第171話 武田信玄

◆◇◆◇◆


■1570年7月3日

 駿河国 駿府城

 武田家


 武田信玄の創業期を助けた両腕とも呼べる譜代家臣、板垣信方と甘利虎泰が戦死した後、武田家の政務は当主信玄に集約され、信玄本人は政務室を兼ねるかわやを設け、その中でまで政務に追われる程の激務をこなし続けていた。


 その厠こそが日本初の水洗便所であるとされているが、それはまた別の件。


 激務に追われる日々に体調を崩す事もしばしば見受けらたが、信玄のその努力は統治面において大きな成果を上げている。


 甲斐信濃だけでなく、西上野や飛騨の一部、更には駿河にまで広大な勢力を保持しながらも、権力の一極集中化を成功させていたのだ。


 急成長を遂げれば必ず一つの壁に当たる。領国の運営である。

 武田信玄は勢力圏に収めた地の豪族、地侍と呼ばれる大小の諸勢力をそのまま抱き込む形での運営手法をよく用いた。それは細分化されやすい山岳地帯ならではと言える。


 山を、川を、谷を隔てては統治する者が違う。

 その上、人の流動が少ない山岳地帯では、古くから存在する統治者の家柄が地元住民の根強い支持を受けており、簡単に排除する訳にもいかないのだ。


 そうなれば当然、独自に領国の統治を押し進めようとする輩が現れるが、武田信玄はその独自統治をするに当たっての許可を武田家が取り仕切る事でこれを集約した。


 織田家をはじめとする平野部の大名と違う点は、拡大した領土を武田家の臣下に与えなかった事であろう。先祖伝来の地を統治する事に強い執着を示す諸豪族の土地を取り上げ、武田家の人間が統治者として入り込む事が困難であったのだ。


 平野部のように人の流動が多く、地元住民がそれほど統治者に対する思い入れが無い地域では、この限りではない。

 新しい統治者がどのような統治をするかを見定め、納得がいかなければ反発し、納得がいけば大人しく従う。その程度の話である。


 その点、田舎の山岳地を拠点とする大名は、平野部の大名と比べると領国の拡大における難易度が桁違いであろう。

 武田家も類に漏れず、大よそ二十年を費やしてようやく信濃を手中に収め、そこから数年かけてどうにか西上野にくさびを打ち込んだ程度である。


 尾張を統一した織田信長が美濃一国を手中に収めるまでに費やした時間が十年足らずであった事を考えれば、武田信玄という人物は織田信長の足元にも及ばないか、もしくは高難易度の山岳地帯で神業をやってのけた偉人かのどちらかであろう。


 そんな武田家の苦悩は、軍事面でも影響していた。


 武田家は各地の要所に重臣を代官として配備し、その方面の諸勢力は有事の際にはその武田家の重臣の元へ馳せ参じ、その重臣の兵として働く事になる。

 武田家が直接的に管理せずとも集まるので効率的ではあるが、それはあくまで武田家が「強ければ」の話である。


 強ければ誰しもが武田の勝利を疑わず、喜んで馳せ参じ、大いに奮戦するであろう。しかし武田が弱ければ、負け戦に本気で参戦する者などいるはずもない。


 この年、長らく空席となっていた「職」に山県三郎兵衛昌景が着任。同じくして原昌胤が着任し、十数年ぶりに両職の席が埋まった事で、武田信玄は激務から解放されたと言っていい。


 これは、任せられる所まで自分で積み上げ、成功を収め、その上で部下にしっかりと引き継いだ。と表現すべきなのか。

 それとも、任せられる部下が存在しなかったのか、はたまた権力の一極集中化を急いだのか、何かしらの要因があって任せる事が出来なかった。と表現すべきなのか、今となっては答えを求めるのも難しいであろう。


 両職に就任した両名は積極的に多方面に関わり、多くの文章を発給し、相変わらず武田家の本拠地は甲斐国甲府(府中)に置かれ続けるのだが、両職の方輪を担う山県昌景は、部下の進言を用いる形で武田家の政務機関の改革に成功していた。


 いよいよ夏らしさを見せ始めた駿府城に、一見すると子供かと見まがう小男の姿がある。


 名を山県三郎兵衛昌景。


「お館様、随分と顔色がよろしくなられましたな」


 報告のための駿府城奥の間を訪れ謁見した山県昌景は、主信玄の顔色を見て素直な感想を述べた。


「水が合わねば体調を崩すと思うていたがな、甲斐の水も駿河の水も同じ富士の水。過ごしやすい分、駿河におったほうが体も楽らしい」


 長年に渡って度重なった出陣と、ゆっくりと用を足す事も許さない激務は信玄の身体を着実に蝕んでいたのだが、信玄の身体はこの数ヶ月で見違える程に健康的となった。


 甲府盆地は寒暖の差が激しい。

 夏は蒸し風呂のように熱く、冬になれば豪雪に見舞われる事も珍しくない。温和な気候の東海道とは大いに違いがあったのだ。


「隼人も良くやっているようです。甲府の事はご案じ召されますな」


 そう言いながら、抱えていた帳面を差し出す。


 武田家の両職のうち、原昌胤は甲府に在番して多方面から寄せられる政務と日々格闘し、山県昌景は甲府と駿府を行き来しながら、信玄に直接よせられる物の処理と、主に他国との外交についてを取り仕切っている。


