第87話 もう少しだけ

 空は既に白くなり、東の空から朝日が昇るのを今か今かと待ち構えているような時間になっている。


「綱義くん測れたよ。もう行く?」


 高台から駆けおりて来た瑠依の右手にある道具は、既に大原を指し示す光の糸を照らし出していた。


「瑠依殿、その光の糸は明るくなっても見えるのですか?」

「ん~、ちょっと見づらいけどね、日照中モードに切り替えれば結構ちゃんと見えるよ」


 瑠依はその道具に興味深々な捜索隊の面々に囲まれながら、その道具の実用性について確信を示した。


「では、昨夜同様、瑠依殿に先頭をお任せ致しても?」

「おっけ~。まっかせなさいっ」


 二人のやり取りを不思議そうに眺めていた綱忠は、その会話が終わるのを待ってから兄に一つの提案を持ちかけた。


「敵も動き出すでしょう、所々にカマリを置きつつ下山致します」


 カマリとは、撤退戦時にその場に残り、敵が追ってきた場合にその場で少々戦い、時間を稼いでから逃げる役割の事を指す。殿しんがりと比べると意味合いはやや軽く、役割としての責任も殿ほど重い物ではない。


 1600年、関ヶ原にて島津軍が見せた「捨てがまり」とは、この戦法を更に苛烈に、残った部隊は全滅するまで踏みとどまるという、正に捨石にする作戦である。

 一般に言われるカマリには、そこまで強い意味はない。


 姉小路から貰い受けた新兵三十騎は、綱忠と共にここまで幾度となくカマリを実行し、何度も敵を追い散らしながらも徐々に力尽き、その数を十一名に減らしていた。


「十五、すまぬな。今少し頼むぞ!」

「応!」


 兄である綱義は腕に覚えがあるものの、どうも年下のこの弟には及ばないと思っている。弟である綱忠にその自覚は無く、兄のほうが数段上だと思い込んでいるのだが、それは綱義が上手くそう思わせているに過ぎない。


(伊藤様の供をおぬしがやってくれて助かった。俺であればもうとっくに死んでいるだろうな)


 綱義は伊藤を搬送するための人員を捜索隊に割り当てると、伊藤の元に駆け寄った。


「伊藤様、参ります。香様、伊藤様のお側を宜しくお頼み申し上げます」


 香は小さく、無言で頷いた。

 その二人に目配せされるように、伊藤を抱えた優理が声をかける。


「伊藤さん、出発だって! もう少しだから頑張ろうね!」


 伊藤を上から覗き込むように声をかけた優理は、伊藤の手を握って起きるように促す。

 伊藤を乗せるための板が運ばれて来た。


「伊藤さん、これに乗ろう」


 優理は優しく伊藤の身体を起き上がらせようとした。

 その時、伊藤が口を開くと辛そうな声で言葉を発した。


「十三……香さん、優理。悪いんだけど……さ、ちょっと我儘、言って……いいか、な」


 香と綱義は顔を見合わせるようにしながら、伊藤の言葉が続くのを待った。


「何? どこか痛い?」


 優理は心配そうに伊藤の顔を覗き込む。


「痛いかって、聞かれたら、さ、そりゃあ…ちこち痛い、んだけどね、違くて」


 朝日が昇り始めた。木々の合間から差し込む朝日が伊藤と優理を温かく包んだ。


「あのね、ほんと、申し訳……いんだけど」


 伊藤は朝日の温かさを体に浴びながら、その目を閉じる。自身の左手に添えられていた優理の手を、伊藤の手が優しく包んだ。


「ごめん……ちょっとでいいん、だ、ちょっとだけ」


 伊藤は目を開く事なく、閉じられた両目から一筋の涙を流した。


「もう少しだけ……このままで、いさせてくれない……かな」


 程なくして、その伊藤の頬に優理の涙が零れ落ちる。


「……バカッ」


 優理は伊藤を抱え込むように下を向き、そのまま肩を震わせて泣き始めた。


「イテテ、馬鹿は、優理だ……ろ? 泣き過ぎだってば」

「……うるさい……バカッ」



 香と綱義は互いに頷き合うと、直にその場を離れた。

 綱義は直にでも下山を開始したい思いだが、伊藤があの状態では無理矢理にと言う訳にもいかない。


 今出来る事をやる、それが最善であると思った。


「十五率いる大原の隊、伊藤様の搬送に関わらない捜索隊の者は直に発て! 大原隊は下山途中でカマリを置くのだ。捜索隊は瑠依殿をお守りしろ!」

「応!」

「応! 兄者、先に参ります!」


 大原兄弟は互いにしっかりと頷き合った。


「応! 頼むぞ!」


 瑠依もその顔に緊張の色を見せながら、しっかりとした足取りで歩き始める。


「んじゃ、先に行ってルートを確保してくるねっ!」


 その場には、綱義、香、三名の侍女、伊藤を搬送する為の四名の捜索隊。そして、伊藤と優理だけが残った。

 綱義は、斜面を下って行く瑠依の小さな体に、辛くとも耐え抜こうとする頑強な意思を感じている。


(瑠依殿は大したお人だ。強い……負けてはおれんな)


 香は三名の侍女を集めていた。


「よいな、無理は致すな。敵を見つけたら直に戻るのだ」

「ハッ!」


 香の指示で、香の侍女三名が周囲に展開、敵の接近をいち早く察知する為の物見とした。


 ひと時、伊藤が安らぐ時間を少しだけでも作れればいい。

 後は全力で山を下りるのだ。


「ねぇ、伊藤さん」


 優理は静かに声をかける。


「私ね、伊藤さんの事、大好きダヨ」


 伊藤は特に反応を示さなかった。


「って、知ってるか。もうバレバレだよね、ゴメン」


 木々から差し込む朝日は、優しく温かく二人を包み込んでいる。


「ねぇ、伊藤さん、聞いてる?」


 心地よい風が、木々の間を吹き抜けて行く。


「伊藤……さん? ねぇ、聞いてる……?」


 優理の言葉だけが。

 虚しく風に流されて行った。



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