第97話 治癒

◆◇◆◇◆


◇1567年 9月上旬

 信濃国

 諏訪 仮屋



――――――

――――

――



「伊藤さま! 伊藤さま!」


 夢に魘されていた伊藤を起こしたのは、織田家から同行している少年であった。


「ああ、有難う、助かったよ」

「はぁ。御加減は宜しいのですか? だいぶ魘されていた様子でしたが」


 その少年には「助かった」の意味を理解出来なかった。


「ああ、かなり良くなっているよ。徳本先生にお礼しないとな」


 武田信玄の計らいにより、信州諏訪の地で名医の治療を受ける事が出来た伊藤は、そのまま下諏訪の毒沢温泉で湯治を行っている。体力の回復は著しく、徳本も驚きを隠せない程日増しにその力を取り戻していた。


 特に体調が悪い様子ではない事を確認した少年は、伊藤宛に客人が来ている事を報告する。


「伊藤さま、甲府より武藤喜兵衛さまと申される方がお見えで御座います」


 少年の言葉に、伊藤の背筋に緊張が走った。


(武藤……喜兵衛。まいったな、何しに来たんだろう)


 何やら徒ならぬ事情であろうが、伊藤としては追い返すわけにもいかない。


「わかった、直に参ろう」


 伊藤は立ち上がり、衣服の乱れを直しながら思案を巡らせる。


(昌幸さんを寄こすって事は、何かを探りに来たかな)


 伊藤は、面識のない武藤喜兵衛が何者であるかを知っている。

 武藤喜兵衛という人物は、後の天下人豊臣秀吉からは「表裏比興の者」と言われた名将の若き日の姿、後の真田昌幸である。


(いきなりボス戦って感じだな、ちょっと気合いれるか)


 伊藤は腰紐を普段よりきつく結ぶと、武藤が待っている部屋へ向かった。


(まいったな。表情が見えないかも)


 郡上八幡城からの撤退戦で眼鏡を紛失していた伊藤は、少し離れてしまうと相手の表情を見て取ることが出来ない。

 伊藤は少し思案すると、目の前を歩いていた世話役の少年に声をかけた。


「竹丸くん、悪いけどお酒用意してくれないかな。あと簡単な肴もあると嬉しいな」

「? ……かしこまりました」


 竹丸少年は直に酒と肴を用意する為に炊事場へ向かった。


「英雄色を好む……か。流石に男色までは理解できんなぁ」


 伊藤は小さく呟くと、武藤の待っている部屋へ歩を進めた。

 この竹丸少年は、やがて信長の男色相手として深い寵愛を受け、豊臣政権となる頃には大名の地位まで上り詰める事になる人物である。


 伊藤のいる湯治場は、武田信玄が金山採掘場の怪我人に愛用させたと伝わる毒沢鉱泉で、源泉から取れる湯の花がその確かな効能を認められ、昭和十に年に医薬品として正式な登録を受けた程の名湯である。

 伊藤はこの湯治場に貸し与えられた小さな屋敷の応接広間にて、表情が見える距離、すなわち膝を突き合わせて話をするためにその口実となる酒を用意させている。


(昌幸さん相手に話をするのに表情が見れないのは危険すぎるよな。メガネっていつの時代からあるんだろう)


 出来る事なら手に入れたい眼鏡だが、今この場ではどうあがいても手に入る物ではない。


 この相手の表情を見ながら話すという技術は、交渉に長けた者であれば必ず重視する点であろう。無論、武藤喜兵衛は伊藤の表情を注視しながら話を進めるはずである。


(こっちだけ見えないのは不利すぎる)


 竹丸が酒と肴を用意する時間を稼ぐため、伊藤はわざとゆっくりと進んだ。


 広間の下座に着座して伊藤の到着を待つ武藤喜兵衛は、主である武田信玄より一つの密命を帯びていた。


『登用せよ、出来ぬとあれば殺せ』


 織田信長から、伊藤修一郎を永田徳本に治療させたいと連絡があってすぐ、この奇妙な願いの真意を探るべく武田家自慢の諜報部隊が暗躍した。


 この当時、武田家の諜報部隊はその精度、範囲、全てにおいて全国随一の部隊であり、日本中の情報は武田信玄の元に届けられていた。


 当然、飛騨の小さな村で起きた石島家再興に関しても同様である。

 当初はそんな取るに足らない情報には気を留めていなかった武田信玄であるが、今回受けた織田信長からの依頼がその石島家の家臣であると聞いたとたん、一つの勘が働いた。


 武田信玄は、三ヶ月程前に側近である山県昌景に召し抱えさせた奇妙な男二人を呼び出すと、伊藤修一郎を知っているかと問いただしたのである。


 その奇妙な二人の言う事を信じるのであれば、その伊藤修一郎という男は、破格の待遇を以てしてでも召し抱えるに値するであろう。

 武田信玄自身の勘も伊藤を登用すべしと告げているのだが、どうやら織田信長もこの伊藤という人物には目を掛けている様子である。


 登用出来ぬのであれば、後は脅威にしかならない。今のうちに殺してしまうのが良いと判断したのだ。


 応接間とは名ばかりの、何もない板の間で伊藤を待つ武藤喜兵衛は、最終的に如何すべきかをこの段階に至っても迷っていた。


(はてさて、困ったものよ)


