第180話 志賀の陣 五

■1570年9月19日 夜

 近江国 坂本付近

 石島隊


 先行して味方と合流した俺達は、直に負傷者の手当てに入ったが、これはどうにも間に合いそうもない。十三くん率いる郡上の本隊が到着次第、直にでも撤退に入らなければ俺達も危ないのだ。

 負傷兵全員を連れて撤退したいのは当然なのだが、これでは何人連れていけるかわからない。


「こちらです」


 俺は森さんの家来に連れられて、森さんと九郎様がいる場所へと足を運んだ。

 今まで沢山の悲惨な光景を目にしてきたが、親しい友人の無残な姿に、俺の頭は真っ白となる。


「九郎様……九郎様! 九郎様! 洋太郎です、石島洋太郎が参りました!」


 既にいくらかの手当ては行われているが、出血の量は見当も付かない。この状況では、美紀さんが持っている未来の応急セットがあった所でどうにもならないかもしれない。

 九郎様の甲冑は血と泥に塗れ、普段から目にしていた煌びやかな甲冑と同じ物だとは信じがたい程になっていた。


 寝かされているのは、民家の戸板であろうか。木の板の上に寝かされているのは分かるのだが、その板は九郎様の物であろう大量の血液が海を作っている。

 同じように寝かされている森さんは、薄暗い中でもよく分かる程に顔色が真っ白であり、既に呼吸も停止しているようだ。


(くそっ。なんで、なんで)


 怒りなのか、悲しみなのか、分からない。

 胸がギュッとなって苦しい。知らない間に俺の両目は滝のように涙を流していた。


「洋太郎……何をしに来た」


 まだ辛うじて意識があるようだ。九郎様は蚊の泣くような声で返事をしてくれた。青白い顔色で両目は開く事なく、無表情のままだ。


「九郎様を助けに来たのですよ」


 涙に奮えそうな声をどうにか堪え、俺は九郎様の顔のすぐ横に膝を付いた。


「洋太郎、生きよ。俺の事は置いて行け。生きるのだ」

「生きますとも。九郎様と一緒に、生きます」


 僅かに、九郎様の右手が上がった。

 どうにか動かしてくれた右手をがっちりと掴む。血に染まった右手を。


「洋太郎、俺は先に行くがな、直に来てはならんぞ。仕度がある」

「何を申されます。生きるのです」


 隠そうとはしていたのだが、きっともうばれている。俺の声は完全に震えており、涙はどうしようもなく溢れ出ていた。


「よい。洋太郎、地獄でな、鬼共を配下にして閻魔大王を討ち果たそうと思うのだ。先に行って仕度をしておく。どうじゃ」


 血の気の退いた顔色のまま、両目を閉じたまま、イタズラな笑みを浮かべる九郎様は、きっともう、自分が助からない事を知っているのだ。


「九郎様、女子はよろしいのですか?」

「……洋太郎には適わん。鬼も閻魔大王もやめじゃ。地獄で西洋美女を集めて酒宴でも楽しむとするか」

「そうですとも。九郎様には酒と囲碁と女がお似合いです」


 九郎様の冗談に少し冷静さを取り戻した俺の耳に、十三くんや畑佐さんが合流したであろうと思われる騒がしさが入ってくる。


(つれて帰らなきゃ)


 織田弾正忠の弟、尾張野府城の城主、織田九郎信治様だ。敵にしてみれば格好の手柄首となる。


(絶対、首なんか取らせるものか)


 九郎様の手を握る俺の両手に少し力が入った。


「洋太郎、そう言えばまだ紹介してもらっておらんぞ。西洋美女を紹介すると……申した……では、ないか」


 紹介しろとは言われたが、紹介するなどと言った覚えはない。


「では、京に戻ったらご紹介致します。それまでお気を確かにお持ちください。それと、そのお体では西洋美女をお楽しみになる事も出来ませんから、早く治して良くなって下さい」


