第109話 大博打の奨め
◆◇◆◇◆
◇1568年 1月
尾張国
清州城下 商家
伊藤と金田が高岡城で緊迫の交渉に挑んでいる頃、清州城下の商家【伊藤屋】に大原綱忠が二名の女人と共に訪れていた。
近隣では一目置かれる手腕と、広い販路を抱えている豪商でる。
「然様で御座いましたか。大変な無礼を致しました。申し訳ございません」
伊藤屋の主人が頻りに謝罪しているのは、綱忠の連れてきた女人について大きな勘違いをしていたからである。
「お気になさらずとも、そう思われるのは仕方なき事と心得ておりますれば」
優しく微笑んで答える女人は、小柄ながらも凛とした覇気を持ち合わせている。
綱忠が侍女を連れて歩いていると思っていた主人であったが、どうやら交渉権はこの女人に付随されており、綱忠が護衛であると告げられ驚いていた。そして驚くと同時に、目の前の女人が何者であるかを察知した。
この時代の情報は概ね「人づて」で手に入れる。
実はここ数ヶ月、美濃方面の取引相手から入る情報の中に、郡上の女丈夫が度々話題となっていたのだ。
若く華奢な身なりではあるが、凛とした風貌はその存在感を身なりの何倍にも増幅させる女丈夫だとか。元は身分のある家柄の出だとか様々な憶測がなされているが、どうやら郡上の元領主の妻であった女であるというのが真相だと、もっぱらの噂であった。
領主が入れ替わったばかりの郡上において、老獪な庄屋を相手に一歩も引かずに立ち回り、庄屋達を感心させたと評判なのである。
「お香様で御座いましたか。度重なる無礼をお許しくだされ」
「流石は伊藤惣十郎様、良きお話しが出来そうです」
互いに名乗らず、相手が誰であるかを認識している。
一つ一つの所作や礼儀作法や言葉、いつの時代も教養という物は武器となり、名刺となり、互いを認める材料の一つとなる。伊藤が香を交渉の代理人に指定したのは、石島家においてこの時代の教養を持つ人材が他にいなかった為である。
その香からの申し出に、伊藤惣十郎は困惑していた。
交渉の内容が米の買い付けである事は間違いないのだが、その量が伊勢攻略の
伊藤と金田は既に、この年の夏に織田信長が上洛する事を睨んでいる。伊勢攻めの戦費でさえ苦労する事が見て取れる状況下で、半年後の準備を秘密裏に進めてしまおうと言うのだ。
「それ程の量を集めて、本当にお買い上げ頂けるのでしょうか」
伊藤屋とてただの商人ではない。織田家から認められ尾張美濃一円の商人司として、織田家の仕事を請け負う身の上である。提示された量を今の織田家が必要としていない事など、誰に言われるでもなく把握していた。
「武家には武家の戦があるように、商家には商家の戦が御座いましょう。今がその時と思われるならば吉、後は伊藤屋殿のお心次第」
香はそこまで言うと、傍らに控えていたもう一人の女人に声をかけた。この買付に郡上から同行していた阿武唯である。
「唯殿」
「はい」
唯は小脇に抱えていた帳面を開き、すらすらと読み上げた。
伊藤屋は目を丸くしてそれに聞き入っている。
唯が読み上げる帳面には、近隣諸国における米の相場、買い付けに当たっての取引相手、仕入れ値からそれを織田家が買い取った場合の利益予測まで、事細かに記されている。
「ここまではよろしいでしょうか」
伊藤屋にしてみれば、唯はあどけない少女にしか見えない。
無論、まだ少女であると言えば間違いはないのだが、その少女の口から、伊藤屋の使用人ですら知らぬであろう事柄が次々と飛び出してきたのである。
そして伊藤屋は、告げられた中身よりも、それを澱みなく読み上げていく少女の存在に面食らっていた。
(どう育てればこうなるのだ)
伊藤屋自身、唯と変わらない年齢の娘を持っている。その娘は言うに及ばず、年嵩で既に実務に従事させている長男助三郎でさえ、唯のようにはいかないと思えてならない。
「伊藤屋様?」
「いや済まぬ、感服致した」
「まだ続きが御座いますよ」
帳面をめくりながら、唯が言葉を続けていく。
「昨年末から今月にかけ、織田家の勢力圏は拡大しております。戦にならずとも織田家は拡大を続けているのです。来る二月の伊勢討ち入りの件は勿論、その後にも兵を動かせばその度に勢力圏は大いに拡大いたしましょう」
そう前置きした唯は、織田家の勢力圏がどの地域に延び、その地域の商圏を掌握出来た場合の伊藤屋に、どの程度の利が望めるか今後の展望が纏められていた。
(これはたまげた。この勝負乗るより他にあるまいて)
郡上石島家の勧めに乗り、伊藤屋は大博打に出る覚悟を決めていた。
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