ロシアの地にて 第三話

「……うっ………」


 薄っすらと目を開いた圭吾は、横たわっている床の硬さに気づき、起き上がろうと下にしていた腕に力を入れる。しかし、すぐに頭の奥に残る鈍痛に顔を歪めて、再び床に頭をつけた。ざりっという砂の感触が頬に触れる。


(……どこや、ここ……。俺、何して……)


 頭に霞がかかったように、記憶がぼんやりとしている。とりあえず、身体を仰向けにしようとしたが、背中に回った腕が引っかかって上手く体を回転させられない。その時初めて、手を後ろ手に拘束されていることに気付き、圭吾は小さく舌打ちした。


 まずは自分の身体の状況を確認してみることにする。両手は後ろ手に紐のようなもので固定されているらしい。足も足首の辺りをきつくロープで絞められている。しかし、鈍い頭痛を除いては、特段体に痛みや違和感を感じる所はない。

 そうやって自分の身体を確認しているうちに、段々と記憶が読みがってきた。


(そうや。ホテルのエレベーターで…)


 薬剤を嗅がせれられて気を失ったところを攫われただろうことは想像がついた。

 頭痛を我慢して、頭を巡らし辺りを観察してみる。

 倒れているのは自分一人。部下や秘書の姿は見えない。ということは、攫われたのは自分だけということか。


 でも、なんで……。


 理由に頭を捻ってみるが、幾つか思い当たり特定できない。

 身代金目的か。それとも。


 一番考えられるのは、メタンハイドレート絡み。日本資本が入ってくることに嫌悪感や危機感を抱く人々や、メタンハイドレートの開発自体に反対する人々。そういう輩が、今回の共同開発の失敗を狙って、日本側の代表者の一人である自分を攫った……というのが一番考えられる筋か。

 現に今までも、ここまで露骨なものではなかったにしろ、様々な妨害工作を受けてきたのだ。


 次に、今自分が置かれた状況を確認してみる。

 さっきから圭吾の視界に入っているのは、ダイニングテーブルとその両側に6つずつ置かれた猫足の椅子。少し離れて、赤黒いビロードに覆われた応接セット。そこでは3人の屈強な男が煙草を咥えてカードゲームに興じている。そのうちの一人は黒光りするアサルトライフルをローテーブルの上に置いていた。

 この男たちは自分の見張りなのだろう。


 突如、男たちが声を上げた。カードゲームの勝敗がついたらしい。アサルトライフルを傍らに置いた男が歓喜の声をあげる一方、向かいの椅子に座っていた男は不満そうにローテーブルへ手札を投げ捨てた。


 そしていら立ち紛れに立ち上がると、窓際のこちらの方へ向かってくる。

 そこで男は圭吾の意識が戻っていることに気付いたようだった。圭吾の傍までくると唾が飛ぶほどの大声でロシア語を呟いたあと、容赦なく圭吾の腹に向かって硬いブーツのつま先を蹴り込んだ。


「……っぐ……」


 痛みで圭吾は体をくの字に折り、痛みのために体を小刻みに震わせた。

 男は悶える圭吾に罵声を浴びせた後、『Chink!』と言い捨てると唾を圭吾の顔に吐きかけて。清々したというように笑ってカードの続きをするためにソファの方へと大股で戻って行った。


(くそっ……)


 圭吾の瞳に暗い火が揺れるが、それに気づいたものはいなかった。

 蹴られた痛みが薄らぎ、身体の力を抜けるようになってから。さて、と圭吾は考える。


 どうしたものか。

 この部屋にいる奴らは、おそらく依頼主から依頼を受けたロシアンマフィアかギャングだろう。依頼主は、今回の事業を快く思っていない政治家に事業家、事業に一口乗って利権を得たいマフィア自身……心当たりがありすぎて特定できない。

 とにかく。


 あの男たちの隙をついて逃げるべきか。それとも、このまま大人しくしているべきなのか。

 もし身代金目的や事業失敗を狙った脅しの誘拐だったならば、このまま何もせず捕まったままでいる方が得策かもしれない。危険を冒して、もし万が一自分の命になにかあったら。


 自分が死ぬのは別に大した問題ではない。でも、その場合、自分が引き継いでいる呪いは次の身内へと移ることになる。具体的にいうと、妻であり血縁でもある楓子、息子の健吾と和泉の三人のうちの誰かに移るだろう。それだけは、どうしても避けたかった。


 今頃、圭吾が誘拐されたことに気付いた身内や会社関係者が色々な策を練っているころだろう。万が一の危険を冒すリスクを考えれば、多少の身代金や事業後退など大した問題ではない。


 しかし、問題は誘拐犯たちに圭吾を生かして返す意思がない場合だ。

 他の日本企業が手を引くよう見せしめ的に殺すつもりだったとしたら? 