「信濃は、上野はどうじゃ」

「ハッ、諏訪四郎様、馬場美濃守殿、内藤修理亮殿、其々特段の事もなく」

「然様か、上々」


 現段階における武田家の最重要課題は、駿河の地を「武田家の領地」として帰属させる事である。


 史実では、武田信玄本人が土地に縛られ、生涯その住居を甲府の躑躅ヶ崎館から移す事は無かった。

 武田信玄にせよ、上杉謙信にせよ、北条氏康や毛利元就にせよ、織田信長よりも前の世代の英雄たちが誰一人として織田信長に及ばない点がここであろう。

 彼等は皆、土地という亡霊に取り付かれ身動きが取れなかったのだ。それに比べ、生涯で数度その拠点を移し、死の直前にも移転を計画していた織田信長はよほど合理的思考であったと言える。


 山県昌景は部下からの進言でその合理性をくどくどと主信玄に説き、昨年末から駿河に移っていた。武田家の拠点を駿府に移すという話にまではなっていないが、当主が駿府へ長期滞在しているという事実だけでも大きな進歩である。


「弾正忠めが浅井朝倉を打ち破ったとか。公方様さえ後押しして下されば我等も動けるというに、未だ弾正忠をたのんだままで御座りましょう哉」


 昌景が報告するまでもなく、姉川の件は信玄の耳にも入っている。

 秘密裏に届けられた足利義昭からの書状では「信長の増長には手を焼いている」程度の愚痴が記載されているだけであり、これを討伐して欲しいと言う程の内容ではない。


「あまり申すな三郎兵衛。松の件もある、婿殿の家じゃ」


 優しく笑った信玄の目に、昌景は薄光を帯びた覚悟を見る。


(遠慮なく潰しにかかるおつもりか。あとは時期だけ)


 信玄が『申すな』という事は『論じる必要がない』という事であり、何も心情的な話をしている訳ではない。

 既に織田と事を構える覚悟は定まっており、あとはその時期を待てという事だ。


「先般、相模の板部岡と申す坊主が参りましてな」


 信玄の意向に添う形で話題を切り替えた昌景は、つい先日北条家の非公式な使者として昌景個人を訪ねてきた僧の事を話し始める。


「どうも北関東が落ち着かぬようですな。三増峠の傷も癒えぬうちに里見にも手を焼いているようです」

「然もあろう。常陸への支援を怠るなよ」

「ハッ」


 上杉北条の両家を敵に回した武田家は、足並みの揃わない上杉北条両家を相手に実に巧妙に立ち回っている。上杉北条両家の間に取り交わされた越相同盟に、信玄は付け入る隙を見つけては事細かに引っ掻き回していた。


 越相同盟の諸条件にごたつきがあり、八月中旬までに行われる予定だった上杉による武田攻めは一向に準備の整う気配が見られない。それどころか、上杉輝虎本人が越中に在陣中でどうにも身動きが取れない。

 その上、元々は関東の統治を巡って激しく争った両家に対し、其々に力を貸してきた北関東の諸豪族が越相同盟に猛反発したのである。


 上杉に与して北条と争っていた者、北条に与して上杉と争っていた者。この両者が今まで通り北条や上杉と争うには力が必要である。そしてそれを恃む相手として、上杉北条の両家が敵対を決めた武田家が急浮上。


 当然それを見越していた信玄は、北関東の各地への支援を買って出ると同時に、上杉と同盟して北条と対抗していた常陸国の佐竹氏とも外交関係を構築。上杉を恃む事が出来なくなった佐竹氏も、北関東の諸勢同様に甲斐武田家に急接近していた。

 更に武田家は、長年に渡り北条家と争い続けている房総半島の里見氏と同盟関係を構築。それにより、関東では北条包囲網さながらの状態となっていた。


 前年には三船山合戦で里見氏に敗れ、三増峠では武田軍に敗れ、この時期の北条家は風前の灯と言って良い程にその勢力を減退させていたのである。


「そろそろ泣きついてくる頃よ。上杉と和する段取りを整えておけ」

「ハッ」


 この状況に北条家が音を上げるのは時間の問題であると見ている武田信玄は、北条家との和睦が成立すると同時に上杉家とも和睦するつもりでいる。


 北条家同様、上杉家も越相同盟の歪みが大きく、苦しい状況が続いているのだ。


 度重なる関東への出陣に莫大な戦費を費やした上杉家は、特に譜代の家臣を中心に経済的な疲弊の色を濃くしている。

 北条から奪い返した領地を、そのまま関東の元の領主に返却しているために一向に領土が増えない。ましてや返却予定の地で野党紛いの略奪行為に及ぶわけにもいかず、参戦した将は全くと言ってよい程に恩賞にありつけずにいた。


 それでいて尚且つ、武田家の支援を受けた神保氏との間では隣国越中の覇権争いへが激化、越中への出陣も度重なる。


 結果として、疲弊しきった越後の国人衆は度々離反。

 その離反にも武田家の支援がはっきりと見て取れ、信玄はこの状況の打開に権謀術数を以って挑んでいた事がわかる。


 北条上杉両家は、最大の敵と手を結ぶ事で憂いを断ち、武田家に当たる腹づもりであったのだが、元々利害の一致しない間柄ではそう上手くも行かず、逆にその歪みを大いに利用される形で敵を増やす事態を招いたのだ。


「水軍衆はどうだ。貞綱はよく働いているか」

「ハッ。何やら志摩の海賊衆が土屋殿を通じて参ったそうで、小浜某とか申す者、どうやら安宅船を有してとるとか」

「ほう……召し抱えよ」

「ハッ」


 甲相駿三国同盟の破却から僅か一年半。

 一時は窮地に立たされると思われた武田家であるが、信玄の権謀術数によって状況は打開されつつある。

 そして、上洛戦を見据え、駿河沿岸の警備並びに海上輸送までを視野に入れた水軍の準備に取り掛かっている。


(お館様の思慮遠謀には驚かされるばかりよ)


 全ての事が信玄の思い描いた絵図であるかの如く、順調に進み始めていた。

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