第185話 比叡山燃ゆ
■1571年9月
近江国 大津
石島家
俺達は久しぶりの出陣命令で近江まで足を運んでいる。
約一年近くの間、郡上も伊賀も平穏な日々が続いていたが、織田家全体はそうでもない。
五月初旬には北近江横山城の木下さんが浅井長政さんに攻められ、激せの末にどうにか撃退に成功。
同じ月の下旬。昨年、俺達が散々な撤退戦をしている間に織田信興様を攻め殺害した、『長島の一向一揆』を殲滅するための作戦が行われたが、これは珍しく惨敗となったらしい。
織田家随一の猛将である柴田さんが手傷を負い、美濃三人衆である氏家さんが戦死する程なので、それはそれは惨敗であったのだろう。
伊賀の伊藤さんは大和の松永さんと協力して大和の調略にあたっているらしいが、これはなかなかに上手くいかないらしい。
伊藤さんからのお手紙では、どうやら伊藤さんはあまり本気で取り組んではいないようだ。あまり本気でやって時代を変革に導いてしまうのを警戒しているらしい。
金田さんは摂津の安定の為に奔走中。摂津の御代官様として日夜忙しく働いているらしい。代官というのが何をする仕事か俺はよくわかってないが「越後屋お主も悪よのう」とか言いながら何かをするのだろう。
そんな中、俺達の陣所には頼もしい副将の存在がある。これで俺はますますお飾りだ。
「殿、本隊は比叡山をぐるりと包囲するみたいです」
「そっか。俺達はここら辺で待機ぽいね」
稲葉さんの所で実戦経験を積み重ねたつーくんが、稲葉さんのご厚意で石島家に帰参しているのである。
秋空にはまだ早く、夏の気配が色濃く残る。琵琶湖は相変わらず広大で、一日中見ていても飽きないくらい雄大だ。
俺達が着陣しているこの大津は、一年前の思い出が深く刻まれた地点と言える。あの時皆を助けてくれた畑佐六右衛門さんの息子さん義太郎くんも、今では畑佐重義と諱(いみな)を名乗り、遠藤義胤くんと共に侍大将として大原ブラザーズを支えてくれている。
新しく再編された郡上八幡の兵は現状まだ五百騎。今後増やしていく予定ではあるが、とりあえず今年の年貢収入を待ってから考える事になっていた。
今回の出陣が激戦にならない事は嬉しいが、それでもやっぱり比叡山の焼き討ちは気が引ける。ここに着陣するまで、織田軍は南近江で敵対姿勢を見せた城砦を幾つか攻略しているらしいが、相手がお寺では話が違う。
それに伊藤さんから聞いた比叡山焼討がその通りになるとするならば、そこには居合わせたくない。
俺と同じように琵琶湖を眺めながら、つーくんは少し遠い目で語りかけてくる。
「伊藤先輩の話じゃ、やっぱり比叡山が焼き討ちされるみたいですから。あまり乗り気じゃないこっちとしては、ここで待機のほうが有難いですね」
クソ坊主どもをやっつけると言っても、どうやら寺に囲われている女子供まで皆殺しになったという伝承があるらしい。そんな役目を言いつけられても出来る自信がないので、この待機は本当に助かる。
「だよね」
合戦場における凄惨な場面にはもう何度も出くわしてきたが、流石に非戦闘員の殺害となれば罪悪感に押しつぶされるかもしれない。
「殿、たまには弓で勝負しません?」
重苦しい空気に気を使ったのか、つーくんが弓を引き絞る動作をしながら俺を誘ってくれている。
今までも何度かやってみたのだが、つーくんの弓の腕前はかなりの物だ。俺も負けじと訓練に励んではいるのだが、正直勝てる気がしない。
「よし、つーくん三本ハンデね!」
「えー。三本は多くない? 二本でしょ」
こうして始まった陣中弓矢大会は、十三くん、十五くん、遠藤くん、畑佐くん、吉田くん、粥川くんまで参加して行われ、俺はダントツのビリに終わった。
◆◇◆◇◆
◇1571年9月10日
近江国 宇佐山城
織田軍
数日前から比叡山側の使者が引っ切り無しに織田信長の元を訪れ、降伏を願い出てはいたものの尽く拒否され続けていた。
前年の志賀の陣においては、織田信長の側から比叡山延暦寺に対して再三に渡る懐柔策が提示されていた。比叡山の安全保障や土地の回復までを条件に、武士として誓を意味する
比叡山延暦寺は戦闘集団という訳ではない。
織田軍に包囲されてどうにかなるような防御設備もない。前年は朝倉・浅井の手勢があったために強気の姿勢を貫いたが、事ここに及んではなす術もないと言ったところか。
それでも延暦寺側には、織田が講和に応じるであろうという浅はかな憶測があった。比叡山延暦寺が武家と敵対するのはそう珍しい話ではない。
それこそ数百年に渡り仏教の頂点にあるこの場所は、例え武家とやり合ったところで、武家の側にいる熱心な門徒に庇われ、守られてきた歴史がある。
「主だった僧は全て捕え打ち首と致せ。その僧が抱える子女も見逃してはならん。抵抗する者は尽く討ち取れ」
信長の命令により、翌十一日には織田勢が比叡山に迫る。比叡山側も一応の反応を見せ、坂本や堅田に在中していた僧兵が比叡山に登った。
「自分達は安全だと思い込んでおる。これからの世はそうならん事を知らしめるのだ」
山城と近江の国境に位置する比叡山延暦寺に対し、織田軍はその圧倒的陣容を以て山城側、近江側までを完全に包囲。文字通り蟻の一匹も通さない布陣を展開している。
江南で腹心しきらない小勢力を潰して回った織田軍は、その勢いのままに比叡山に討ち入りを行う予定であり、包囲軍の一角で軍議が開かれていた。
既にやるべき事が見えている以上、特段多くの意見が述べられる事もなく、主の下知を待って山道を駆け上がるだけとなっている。
「夜となれば闇夜に紛れて逃れる者も多くなりましょう。ここは敢えて早朝より攻撃を仕掛け、尽く討ち滅ぼすが宜しいかと」
池田恒興の案を採択した織田軍は、翌十二日の早朝から一斉に山道へ押し寄せた。
鉄砲で武装した僧兵に多少の抵抗は見られたものの、よく訓練された織田の大軍には歯が立たず、比叡山延暦寺に登った織田勢は高僧学僧を問わず尽く捕え、本来はいる筈の無い僧の妾や遊女を含む千人近い子女までも捕えると、その全てを処断。
女子供が泣き叫ぶ声が木霊する中、どこからともなく上がった火の手が延暦寺の本堂を焼いた。
その火を宇佐山の城から望む織田信長は、着実に足元を固めている事へ一つの満足感を持っていた。
(これでよい。ひとつひとつ、地道に潰していくより他にない)
対外的には実に着実に足元を固めつつある。近年急拡大した織田家は、この段階にあって地盤を強固にする方針に全力を注いでいた。
(一つ片付けばまた一つ……遠いな。新たな世は遠い)
この年、織田信長は領土拡大よりも地盤固めに終始したと言って良いだろう。それは、次の段階へ進む為にどうしても必要な時間であった。
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