 その場合は、多少の危険を冒してでも自力で逃げ出すべきだ。


(どっちや……)


 どっちを選ぶべきか。

 先程自分に蹴りを入れた男の、酷く冷めた目を思い出す。あの目には覚えがある。昔、よく向けられた目だ。

 記憶の奥にこびりつく。罵り侮蔑する、人じゃないものを見るような冷たい目。屍食鬼ぐーるだと吐き捨てられる声が聞こえてきた気がした。


 内の考えに耽っていると、外廊下の方から革靴の乾いた足音が耳に響いてきた。

 男たちはカードゲームを再開しようと新しい札を配っていたが、部屋に入ってきた全身タトゥーの男のドスの効いた声でその手は止まる。タトゥーの男は丸坊主に、盛り上がった腕の筋肉、太い大腿四頭筋、全身いたるところにタトゥーが掘られている。

 他の男たちが委縮する様子から、この男がここのリーダーだと思われた。


(あの男、あそこにも彫っとんのとちゃうか…)


 なんて胡乱な目で男を眺めていた圭吾は、ひょいと男に軽々と抱き上げられた。


「わわ……」


 じたばたしそうになるが、男の血走った鋭い目で睨み付けられて、しゅんと大人しくする圭吾。

 肩に担がれて廊下を運ばれながら周囲を観察すると、廊下の両側にドアが見えた。床には今は完全につぶれて汚れてしまっているが元は淡い色をしていたと思われるカーペット。

 ここは、今は使われていない廃ホテルのようだった。


 男は廊下の突き当たりにある両開き扉を開けると、その中へと圭吾を投げ捨てた。

 床板に体を打ち付けて、呻き声を漏らす圭吾。


(もうちょっと、大事に扱わんかいっ!)


 きっと男を睨み上げたが、その男は鉄面皮のような無表情で汚いものでも見るような目で圭吾を見下ろしていた。


(あっ……)


 また、この目だ。圭吾は、胸に湧き上がってくる黒い気持ちを堪えるように、唇を噛んだ。


 人は通常自分とは無関係の人間を憎むことはない。接点がないために憎みようがないからだ。

 しかし、例外が存在する。その例外とは、差別意識を介在したときだ。

 人を見下し、価値ないものとして扱う心。

 自分たちとは違う異質を、排除し痛めつけることで鬱憤を晴らそうとする嗜虐心。


 憶測だが。

 男たちが抱いているのは、アジア系の人間に対する差別心。

 おそらく原因は、近年中国をはじめとするアジア諸国から東シベリアに移民が多く移り住んで、仕事を奪いつつあることへの反発。

 自分たちの生活が苦しいのは、あいつらのせいだ。という一方的で暴力的な人種差別。


 この地に住む多くの人間がそうだとは思わない。思いたくはない。

 でも、一部には人種を理由に敵意を露わにするやつらがいる。それは、……たぶん、どこの地域にも。日本だって例外ではない。

 この地では、それがたまたま自分が属するアジア系というカテゴリーに向けられた、というだけなのだ。

 まして、今の圭吾は彼らには、自分たちの貴重な資源を貪りに来る悪魔……ぐらいに見えているのかもしれない。


 その暗く冷たく無機質な目は、自分という存在すべてを否定されたような絶望を感じさせた。

 男は、圭吾を一瞥すると。何も言わずに踵を返して、扉から出て行った。ガチャリと、施錠された音がドア越しに返ってくる。


 そこは、教室二部屋分くらいの大きな部屋だった。おそらく、本来は会議や小さなレセプションなどを行うための多目的ルームなのだろう。

 床に投げ出された圭吾の周りに、室内にいた人々がわらわらと集まってきた。

 この部屋には、ざっと数えて50人くらいの人間が閉じ込められているようだった。


 風呂などほとんど入ってはいないのだろう。雨上がりの犬のような生臭い匂いが辺り一面にたちこみ、少し息を吸い込むと咽かえりそうになる。

 大人もいれば、子どももいた。まだ、赤ん坊と思われるものを抱いている婦人も見えた。


 年齢は様々だが、一様に着ているものは粗末で、いかにも汚らしいなものだった。まだ夜にはまだ寒さも残る5月の東シベリアだというのに、あちこち破れた服を着ているものも多い。伸びた髪は絡まり、櫛を通す一片の隙間もなさそうだった。

 服は洗濯されることもないのだろう。子どもの服の袖口は垢と埃でまみれ、袖で鼻を拭くのだろう、袖がテカテカに光っているものもいた。


 人々は、警戒と好奇心の入り混じった瞳で、じっと圭吾を見つめている。

 沢山の瞳に囲まれてたじろぎながらも、圭吾は、場を和ますためにあははと笑って。


「どうも。お世話になります」


 ぺこりと頭を下げると、何人かの表情が緩むのが見て取れた。

 人々は口々に周りの者と話だし、急に賑やかになる。ロシア語なのだろう。圭吾には何を言っているのかさっぱりだったが。


 彼らは特段、拘束具をつけられているわけではないようだった。

 ただ、この施錠された室内に閉じ込められていることには間違いないようだったが。


(なんなんやろう。この人たち)


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