第177話 志賀の陣 弐

◆◇◆◇◆


◇1570年9月19日 昼

 近江国 坂本

 織田軍


 石島隊が堅田へ渡る事を決意した頃、坂本の町で防衛線を張っていた織田軍は朝倉勢の強襲をどうにか凌いでいた。


 各方面で銃声が響き、怒号が響き渡り、戦は時間を追うごとに激しさを増していく。


 朝倉軍の先鋒を務めた一門衆筆頭、朝倉景鏡をどうにか押し返す事に成功するも、大軍勢を要する連合軍からは次々と新手が繰り出され、織田勢は徐々に追いつめられていた。


「伝令! 青地茂綱様、討死!」


 織田方で参戦していた近江の国人衆、青地の討死が森の元へと知らされる。


「町口が破られたか。尾藤隊に後詰めさせる。伝令、尾藤兄弟に町口へ回れと伝えよ!」

「ハッ!」


 宇佐山城の守備に二千騎を残し、僅か千騎で坂本の町を守備する織田勢は、時間の経過と共に疲労の色を濃くしている。


 本陣と呼べるような場所はなく、最前線で敵を薙ぎ払いながら全体の指揮を取る森可成自身、既に幾本かの矢を受けて大いに負傷していた。


(これはもたん、宇佐山に退くか)


 坂本が破られれば宇佐山である。そして、宇佐山が破られれば守備の備えが整っていない大津、更には京が狙われる事になる。


(宇佐山城一枚で守るのは心もとない。どうにか阪本を堪えたいが)


 宇佐山城が最後の砦と言えば聞こえはいいが、最後の砦しかない状態では満足な防衛などしようもない。ただ貝のように城に籠るだけでは、大津も京も守れないのである。


「者共、今一度、今一度奮え! 織田の危機、我等が支えるのだ!」


 子細までは伝わって来ていないが、南近江では六角氏が再蜂起。更に湖北から湖東では京と岐阜の連絡を絶つべく浅井の別働隊が活動しているとの知らせを受けている。


 南近江の柴田勝家も、湖東佐和山城の備えに置かれている丹羽長秀も、そして浅井家本拠地である小谷城と目と鼻の先にある横山城の木下秀吉も、其々の対応に追われているであろうと考える森可成は、この期に及んでもどうにか自分達が阪本を支える気でいた。

 森の叱咤に勇気を取戻しながら、終わることの無い波状攻撃に耐える森隊は、既に疲労の蓄積が限界まで到達している。


「申し上げます! 九郎信治様、ご負傷、間もなく此方へ!」

「なっ」


 別口の守りを担当していた織田信治の軍勢は、朝倉軍の猛攻に耐えながら更に側面から浅井長政率いる浅井本隊の挟撃を受ける形となり、ほぼ壊滅状態となった。

 日が傾く前に阪本の町は他方面から突破され、織田軍は幾重にも包囲される状態となって徐々にその数を減らしていく。


「西へ向かえ! 西に突破口を開き宇佐山へ退くぞ!」


 森可成の撤退命令が出された直後、事態は更に悪化する。


「申し上げます! 比叡山の僧兵が寄せて参ります!」

「何じゃと」


 森可成は色を失った。


 石山本願寺挙兵の件は既に耳に入っていたが、まさか本願寺勢力と険悪な間柄の比叡山延暦寺までもが織田に敵対するとは想像もしていなかったのである。

 撤退路に選択した西側の山岳地に位置する比叡山から、鉄砲や薙刀で武装した僧兵集団が下山。織田軍の退路を断つようにしながら阪本の町へ寄せていた。


(これまでか)


