。あと数ヶ月で一応の区切りは付くが、このままでは誰か過労死しかねない。

 どうしたものかと腸詰を口にしながら思案する。仕事量は減らせない、人間は増やせない。根本的な解決はすぐには出来そうに無いとなると、精々気分転換でもさせて、ストレスを軽減させる程度か。

 これが兵士なら美味い飯を食わせて、スポーツで汗を流せばどうにかなるが、エーリッヒの場合は精神的な重圧が大きい。時間を割かず、脳をリラックスさせるとなれば、カルシウムやビタミンを摂取するのが効果的なのだが。

 俺が一肌脱ぐしかないか。アラタはそう結論付けると、頭の中で今後の予定を組み立てた。



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