第80話 這い寄り迫る智と武の化け物
時は、とうに午前零時を回った深夜。
場所は、
圧し固められた土の地面の中央に、ドンと一つ正方形の舞台が、ぐるりと四方を囲む壁の向こう、2階に相当する高さの最前列から階段状に観客席が存在し、今はオルタンシアにある全施設がそうであるように、全ての照明器具が
「〝控えろ〟」
そう
「パイクと〔ユナイテッド〕の所へ行かないなら、ちゃんと隠れてるんだぞ」
紋章を介した【精神感応】は、言葉を介さず想いや作戦をそのまま伝える事ができる。それを改めて便利だと思いながら、口でもそう言い聞かせた。
そんなごしゅじんにもう一度頭をすり寄せてから、きゅいっ、と頷いたスピアは、
ランスは、その小さな後ろ姿が奥へ消えるまで見送ってから、額に装着している〔
「〝来い〟」
その命に
全長は2メートル半ば、巨大な黒曜石から削り出したかのように穂先から石突まで一体形成で、装飾の類は一切なく一見シンプルだが、それがその存在そのものの艶やかさや美しさを際立たせている。
「…………」
余人にはそうと分からないほどわずかな
「管理者、――状況を」
即座に応えた姿なき天空城の管理者が、
そこに映し出されたのは、
そして、今なお怪物共を吐き出し続けている大円形闘技場の北門と、その舞台中央で自らの子を召喚し続けている〝怪物の母〟――女怪エキドナ。
ランスは、その全てを〔
「管理者、オルタンシアに存在する全ての照明を同時に消す事は可能か?」
〔可能です〕
「準備を」
〔完了〕〔ご指示を〕
管理者に待機を命じつつ、ランスは、両手で漆黒の槍を捧げ持ち――
「
漆黒の槍の向きを上下に反転させて穂先を地面に――そこにある自分の影に向け、
「――〔
保持していた手を離す。
すると、落下した
「――実行」
管理者への命令は即座に実行され、オルタンシアに存在する全ての施設の照明が消えた。
その直前まで全てが点灯していたため、法呪・練法の【照明】を使用していた者はなく、火炎系の術で倒され燃えている怪物の死体が点在していたりはしたが、オルタンシアが
「――――」
神器〔
その間に響き渡ったのは、ドズゥンッ、という地響きに
唐突に訪れた何も見通せない夜の闇の中で、それを耳で聞き、空気の振動を
まさに、死屍累々。
全ての怪物共の
「……い、いったい、何が……?」
「…………静かになったな……」
「……お、終わった、のか?」
何が何だか訳が分からない。だが、怪物共は全て地に伏して動かず、周囲は寒気を覚えるほど静まり返っている――そんな状況に置かれた人々は、目の前の地獄のような光景から周囲の仲間へ視線を移し、顔を見合わせて声をかけ合う。
しかし、この時、まだ全てが終わった訳ではなかった。
闇の
1体は、エキドナの子にして最高傑作と称される魔王候補、アガノキュテス。
もう1体は、最古の魔女にして最強の怪人、竜の力すら取り込んだ〝怪物の母〟、エキドナ。
全身を滅多刺しされた
女怪エキドナは、その体内に核と呼べる器官が存在せず、どの個体よりも多くの影槍でその身を
そして、このごく短時間にこれだけの大量虐殺を成したランスは、会場の舞台中央で
「――ガハッ」
粘性の高い血の
他にも、鼻血は言うに
それは、影槍――神器〔
手で
そんな影に、力を解放した神器を同化させればどうなるか?
力の逆流は全身に
「――フンッ、……はぁ……はぁ……、…………かっ、――プッ」
そんなダメージの受け方をしたのは初めてで、だからこそ抵抗の仕方が分からず、今はただただ激痛に耐えながら気力で意識をつなぎ止めるランス。
力の抜けた両腕をだらりと垂らして指先からポタポタ血を
全身の経絡系に負ったダメージのせいで〝活勁〟のみならず捷勁法を
そして、猶予は、あとわずか。
だからこそ、そうやって、でき得る限りの方法で状態の回復に
(――〝ご主人様〟)
脳裏に響いたのは、城館地下の私室で周囲に無数の
(〝増援の召喚阻止に成功しました〟〝エキドナは大円形闘技場から移動中〟)
言われずとも、仮想画面を投影したままなので、その動向は把握している。〔いと麗しき影〕の同化を解除したのもそれを確認したからで、
(〝高確率でご主人様の下へ向かっています〟)
猶予がわずかなのは、それ故。
問題は、どうして
飛行型の怪物は先に始末し、地上型もまだこの会場には到達していない。ここへ降りる際も姿を目撃されてはいないはず。
なので、幼竜達と【感覚共有】するように、エキドナが
索敵系または遠視系の術が使用されたなら、監視している管理者やミスティが感知しているはず。よって、それもない。
(〝〔
ミスティがそう言うならそうなのだろう。仮に違ったとしても、相手は最古の魔女。その気になればこちらの位置を探知する方法など他に幾らでもあるに違いない。
だからこそ、肝心なのは、こちらの様子が向こうに見えているか、いないか。
被害が及ぶ可能性があるにもかかわらず選手村に近いこの場所を選んだのも、大円形闘技場からこちらへ向かってくるエキドナの視線が、
