ep.4-8 水面に映る


「――今日は月の見えない夜か。……真っ暗だな」

 これでは帰る時に足元が見えずに難儀なんぎするなと、ブレイは薄く笑ってみるが、いびつな笑いさえもいまの自分には浮かべられなかった。

 どうやら頬の筋肉は笑顔の作り方を忘れてしまったらしい。


 桟橋のへりに立つブレイは黒々と広がる海を視界に映す。

「帰れなくても構わない、かもな」

 ポツリと零した言葉は冗談だったが、本当は本音だったのかもしれない。

 ――帰ったところで一体何になると言うのだ。

「僕はもう……なにもできない」

 何の為に、誰の為に帰るのか。

 ブレイは自分の主軸を失くしてしまっていた。

 守りたかったものは滑稽こっけいで、浅薄せんぱくな偽りの関係。

 最初からそんなものないのだと分かっていても、ずっと錯覚さっかくし続けてていたかったのは、子が親を思う普遍的なものなのだろうか。

 ただ褒めて欲しかった。認めて欲しかった。愛して欲しかっただけ。


「……滑稽こっけいだ。滑稽だな、ブレイトリア。そんな子供のような、詰まらんことをいつまでも追ってばかりで。そんな夢ばかり見ているから、現実の、……足元に絡んだつたすくわれるんだ」


 まっ黒な海を覗いて自虐の言葉を吐いてみるが、何もかも飲み込むような暗い海はブレイの姿までも飲み込んでその影を映さない。

 泣きたいような気もしたが、生憎あいにく、涙を流すような可愛げのある行為は、トランジニアの一件以来、とんとできずにいた。

 真っ暗な海、真っ暗な空。

 立ち込めた厚い雲は夜になるにつれ薄れてきたが、日が落ちてしまえばそれももう関係ない。

 光のない純粋な黒。

 何も、ない。


 姿を映すこともない黒い海を覗き込むブレイの背に、ふと一陣の海風が吹いた。


 緩やかに髪を弄んで吹き抜けた風に釣られブレイは後ろを振り返る。そこに見えるのはこちらを真っ直ぐ見る人影。

 二人は互いにぴくりとも動かなかった。

 時が止まったような中、暗い夜のなかで、見える筈もないのに視線だけが交錯こうさくする。

 ブレイの深い深い底を思わせる青と、ソカロの陽の光を通す水面の蒼。


 先に視線を切ったのはブレイだった。

 繋がった視線を切って、打ち寄せる波に目を向けたブレイは沈黙の後、口を開いた。


「何の用だ?」

 短く、突き放すような響きであったがソカロは怯まなかった。

「ブレイ。帰ろう」

 真剣な声音だった。

 普段ののほほんとした気配は感じられない、至極真面目な落ち着いた言葉だった。

 その事が余計にブレイの内をざわつかせた。

「帰る? ははっ、お前が心配せずとも僕は帰るさ、一人で!」

 あざけるような口ぶりでソカロの言葉を撥ね返すと、ブレイは口角を引き上げる。

「余計な世話を焼くな。僕は東極部総指揮官とうきょくぶそうしきかん、ブレイトリアだぞ? お前のような下官の者が、容易たやすく僕に関わろうとするな。礼を欠いているぞ。怒りや不快を通り越して……笑いが出る」

 容赦ようしゃなく飛ばされる拒絶に黙って耐えたソカロは、ゆっくりと口を開いた。


「ねえ、ぜんぜん笑えてないよ、ブレイ」


 思いもしなかったソカロの一言にブレイはたじろいだ。


「笑うっていうよりも、それは――」

「……止めろ、それ以上近付くな」


 踏み出されたソカロの一歩に、ブレイは射殺さんばかりの視線を向ける。

 が、ソカロは歩を止めなかった。


「やめろ。やめろ」

 近付いてくる男の影を、恐怖にも似た瞳で凝視しながらブレイはやめろと言い続けた。

 背後は波打つ黒海。逃げ場のないブレイは桟橋のへりのギリギリに立ち、最後は懇願こんがんするように来るなと喚いた。


「もういやだ、それ以上寄るな、」

「やだ!」

 震える声音にブレイが憔悴しょうすいしても、ソカロはがんとして譲らなかった。

 今までいろんなことがあったが、なんだかんだ自分の言うことには従ってきた護衛がまったく取り合おうとはしないことに、ブレイは焦りと同時に深い悲しみを覚えていた。

 ――やはりコイツも僕の願いは聞いてくれない。

 最後は僕を裏切るのだ。他人など信じても最後はこうやって裏切る。身内でさえそうだ。信じてはいけない。誰にも寄りかかってはいけない。

 だって、信じて捨てられるのは自分なのだ。

 ブレイは、ふと力を抜いてソカロを見た。

 ――いや、どうでもいいか。自分を連れて帰りたいのなら、殴ってでも、殺してでも連れて帰ればいい。


 瞬間、ソカロの表情が今まで見たことのないような冷たい顔を見せた。

 次いでブレイの真正面を襲う衝撃。



「う、うわ、な、うわっあああああ!!??」

 胸に受けた突然の衝撃と浮遊感にブレイの口から出たのは情けない悲鳴だった。

 真正面から受けた衝撃にいやおうなく背中から海面に着水し、沈む。身体を刺す水の冷たさと塩辛さ。水の中にいても聞こえる盛大な飛沫音。鼻がツンとして涙が出そうになる。

 ブレイは必死に海面をめざして手足をばたつかせ、なんとか天井を割る。


 「げっほ! 痛っ、なんなんだ、いった……いいい!!??」

 なんとか浮上し息を吸って、非難の言葉を突き飛ばした本人に吐こうと顔を上げれば、此方に向かって飛び込んでくる巨体のシルエット。

「わー! わー! わ、ぶっっ!!!!」


 バシャーーーン!

