第198話 巨星、落つ

■1573年3月

 三河国 苅谷

 織田家 石島軍


 次々と飛び込んでくる情報に、俺は必死にそれを整理しようとしている。


「綱忠くん、もっと伊賀の人を使って情報を集めて! 伊藤さんがこんな所で……そんな筈ないんだ、きっとなにか裏がある」

「ハッ!」


 結果としては、武田軍は謎の進路変更を取った。

 一部の武田軍は美濃へ向かったらしいのだが、どうやら信玄さん本人の病状が悪化したらしく、武田軍は奥三河の長篠城で一時休止しているらしい。


「信玄さん、そんなに具合悪かったんですかね」


 つーくんの疑問は当然である。

 村上さん達の関与によって、信玄さんが史実よりも大分元気に過ごしているという予想が、俺達の間ではなされていたからだ。


 そうは言っても何があるかわからない。


 そして、その何があるか分からない世の中を渡って行くためには、どうしたって伊藤さんが必要である。俺とつーくんは伊藤が亡くなったという報らせを全く信じていない。あの人の事だから、きっと何か裏があるはずである。


「殿、百地三太夫殿が参られました」

「すぐにここへ呼んで!」


 しばらくして現れた三太夫さんは、すっかり肩を落としていた。


「も、も、百地さん、あの……」


 伊藤さんの安否。

 百地さんの落ち込みっぷりを目にしたら、怖くて聞けなくなってしまった。


「殿、これを」


 三太夫さんが一通のお手紙を差し出した。


「これは?」


 俺は若干震える手でそれを受け取る。


「伊藤様より。万一の折には殿にお渡しせよと」


 そう言う三太夫さんの表情は、悔しさに満ち溢れていた。

 恐る恐る手にとり、若干震える手でそれを開く。



――君は成長した。

  自分を信じて動く事を忘れずにね。

  それじゃ、後の事は任せたよ! 伊藤――



「なんだよコレ……」


 知らぬ間に涙が頬を伝う。

 感謝の言葉も、気の利いたお別れの言葉もなし。

 あまりに軽いそれだけの手紙。


「なんでだよ伊藤さん……」


 その手紙をくしゃりと握りしめ、俺は地面に崩れ落ちた。



◆◇◆◇◆


◇1573年4月

 信濃国 伊奈郡駒場

 武田軍


 長篠城で療養を終えた信玄は、再び美濃へ向けて進軍を開始。

 だが、その道中で容体を悪化させると、再び倒れ、そしてそのまま帰らぬ人となった。


「三郎兵衛、どうする」


 信玄の亡骸を前に、諏訪勝頼はどうすべきかを決められぬまま、心に穴が開いたような感覚でいた。


「美濃攻めの線は難しくなりましたな。御屋形様が亡くなられたと知れば、我が軍の士気は大いに下がりましょう。その状態で織田との決戦は危ういかと」


 勝頼や山県だけでなく、重臣の多くが同様に考え、また、同様に一つの事を思い浮かべていた。


(こうも時が無いのであれば、三河を制しておくべきであった)


 三河の制圧に尽力していたのであれば、三月をまるまるそこに費やす事が出来た。信玄も存命であったし、三河の平定程度であれば、例え信玄が途中で他界したとしても継続できたに違いない。


(伊藤にまんまと乗せられたか)


 武田軍が去った事で、遠江では徳川家康が勢力を取り戻そうと躍起になっている。


 其方はそれ程の事ではないが、ほぼ無傷で残してきてしまった岡崎の松平家については、当主である家康の子が血気盛んな年代という事もあり、既に奥三河方面での軍事活動が始まったとの知らせもある。