もしミスティの推測通り、位置を把握しただけなら、まだ勝ち目は残っている。
(〝ご主人様〟〝
(――ミスティ)
周囲に投影されていた仮想画面を全て消し、どうやら撤退を
そして――
「ふふふふ……」
喜んでいるようでもあり、怒りを押し隠しているようでもあり、楽しんでいるようでもあり、悲しみから目を逸らそうとしているようでもある――そんな不気味な笑い声を漏らしながら、長大な影か空中で身をくねらせるようにして飛翔する。
その全長は、およそ50メートル。下半身は、鮮やかな緑の
そんな女怪エキドナが、
そして、――ついに〝怪物の母〟と槍使いの竜飼師が直接対峙した。
エキドナが舞い降りたのは、舞台の四方を囲む観客席の最上段、その後ろの壁の上。長い蛇のような竜の体は、会場の外へ放り出されてズルズルとうねり、大円形闘技場で目視した時には無手だったが、今は、本来の
それに対して、額に装着している〔万里眼鏡〕のプレートを鉄兜の目庇のように下ろしているランスは、一本の漆黒の槍を相変わらずの中段に構え、そこから
「あら? あらあらあら」
既に血塗れで、もう
「私の可愛い坊や達の目を通して見た〔ブリューナク〕。それに、その〔スカーサハ〕。どちらも、あの御方が、配下に使わせるより、敵に奪われて使用される事を恐れ封印する事を選んだ神器」
だから、と言ってエキドナは笑い――
「分かっているのよ。天空城の機能を使えるって事は、ね」
その
エキドナは、その光景をうっとりと眺めた後、妖しい光が消えた目をランスに向け、その場からやや身を乗り出すようにしてしげしげと観察し……
「
口ではそんな事を呟きつつも、その瞳には瀕死の少年を
「貴方の
通常、属性【火】の神器・宝具は、適性属性が【火】の者を担い手に選ぶ。適性が【風】や【土】など他の属性の者を選ぶ事はない。
ランスが、属性の異なる複数の神器・宝具の担い手として認められてしまったのは、卓越した槍の使い手であった事に加えて、適性属性がない、つまり、無属性だったからこそ。
そして、それ故に――
「私が知る限り、貴方だけよ。
そう言うエキドナが見ているのは、腫れ上がってコートの
「逆流した〔
「…………」
「それでも使った。強きを
エキドナは、無言で無反応なランスを眺めながら、本当に愚か……、と呟くように言いつつも微笑み、でも、と続けて、
「その愚かさは、今では伝説として語り継がれている
微笑みを満面の笑みに変えて、ベロリ、と、まるで珍味を前にした品のない美食家のように舌なめずりする女怪。
それから、物騒な得物を手にしたまま器用に上半身をくねらせて
「――貴方は殺さない」
ずるり、と這い進み、
「本当は、殺したくて堪らない。だって、貴方は、私の可愛い子供達を、たくさん、たくさん、たくさん……たくさん殺したんですもの」
ずるり、と距離を詰め、
「だから、何千回、何万回殺しても殺し足りない。でも、殺さない。――どうしてだか分かる?」
また、ずるり、と石橋を叩いて渡るかのように少しずつ、
「それはね、――子を失った悲しみは、子を得た喜びでしか
ずるり、ずるり、と話しながら舞台のほうへ、その中央にいるランスのほうへ這い寄って行き、
「子を殺されたら、殺した人と子を作る――ずっとそうしてきたの。私に敵意や殺意を向け、罵詈雑言や侮蔑侮辱の言葉を浴びせてきた人を、捕まえて、閉じ込めて、たくさん、たくさん、愛して、愛して、愛して、愛して……」
6本の腕で、三つの武器、2枚の盾、一つの道具を油断なく構え、
「泣き叫ぶ声や絶望の表情、枯れた声で
むせ返るような色香を振り撒きながら、
「貴方の子を産むわ。だから、私を抱いて、
怖気が
「今日から毎日、何回でもさせてあげる。何度でもしてあげる」
絶対に勝てない、逃げられない、そう絶望せざるを得ない
「たくさんたくさん
「絶対に殺したりしないし、逃がさない。これからはずっと一緒よ。ずっと、ずっと、いつまでも、いつまでも、いつまでも……」
膝立ちでにじり寄るように接近し――
「…………?」
不意に、ピタッ、と動きを止めた。
そこは、舞台に上がる直前。エキドナの得物の中で最も
ここまで、愛を囁くように、恐怖を
それは――
「…………」
この
並の男は言うに及ばず、どんなに豪胆な勇者英傑であっても、女怪が己に向ける愛情、憎悪、悪意、情欲、妄執、狂気……それら全てを一緒くたにして煮詰めて発酵させたような情動の
そして、恐怖、嫌悪、忌避……そんな感情をどれほど上手く押し隠そうとも、海千山千の魔女であり
だが、ランスは、腰を抜かして失禁するでもなく、死んだほうがましだと
目許は〔万里眼鏡〕のプレートで隠れていて見えないが、顔の下半分から感情の変化は
エキドナには、そんなランスの心理がまるで理解できず――
「…………ッ!」
不意に脳裏を
この段にいたってようやく、エキドナは、目の前の少年の実力を
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