第168話 帷子
◆◇◆◇◆
◇1570年6月30日
伊賀国
上野城 伊藤家
この日の朝、甲賀を制圧していた伊藤から伊賀に滞在中の石島家の女人衆へ北近江での戦勝の知らせが届いた。
当主石島洋太郎を初め、一兵卒に至るまで全員が無事であり、七月上旬には伊賀へ戻るとの知らせである。
「よかった、皆様ご無事で何よりです」
「はい」
香が手にしたその書状の筆跡は、香のよく知っているもので、伊藤が記した物である。書状には、既に石島率いる伊賀勢と合流し、共に帰城する旨も合わせて記されていた。
その書状を香の後ろから覗き込むように見つめる瑠依と優理。
その優理と瑠依の衣服を後ろから引っ張って止めさせようとする唯の姿もある。
当然、美紀の姿もある。
「優理、瑠依、少し落ち着きなさい。香様、殿が戻りましたら美味しい物を食べてもらいましょう。準備はお任せ下さい」
「じゃぁ瑠依がハンバーグ作ろうかな」
「え、瑠依ちゃんは大根おろしの係りでしょ? ハンバーグは私だからね」
「二人共、食べるのは殿と伊藤さんだけじゃないんだから、メニューは普通のになります」
優理、唯、瑠依の取りとめのない会話を余所に、美紀は下座に控えていたお栄とお末に食材の段取りについて指示を出しはじめていた。
初夏の陽気となり始めた伊賀上野では、石島洋太郎の妻が滞在しているとあって各方面から商人が訪れ、城下は珍しく賑わいを見せている。食材であれば良い物が揃えられるであろう。
伊賀上野城の一室、陽と石島の為に用意されていた奥の間で、女達の他愛もない会話に花が咲いた。
「陽様、一つお聞きしたかったのですが、その
香が気にしていたのは、伊賀滞在中毎晩のように陽が手にしていた帷子。元は白い無地の布であるが、陽の手で多少の刺繍が施された帷子に生まれ変わる。石島洋太郎が戦地に赴く際に着用している帷子は、全て陽の手縫いの帷子だ。
「本当はお百度参りもしたいのですが、安易に城から出て何かあってはかえってご心配をお掛け致します。なので、せめてこうして帷子を設えさせて頂いております」
笑顔で答えた陽は、昨晩仕上がったばかりの真新しい帷子を手に取った。それを優しく撫でるようにし、言葉を続ける。
「戦の度に新しい帷子を御召になりますので、無事にお戻り頂けると古い帷子が増えてゆきます。こうしてまた一着、古い帷子が増えるようにと祈りながら。新たに設える帷子に、また私の元へ戻ってきて欲しいと願い、一着づつ設えておるのです」
優しく帷子を撫でるその仕草には、主への深い情が込められている。
「ふえ~、陽さんすごい」
素直に感嘆の声を漏らした優理は、直後に自分も伊藤の帷子を制作する事を思いつく。決して口にしたわけでないが、その事に香が気付いた。
「優理、修一郎様の帷子はあなたに任せます」
香としても伊藤の無事を祈る気持ちは大きい。自分も帷子を縫う事を考えたが、すぐ横にいた優理の気持ちを鑑みその役目を譲る事にした。
「え、いいんですか? それは香様が……」
「ええ、わたしは
「有難う御座います。じゃぁ大原から沢山送りますね!」
「はい、そうしてください」
香は伊藤の正妻として実に上手く伊賀で立ち回っている。
伊賀上忍三家のうち、現存する百地や藤林の当主の妻とよく交流を持ち、時には護衛を引き連れては新しく開発された田畑を訪れて人々を労っていた。
伊藤の伊賀統治が順調に進んだ要因の一つに、香の存在がある。
そして陽もまた石島家当主の正妻として、この伊賀上野では見事な役回りを演じていた。
各方面から訪れる挨拶に丁寧に応え、貧しい村からの粗末な献上品であっても、満面の笑顔で礼を述べては喜んでみせ、特に貧しい地域にはその返戻として細やかな贈り物まで欠かさなかった。
急な統治者の変更にばたついた伊賀上野の政務も、その処理は美紀を筆頭に女衆が見事な処理を行い、伊藤が不在の間に税についての取り仕切りまで後は伊藤の確認を以って手配するだけになるまで進められている。
外へ出て命懸けで戦う者もあれば、その無事を祈る者があり、不在の間の諸事を助ける者がある。
石島家に与えられた知行は郡上八幡と伊賀一国。距離は離れているが、徐々に領主として、政務機関としての機能が安定し始めており、郡上に作られた学校で学ぶ人々が、ついには石島家に奉公し始めるまでになっていた。
石島洋太郎が帰還すれば、郡上八幡のから来ている者はみな帰国予定である。その前に今後の事を取決めたい美紀は、既に帳面に纏めていた事柄を話し始めた。
「殿に相談して、この伊賀上野へ郡上八幡の奉公人を数名回しましょう。それから、お栄ちゃんにはココに残って伊藤さんの側にお仕えしてもらいたいな。香さんだけに負担かかっちゃってて大変みたいだし」
「あ、は、はい」
目を丸くして驚いたお栄であるが、お栄自身が秘めた想いが叶う話である。決して自分からは言い出す事はなかったが、美紀はその想いに完全に気付いていたのだ。
「それからっと」
美紀はさらに帳面をめくりながら、優理と瑠依の顔を見つめた。
「優理と瑠依は一度大原に戻って、十二さんに今後の事を引き継いでね。必要であれば郡上八幡で学校を卒業した若い奉公人を何人か大原へ回すから」
「え……」
「ふにゅ?」
まさかの事に目を点にする二人に、美紀は言葉を続けた。
「温泉ツアーの運営が問題なく引き継げたら、伊賀にお引越ししてちょうだい。瑠依も優理も香さんの付き人としてお仕事するように。あと、緊急時に私と連絡が付くように、端末はちゃんと持参してね」
伊藤と石島が再接続の可能性を考え、優理達を大原付近に残そうとしている事と、美紀の発想は概ね同じである。
再接続がなされた場合いち早くそれを伊藤に知らせるため、端末を所持した優理と瑠依を伊賀へ置くつもりなのだ。そして伊藤を通じ、金田や須藤、ひいては村上等までを連れて帰るつもりである。
「い、いいいいやったああああ~!」
飛び上がって喜んだ瑠依の横で、うっすら涙を浮かべて美紀を見つめる優理がいた。
「お二人共嬉しそうでなによりですね」
陽は心底楽しそうに瑠依達を見ながら、主の無事な帰りを待ち遠しく落ち着かない心持でいた。見知らぬ伊賀の地で過ごした期間は決して長くは無いが、いざ離れるとなると心なしか寂しさも残る。
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