「今更、三河に取って返すも難しいでしょう。美濃へ押し入る事も難しいとなれば。一度、甲府に戻って立て直すより他に道がありますまい」


 信州駒場の夜空に、満天の星が輝く。


 山県は、武田の将来に暗雲が立ち込めぬよう、この晴れた夜空のように明るい未来がくるよう、その身を武田のために投じる事を信玄の亡骸に誓った。



◇同刻

 美濃国 岐阜城

 織田家 石島屋敷


 美紀と唯が手作りの札で神経衰弱を楽しむ横で、瑠衣は伊藤のための脚絆を編む香に裁縫を教わる。

 何気ない平和なひと時を過ごす岐阜城の石島屋敷。


「ふぅ、気持ちよかったけど……」


 湯あみを済ませた優理は、妙な胸騒ぎに落ち着かない想いでいた。

 その様子に気付いた美紀が問う。


「どうした優理」

「わかんない。どうしたんだろう……美紀ねえ、私、何だか怖い」


 直後、廊下をばたばたと駆ける足音が響く。

 青い顔で息を切らせて駈け込んで来たのはお末であった。


「お末ちゃんどうしたの?」


 美紀がそう口にした刹那、この場にいる全員の耳にあの音が入り込む。



 ――ッッツツー ッッツツー



 その妙な電子音に、未来から来ている四人が飛び跳ねた。


「瑠衣、端末は!?」

「えっとえっと、神棚に!」


 唯が飛び跳ねるようにして神棚の上に隠しておいた端末を手にする。それと同時に、美紀が個別で持っていた端末を取り出した。


 この時代に残った端末は二つ。

 一つは、優理の手から弾き飛ばされた端末。

 一つは、唯と瑠衣が戻って来た時に使った端末。


「どっちも鳴ってる」


 その二つが同時に、転送準備を告げる電子音を鳴らしている。美紀は小さく唇を噛み、その場に同席していた香とお栄、そして駈け込んできたばかりのお末に告げた。


「ごめん、私達これからちょっと奥の部屋に籠る。誰も来ないでほしい。そして、もし、もし……」


 言い淀む美紀の背後から、こちらも湯あみを済ませた陽が顔を出した。


「あら、皆さん揃ってどうなされたのですか?」


 陽がそう言うのと同時に、瑠衣が陽へと飛びついた。


「陽さん、あのね……」


 だが、言うに言えぬ。

 それでも、石島から色々と聞かされていた陽だけはこの状況を何となく悟った。瑠衣の頭を優しく撫でると、凛と言葉を発する。


「言わずとも結構ですよ。時が来たのでしょう? さあ奥の間へ。わたくしたちはここにおりますから、遠慮はいりません」


 潤んだ瞳に、悲し気な覚悟が灯る。

 たまらず、今度は美紀が陽を抱きしめた。


「行くのは私達だけです。殿も、伊藤さんも、須藤さんも。あと金田さんも、まだ行きません」

「そうですか、少し安心しました」



 ――ッッツツー ッッツツー



 電子音だけが響く。


「行こう」


 美紀の言葉に頷く一同。

 ただ、優理だけは立ち上がる事が出来ずにいた。


「優理」


 唯の声掛けも虚しく、優理は微動だにしない。



 ――ッッツツー ッッツツー



 美紀がそっと優理の肩に手を置いた。


「引きずってでも連れていく。後の事は、信じるしかないだろ」


 ついに大声を上げて泣き出した優理を、美紀がぐっと抱きかかえる。


「さあ行こう。チャンスを逃すわけにはいかない」

「はい!」

「はい!」


 泣き喚く優理を三人で引きずりながら、奥の間へと姿を消した。


 残されたのは、この時代に生きる四人。

 美紀達の背を黙って見送った香が、寂し気な瞳をお末に向けた。


「お末、修一郎様の最期を聞かせてください」

「え? あの、私はまだ何も……」


 そう言いながらも、お末の両目から床へと涙が落ちる。

 香の言葉に困惑したのはお末だけではない。

 陽もお栄も唖然としていた。


「修一郎様より、此度のお覚悟をお伺いしておりました。戦が終わったら、私は高野山へ出家致します。お栄、共に参りますか?」 

「お香様、あの……」


 お栄も賢い女である。既に多くを悟り、涙を流して床に伏せた。


 室内で泣き崩れる二人の侍女と、その背に優しく手を添える伊藤の妻。

 その三人から目を背けるようにして、陽は廊下へ出ると空を見上げた。そして薄い雲に覆われた月に、小さく独りごちる。


「殿……どうかご無事で」


 唐突に訪れた別れの時。

 ただ自分の主だけはどうにか無事でいて欲しい。

 また新しい帷子を設えたい。

 それだけを思い、冬の乾いた風に己の泪を泳がせた。



~第二幕 郡上八幡編 完~

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