4-3 なにも出来ていないまま、だからな
要はその一言の後、長く沈黙した。雫もその間、椅子から立とうとはしなかった。永遠にも思えた沈黙の後、ようやく要は重い口を開けた。
「正確には、言われた言葉に靄がかかっているような感覚だ。その後に……『なにか』があって、俺は絶望した。そして自堕落に陥った」
「その『なにか』って、全く思い出せないの? 私が、側で見てても? 例えば、手を握ってたりしても?」
「……いや、その前に。なんでそんなに冷静なのさ」
いつの間にか雫の顔が要の目の前にあった。要は慌ててそれを制止し、改めて尋ねた。いくらなんでも落ち着き過ぎに見えた。
「ん? だってさあ、前にも私の前で倒れかけたじゃない?」
「あー……。その節は助かった」
「その時のうわ言とか、春野さんとのお話とかで……。多少の想像は付いていたから」
「ああ……。そうか……。そりゃ、確かにな」
要は椅子に深く腰掛けた。雫も既に元の体勢に戻っていた。意識して呼吸を深くする。
「そろそろ、電気点けるね?」
「ああ」
雫は部屋の電気を点け、戻って来る。しかし自分の席には座らず。要に近寄って来た。
「え……」
要が顔に感じたのは柔らかい感触だった。後頭部には手が添えられている。いい匂いがするのは、きっと香水か何かなのだろう。
「要兄、約束して?」
耳に響く雫の声。要は僅かに声を出し、承諾の意を伝えた。その際に少し彼女が震えた気がしたが、多分錯覚だろう。
「この旅行が終わったら、自分の記憶と向き合って。決着をつけて。それが、私からのお願い」
僅かに後頭部に掛かる手の力が増した。顔にかかる山の感触が、要の脳を灼いていく。言葉が浮かばない。身を委ねたくなってしまう。だが。言わなければならない。
「はふぁふぃふぇ」
要は、背中へのタップと覚束ない言葉で意思を伝え、雫に自分を解放させる。そして、雫に椅子へ戻るように伝えた。目を合わせる。胸の内を伝える。
「決着がつくかは分からないけどさ。やってみる。俺も、このままだと……」
そこで要は一拍置いた。雫が不安げに復唱する。
「このまま、だと……?」
「雫におんぶに抱っこだし。あれだけ色々としてもらって、まだなにも出来ていないまま、だからな」
要が笑顔で言葉を紡ぎ、雫がそれに胸を撫で下ろしたその瞬間。夕食を告げる女将の声が、ふすまの外で響いたのだった。
結論から言えば、夕食は豪華だった。むしろあまりにも豪華過ぎて、両者共に声を失った。いつも通りなら「あーん」や雑談が飛び交うはずだった外食の食卓が、今日に限ってはただただ圧倒されるだけに終わってしまった。
「まあ……美味かったけどな」
「美味しかったけど……。凄すぎだよぉ……」
二人は腹を擦りながら座椅子の背もたれに身を預けていた。美味、そして満腹。それが感想であった。
「風呂も入らないと」
暫くぐったりした後、要がポツリと呟いた。この旅館のイチオシは露天風呂と、ホームページにもそう書かれていた。
「あっ、そうだった! 行こう、要兄!」
その一声で雫が復活し、要の腕を引く。それに引きずられつつも、要は雫の手を掴む。そのまま二人は連れ立って露天風呂へと向かい、更衣室の前で別れを告げたのだった。
「ふいー……。ライトアップですか、ご苦労様です」
汗をかいた身体を入念に洗い、要は湯船に身を浸す。温泉の良し悪しは分からないが、なんとなく染み通る感覚がそこにはあった。湯船から見える風景にはさり気なく火が灯され、夜でも良く見えるようになっていた。
「あー。極楽、極楽……」
お決まりの文句を呟きながら温泉を満喫する要。しかし、その耳に意外な言葉が入る。
「ねえ、要兄。そっち行っても、いいかな?」
それは、聞き紛うこともなき雫の声だった。
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