 武藤喜兵衛としては、登用出来なかったとしても殺してはならないと思っている。そのような事をすれば、織田との戦に発展しかねない。

 現在、武田家はこれ以上敵を増やせない状況にあった。武田信玄の長男、武田義信の謀反騒動の後、盤石と言われた甲相駿三国同盟に不穏な空気が漂っている。

 事実、この年の末に三国同盟は崩壊に至る事になるのだが、この段階で既に一触即発に近い状況であったと推察される。

 更に、武田家が外交方針を転換したのもこの時期であり、既に武田家は今川領を徳川家と分割する協議まで進めていたのだ。


(この段階で織田と戦になれば徳川も織田に付く……我らは四方八方敵だらけとなるぞ)


 武藤の関心は、これから会う事になる伊藤よりも、今後の武田家の憂いに向いていた。

 板の間の襖が開く。


「お待たせを」


 伊藤が広間に入ると、その広間の空気は一瞬にして張りつめた。

 軽い挨拶を交わした互いは、無言のままに相手を観察。その異様な空気に飛び込む形となった竹丸は、二人が発する緊張感に影響されてその手が小刻みに震えだしてしまった程である。


 酒と肴を用意された武藤は、その緊張を一気に振りほどいた。


「いやいや、これは言うに及びませんな。伊藤殿、これまでに致しましょう」


 小柄な体の上に小さく乗ったその頭を軽く振ると、ニッカリと笑って見せた。


「武藤様がそれでよろしいのでれば異存は御座いませぬ」


 伊藤は小さく頷くと、笑顔で答える。

 先程からずっと無言だったにも関わらず、一体何の話を終わらせたのか、竹丸は首を傾げるばかりであった。


「よろしいも何も、伊藤殿にお知恵をお借りせねばならなくなり申した。我が主に対して言い訳をせねばなりませぬ」


 武藤は言いながらとっくりを持つと「ささっ」と促して伊藤の杯に酒を満たした。酒を受け取った伊藤はそれを一気に飲み干すと、武藤に返杯する。


「なれば、武藤殿がこの伊藤に、武藤殿のご主君をどう思うかをお聞きになられては如何か」


 ただそれだけの話であれば意味は無い。恐らくそれを聞く事で、武藤が納得して持ち帰れるだけの言葉を用意しているのであろう。武藤はそう確信すると伊藤が注いだ酒を一口に飲み干し、言われたままの質問を浴びせた。


「伊藤殿、我が主をどう思われる」


 言い終わった武藤の目は鋭く光り、これから伊藤が発する一言一句、見せるであろう表情、動作、其れ等全てを見逃すまいとした。


 伊藤は笑顔を作ると軽く頷き、言葉を並べ始めた。


「稀代の知略家、なれどその智、毛利陸奥に及ばず。稀代の軍略家、なれどその武、上杉弾正に及ばず」


 伊藤の顔から笑顔が消え、その視線は真正面から武藤を貫いていた。


「然されども、多くの智将、勇将を用いる術、この日の本を広く探せど右に並ぶ者なし。思慮深く、懐深く、欲深く、信に値するなれど、忠に値せず。尊ぶに値するなれど、敬に値せず」


(これは只者ではない。お館様の想像以上ではないか)


 武藤は大きく頷くと、既に伊藤に魅入られている自分に気付いた。


「伊藤殿よ、されば、これは一つ俺からの問じゃ」


 この程度で籠絡されては主に示しがつかないと悟った武藤は、この質問でやり返すつもりでいた。


「信、忠、尊、敬、全てを持ち合わせる大将など存在するとお思いか? 一つも持ち合わせておらぬ大将など腐るほどおる。教えて頂けぬか、全てを持ち合わせる大将などおるのか」


 この人物が抜きんでて優れているのは間違いない、それは武藤の想像を超えた傑物である。


(ここで自分の主君、ないし織田上総と言うようではここで斬り捨てるのも良いかもしれん)


 しかしその傑物が、織田信長に心酔しているようであれば、主である武田信玄の言うようにここで殺さなければ脅威になるであろう。

 武藤にしてみれば織田信長など信、忠、尊、敬のどれにも値しないのである。


(眼の曇った傑物ほど恐ろしい者はいない)


 目の前の傑物が次に口にする回答次第では、武藤はこの屋敷を出た後で兵をここへ向けなくてはならなくなる。


 伊藤は両目を閉じて思案に入った。

 しばらくして目を開くと、その双眼から発せられる強い眼光が、武藤の両目を捉える。


「武藤殿、そのような大将、今の某には思い浮かびませぬ。しかしながら」


 伊藤は自らの杯に酒を満たすと、一口に飲み干し、次いでその杯を武藤に向けて差し出した。

 その真意を察しかねながらも杯を受け取った武藤は、伊藤が注ぐ酒を見ながら無言でその言葉を待つ。

 酒を注ぎ終わると、伊藤は言葉を続けた。


「そのような大将が現れるとしたら、それは目の前にいる、御貴殿で御座いましょうな」

「い、伊藤殿……からかわれては困る!」


 伊藤はニッコリと笑うと、武藤が酒を飲み終わる前に立ち上がった。


「ここまでに致しましょう。只今より竹丸を連れて美濃へ戻ります故、ご主君には『いずれ御礼に参ります』とお伝えくだされ」


 武藤は返す言葉を見つける余裕を与えられず、ただ伊藤が立ち去るのを傍観する形になってしまった。


(してやられたわ)


 伊藤はすっかりと傷も癒え、形式上は武田家の使者に挨拶を済ませた形となったこの瞬間を見逃すことなく、その日のうちに下諏訪を出発すると、その二日後には木曽谷を抜けて美濃に入った。

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