 先ほどを上回る盛大な水飛沫が上がる。しばしして海面に出た二人は同時にゲホゲホと激しく咳き込んだ。


「げっほ、げほ! 鼻っ、水…! クソ、貴様一体何のつもりだ!」

 ブレイが怒鳴れば、海水で髪の毛がぺたりと額に張り付いたソカロがアハアハと笑う。

 しかしその笑いを早々に引っ込めると、真っ直ぐに海色の瞳をブレイに向ける。

「……さっきのブレイ、泣いてるみたいな顔してたよ」

 ブレイは懸命に身体を浮かせながらソカロの言葉を黙って聞いた。

「俺ね、まだ泣いたことないんだ。もしかしたら記憶なくす前は泣いたことあるのかもしれないけど。俺ね、泣く意味わかんないの」

 ソカロは困ったように笑うと、額に張り付いた髪を後ろへと撫で付けた。

「悲しいってどんなきもち? 泣くってどういうこと? いっしょーけんめい考えたけど分かんなかった。……俺、ばかだし」

 尚も黙ってソカロの話を聞くブレイを見てソカロはゆっくり続けた。

「でも、ブレイに元気がなくなって、顔とかもひどくて、話出来なくて、あーー俺きっと『嫌われた』んだなーって思った。このままずーっとブレイと口もきかなくなって、怒られたり、ほめられたりもなくなるんだって思ったら。なんか……。心臓らへんがモヤモヤしてご飯も、釣りもあんまり楽しくなくて」

 今やブレイはソカロへと真っ直ぐ、苛烈なまでの視線を注いでいた。

「ああ、これが悲しいってことかなあって。涙は出なかったけど、きっとこれが『悲しい』んだ。……ねえ俺がブレイと会ったころ、覚えてる?」

 ソカロの問いにブレイは短く「覚えている」と返す。

「俺、あの頃なんにも知らなくて、いっぱい色んな人にひどいこと言ったし、しちゃったね。それを怒ったのはブレイだった。そんな事をしてこころが痛まないのかってね」

「……忘れた」

 忘れた、と言ったがブレイは覚えていた。

 非人道的な行為を、何の疑いもなくやってのけた目の前の男に恐怖を覚えたからだ。

「こころ、なんて俺は知らない。感じない。いや、分かる気持ちもあるけど。そんな風に言ったらブレイは俺に「なら教えてやる」って言ったね。本当に忘れた?」

「……忘れた」

 いぶかしげな視線を送るソカロは、半ば膨れ面で海面へ顔の半分を潜らせる。

「……ぷは。まあいいや。ブレイは俺をそばに置いて、色んなものを見せてくれて、俺に新しいことを教えていった。…こころも」


 今度はブレイが潜る番だった。

 そわそわと落ち着かないブレイにソカロは言った。


「俺はブレイからたくさんもらった。誰かの為に動くこと、悲しい気持ち、喜ばせたいっていう気持ち、大事なもの」


 なんだかその先を聴くのがブレイには怖くて、何か逃げ道はないかと必死に辺りを探るが、海の真ん中に助けになるようなものは何もない。いい加減、立ち泳ぎにも疲れてきた。


 ソカロはすう、と息を吸って目を閉じた。

 ブレイは予感を感じていた。

 きっとこの男の瞼が開いて優しい海色が見えたら、自分はきっと。


「ば……馬鹿なことばかり言うな! だったらなんだ、それがどうした! 僕には関係ない、放っておいてくれ。じゃないと僕は――。僕はきっと一人では立っていられなくなる。誰かに寄りかかって、勝手に期待をして、失望する! ……もうそんなのはたくさんだ、もうこんな…馬鹿な思いはしたくない……」


 本当は、誰も悪くないことだって分かっている。

 父さんだって悪くない。僕が勝手に期待をしただけ。

 いい子にしていれば、成績がよければ、役に立つようになれば、父はきっともう一度僕を見てくれるだろうと。

 ――ソカロにだってそうだ。僕はコイツの都合も思いも知らぬまま、知ろうともせずにただ自分の期待を押し付けていただけに過ぎない。

 絶対忠実なる臣下。疑わなくてもいい存在。

 自分の望むものを体現する父と臣下。


 人が思い通りにならぬものだということは、よく分かっていた筈なのに。


「……ねえブレイ、寄りかかってもいいんだよ」

 まるで心を見透かされたような言葉に、ブレイは思わず顔を上げてしまった。

 雲間が切れて、月明かりが差す。 

 そこにあったこちらを見つめる二つの海色。

 ブレイはとうとう声を上げて泣いた。

 己を映しこむ穏やかな海が――、寄りかかっても許される場所がそこにあった。




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