 状況に落胆する森に対し、深い手傷を負った織田信治が自らの血と敵の返り血に塗れた右手向けると、森の肩を弱弱しく掴んだ。


三左衛門さんざえもん、どうにか突破いたせ。俺の事は構うな……京を守るのだ」


 織田信治にしてみれば、例えここで死のうとも織田家を守るのが優先である。それは即ち、京を守る事である。

 だが、森可成にしてみれば、今更京を守ろうとしてみた所で、宇佐山城までたどり着く事も出来ないと思っている。


 西へ抜けられればまだしも、比叡山延暦寺の僧兵は完全に予想外であった。となれば、この期に及んで森が出来る事は限られている。


「このまま琵琶湖へ飛び込めば逃れられましょう。北も南も、西も敵で満ち溢れております。東しか御座りませぬ」


 東一面はに広がる琵琶湖へ逃れれば、あとは泳げさえすれば守山である。だが阪本あたりから守山まで泳ぐには少々距離があり、普通であればそんな場所は渡らない。

 朝倉浅井の連合軍も船まで出して琵琶湖の封鎖をするには至っておらず、坂本から琵琶湖渡るのが如何に考えづらい話であるかという事である。


 だからこそ、退路があるとすれば東側。即ち琵琶湖以外に道は無い。


「三左衛門、この傷で泳げとは無理な注文じゃ。それにな、宇佐山はどうする」


 今にも消え入りそうな声で語りかける織田信治に、それでも主の弟として助け出す事を念頭に置く森可成が、元気づけるように言い聞かせた。


「宇佐山の城は我が家中の者に任せております。そう簡単には落ちませぬ。まずは九郎様共々、ここを落ち延びる事こそが肝要」


 既に立つ事さえままならない織田信治を、甲冑を付けたまま背負い上げた森可成は、直に東への撤退を開始。

 その森可成の指示で湖岸へ先駆けし、どうにか船を手に入れようとしていた配下の兵が駆け戻ると、一つの光明を齎すとも言える報告を上げた。


「申し上げます、守山方面より船団! 御味方が堅田へ押し渡っておる様子!」


 この知らせに森の兵には喜ぶ者も多数いたが、味方が堅田へ上陸した所で自分達の窮地に変わりは無い。


「者共、味方をあてにするな。船を手配し我等も琵琶湖へ出るのだ!」


 堅田の地へ渡った味方がどれ程に奮戦しようとも、相手は三万を超える大軍勢に比叡山の僧兵までが存在している。打ち破る事は到底かなわず、ある程度の所で退く意外に選択肢はない。


(郡上の軍勢か、骨のある事よ)


 とは言え阪本を攻撃する敵勢にしてみれば、堅田は背後に位置する事になる。


 織田勢に背後を取られたとなれば、それ相応に対応しなければ被害は小さくはない。そこに発生する筈の一瞬の隙に、主の弟である織田信治を助け出す。今の森に出来るのはこの程度でしかない。


「船を探せ! 船をさが……」


 その時、森は目の前が真っ白になり、背負っていた織田信治もろとも地面へと倒れ伏した。直に森の配下が駆け寄るが、森は意識を手放す寸前である。


 昼前から続いた戦闘で、無数の矢傷、刀傷を受けていた森はその出血が仇となり、ついには体の自由を失ったのだ。

 返事のない主を案ずる森家の面々は、皆一様に守山から琵琶湖を押し渡る船団に一縷の望みを託しつつ、朝倉勢の追手から身を隠すように湖岸で船を探す。


 だが、森可成よりもいくらかましではあるが、既に体が思うように動かない織田信治だけは、森家の面々とは違う事を考え、琵琶湖を渡る船団に向け言葉を投げかけていた。


「洋太郎、来てはならん、引き返せ」


 どうあろうとも絶対に聞こえる事はない遠目に見うるその船団に、織田信治は震える声で、何度も、何度も言葉を投げかけ続けた。


「洋太郎よ……引き返せ」


 風にかき消される程のか弱い声で言葉を発しながら、どうやら左わき腹に受けた槍が致命的であると知る。体の各所に受けた傷はどれも大いに痛み、どの傷が最も深いかなど分からない程であった。


「頼む、引き返してくれ……洋太郎、来るな」


 真っ赤に染まった両手は小さく振るえだし、両の目には薄らと涙が浮かんでいた。

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