第151話 徳川家康
◆◇◆◇◆
◇1570年 4月20日
山城国 京
織田軍 本陣
この日、京都に集まった軍勢は四万を数えた。
三河から援軍に駆け付けた徳川三河守も到着、その翌朝には織田の先発隊が京を発した。
この時期に織田信長から毛利元就に宛てられた信書には、若狭にて武藤を討つと記してある。
「進め!」
東美濃勢を率いる金山城主、森可成の号令の下、織田の後詰部隊が京を発した頃には既に日が傾いていた。
予備戦力という位置づけではあるが、この部隊は総勢一万を数える美濃の強兵で編成されている。
今回、織田軍の先発隊や中軍は主に畿内や尾張の将兵で編成されていた。上洛戦や伊勢攻めで手柄を上げた美濃勢は、今回は手柄を譲る形となっている。
その後詰部隊の更に後方を、三河から馳せ参じた同盟国の援軍が進む。
同盟国という建前はあるが、それはあくまで建前である。徳川家康は事ある毎に遠慮なく押しつけられる援軍要請の全てに、余すことなく全力で応えてきた。
それが織田家の庇護を受ける形でありながらも、建前上は同盟国として対等な付き合いをしてくれている織田信長への謝意なのだ。
「出立!」
ここ数年で頭角を現し始めた若武者の号令により、織田軍の最後尾を進む三河兵団が京を後にした。
「平八郎よ、そう嫌な顔をするな」
号令をかけたものの不服そうな顔つきの若武者平八郎に、主君である徳川家康が声をかける。
「此度は物見遊山程度の事よ」
然程の勢力を持っていない若狭武藤氏の討伐を名目としたこの出陣に、織田軍は総勢四万を超える大軍を動員している。まかり間違っても苦戦する等という事にはならないと、誰しもが思っていた。
「殿、よくもそのような戯言を申されましたな」
本多平八郎忠勝。後に家康には過ぎたる家臣と評されるこの若武者は、少々正直すぎる性を持つ。
「弾正忠様は遠江はおろか三河にさえ兵をお出しにならないではありませぬか。何故、我等ばかりがこうして……」
美濃攻略、上洛戦、伊勢討ち入り、尽く兵を派遣してきた徳川家は、その度に莫大な戦費を費やしてきた。
三国同盟を破棄した甲斐武田家と結び、旧今川領の分割協議を取り付けながら遠江へ進出したが、その進出速度は武田家の顔色を伺いながらであったとしても、決して褒められた物ではない。
本来は遠江攻略に裂きたい戦費と兵力を、徳川家康は惜しげもなく織田家の為に浪費してきたからである。
「物見遊山に付き合わされて膨大な支出。笑えませぬ」
平八郎の不満は、正にその事であった。
甲斐武田家と織田家は婚姻同盟関係にある。言うなれば徳川家と織田家との関係と同じ。
織田家の庇護を受けている徳川家が、甲斐武田家の猛攻に曝されずに済んでいるのは、織田家との同盟関係が良好状態を維持しているからに他ならない。
「平八郎、言うな。銭の事は作左衛門に任せておけばよい」
徳川家の奉行衆は毎度の戦費捻出に奔走し、どうにかこうにか遣り繰り出来ている。家康にとっては援軍に手を抜いて信長からケチを付けられるほうが余程恐ろしいのだ。
「ならばせめて槍働きの一つもさせて頂きたいものです」
伊勢討ち入りの件も、今回も、徳川軍は最後尾である。被害が出ない事は有難いが、目だった活躍が無いので特段の恩賞にありつけずにいる。
信長は一応の気遣いを見せており、多少なりとも戦費に補填する金銭を工面してくれてはいるが、徳川家にしてみれば当然ながら大赤字が続いていた。
「そうか、槍働きか」
家康は喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。
この遠征、武藤氏討伐は口実に過ぎないと睨んでいる家康は、越前への討ち入りが当然のように行われると思っていた。
だが、名目が若狭武藤氏の討伐である以上、滅多な事は口にできない。己の中では確信のある事であったとしても、それは知らぬ体を通すほうが当たり障りなく済むはずである。
(難儀な事よ)
甲斐武田家とは表だって大きな戦は無いが、実際には小さな小競り合いが散発している。既に分割協議の終わった旧今川領の切り取りが終わり、互いに国境を接していれば当然起こりうる事態であった。
武田家との取決めはあくまで旧今川領の分割についてであり、軍事同盟でも不戦協定でもない。
(よしんばそうであったとしても。武田信玄、約束など簡単に破り捨てるであろうな)
そうしないのは、そうし難い理由があるからである。
徳川家率いる三河兵団の結束は固い。織田からの援軍を引き入れれば、その兵力は甲斐武田家の動員兵力に匹敵する。
既に隣国北条家、上杉家との関係が悪化の一途をたどっている甲斐武田家に、徳川家まで同時に敵に回す余裕は無い。
(ただそれだけの事、あまり留守にしておくのは危うい)
今回の遠征が越前への討ち入りに発展して長引いた場合、徳川家にとってはますます良い話ではなくなる。
(働きを認めさせ、早々に帰還を願い出るかな)
徳川三河守家康。この時二十八歳。
後に見せる老獪さは未だ持ち合わせていないが、既に天下を見据える名将の片鱗を見せ始めていた。
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