 精一杯、笑顔で言ったつもりなんだけど。

 笑顔を作れた自信はない。


「……そうか。ならば死ねぬな、洋太郎も死ぬなよ。紹介して、もらわねば……ならん、からな」


 そう言った九郎様は、ようやく目を開いた。


「洋太郎……俺は、俺はな、洋太郎を友と思うておる」


 開いた九郎様の両目から、一筋の涙が零れ落ちた。


「俺もですよ。九郎様は友です。大事な、大事な友です!」


 信長様の弟さんにも関わらず、俺のように弱く、軟弱で、優柔不断で、バカで、無責任で、どうしようもないヤツが、友と言って貰えるなんて、俺はもう人目も気にせずぐしゃぐしゃになって泣いている。

 とにかく、この人がいてくれたお蔭で、俺はこの時代にどうにか馴染んでこれたと言ってもいい。伊藤さんや、つーくんや、陽や、皆の事もすごい大事だけれど。


 九郎様はちょっと違う、なんだか特別なんだ。

 その時、涙で歪む俺の視界の隅に十三くんの姿が入った。

 十三くんは急いで撤退したいのだろう。にも拘らず、俺と九郎様のやり取りを黙って見守ってくれている。


 そうだ。

 ここでのんびりはしていられない。


「九郎様、これから撤退します。ちょっと大変ですけど、一緒に行きましょう」


 俺は溢れる涙を堪えようともせず、近くにいた九郎様のご家来に板を担ぐように指示。九郎様を乗せた戸板は四方から持ち上げられ、同様に森さんが乗った戸板も持ち上げられた。


「九郎様、踏ん張りましょう」


 断腸の思いとはこういう状況を言うのだろうか、握っていた九郎様の手を離し、そっとその体の上に置いた。


 俺には俺の仕事がある。

 ここから、朝倉勢、浅井勢の包囲を突破して生きて帰らなければならないのだ。


 なんとなく分かっている。

 返事がないのも、手に力がないのも、お別れの時が来たからであろう。


 その表情はどこか安堵の色というか、満足気な印象を受ける。


 九郎様の戸板を運ぶ家来さんの一人がすすり泣く音が聞こえてきた。他の家来さんに「泣くな」と叱咤され、十三くんの指示を受けて九郎様のお体を運んでいった。


「十三くん、行こう!」


 九郎様の血で真っ赤に染まった手で、涙を拭う。本当に大変なのはここからだ。来た道を戻り、船に乗って守山城を目指すのだ。


「殿、京を目指しませぬか」

「京?」


 十三くんが言うには、既に北側は朝倉勢で埋め尽くされているらしい。今更戻ろうとするのは無理があるとか。


 更に、南西の方角、坂本の町から南下しようとすればそこには宇佐山城がある。その方面から阪本の西側にかけては、比叡山の僧兵さん達ががっちり固めているとか。


「このまま湖岸を南下し、一気に大津を抜けて京まで戻りましょう」


 俺達が生き残るためには、近くの拠点に入ってしまうのが最も良い。けれども、それをさせじと敵さんも手を打ってくるだろう。

 敵は俺達が阪本の町を奪還する事や、坂本の町を抜けて宇佐山城へ入る事を警戒しているらしい。勿論、守山に戻してくれる気も無さそうである。


「わかった。湖岸を南下するにしても敵の包囲や追撃は厳しそうですけど。敢えてそちらを選択するという事ですね」


 逃走距離が長くなれば長くなる程、追撃を受ける側が厳しくなる。なるべく近くの拠点に入るのが絶対的な正解だ。

 だけどやっぱり、そこは相手のある事。


「はい。敵の裏をかかねば生き延びられませぬ」


 十三くんの表情には、確かな覚悟が見て取れる。絶対に生きて帰ろうという覚悟だ。


 俺達は十三くんの進言を取り入れる形で、坂本の町にも宇佐山城にも向かわず、直接的に南下して少々ロングランで大津を目指す事となった。

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