第79話 伊藤と遠藤
◆◇◆◇◆
◇1567年 8月2日夕刻
美濃国
郡上八幡城本丸 遠藤家
降伏を受け入れる使者として、あの挑発状を書いた本人である伊藤が訪れてきた事に対し、遠藤は心底驚いていた。
伊藤が来ると言われた時、遠藤は「偽物がくるであろう」と予見していたのだが、目の前に座ったの男を、使者が間違いなく本物だと言い切る。
(
まずはその身長の大きさに驚かされた。
伊藤が山賊【鬼熊一味】を退治したという噂はこの郡上にも伝わって来ている。話の出所は桜洞で、姉小路の家臣が言いふらしてしまったのだ。
その噂の豪傑である伊藤と、今目の前にいる男が、遠藤には同一人物にしか思えなかった。
そしてその大男は、腰には帯刀せずに丸腰で現れたのだ。
城の中に兵を入れているとはいえ、この広間には伊藤本人と、その部下である若い男が一人だけ。恐らく遠藤と同じ年代とみられる若者がいるだけである。
(若いな、相当な手練れには見えん。あの程度の近習のみを連れて丸腰で来るとは……)
この時点で既に、遠藤は伊藤の豪胆さに感服してしまっていた。
当時の男たちは、敵味方問わず勇気ある行動を大いに賞賛する文化がある。命知らずの猛者は男性の憧れであり、女性から黄色い声援を浴びる的なのだ。
「此度は当方の我儘をお聞き入れ頂き、恐悦至極に存じます。遠藤慶隆様、この伊藤修一郎、此度のご恩は生涯忘れませぬ」
丸腰で現れた上に、今度は下座から両手を付いて深々と頭を下げてきたのだ。
一言二言の挨拶が実に気品に満ち、敗北の将にみじめな思いをさせぬようにと、細やかな気配りがなされている。
(負けじゃ、これは敵わなぬ。勝ちうる訳がない)
遠藤は全身から血の気が引いて行く思いがした。力なくふらふらと、上段上座からずり落ちるように伊藤の目の前に進む。
「伊藤殿、当家の仕置き、ご差配を賜れれば幸い。何卒、何卒! よしなにお頼み申します!」
遠藤の両目からは涙が溢れていた。
ここへ来て遠藤は、ついに石島洋太郎に頭を下げる覚悟が固まってしまったのだ。
「遠藤様、お顔を、お手をお上げください」
伊藤はそっと遠藤の手に触れ、床から持ち上げる。
「お恨みとあらばこの伊藤が、お怒りとあらばこの伊藤がお受けいたします、されど」
伊藤はそのまま遠藤の両脇を抱えるように立たせると、再び上段上座に座らせ、自身は下座に戻り、言葉を続けた。
「然れども、ご家族の安全をと申されるならば石島が、ご臣下の今後をと申されるのであれば石島が、お子や弟君の将来をと申されるのであれば石島がお引き受けいたす。安ずることは御座いません」
その言葉を聞いた遠藤は、ついに崩れ落ちた。声を上げまいと必死になって震えている。
「綱忠、下がりなさい」
伊藤は小さく、連れてきた部下に部屋から出るように促した。
「しかし……畏まりました」
綱忠はいくらか不服そうな顔をしながらも、伊藤の言いつけ通りに部屋を出た。
「ご当家の方々も申し訳ございませんが、我が家中の兵が無礼を働かぬか監視をしておいて頂けませぬか。何か無礼があらばすぐに、先程の綱忠に申し付けて下され」
この場に残っている遠藤家の家臣は、皆、慶隆の忠臣である。
伊藤の言う事の本当の意味は、すぐに理解できた。伊藤が丸腰である以上、特にこの事について文句を言う程ではない。
「しからば、ごめん」
僅か五名しかいなかった忠臣達が、本丸館の広間を出る。
直後、広間から少年の泣き声が木霊した。
ひとしきり泣き終わる頃、広間へ一人の女性が入室した。その女性は伊藤の斜め前に小さく座ると、深々と頭を下げる。
「遠藤慶隆殿にお世話になっております。安藤守就の娘、香に御座ります」
伊藤は黙って頷いただけで、特に言葉を発する事はなかった。
香は顔を上げ、伊藤を正面から見据える。
「此度の戦差配、お見事で御座いました。この後の仕置きもどうか、わたくしからもお頼み申します」
再び、両手を付いて深く頭を下げる。伊藤はこの状況を瞬時に理解してた。安藤の指示で離縁となっているこの二人を、優しい目で見守っている。
伊藤としては、この二人の事も「どうにかしてあげたい」という想いに駆られていたが、そこまでの力は石島家には到底ない。
「伊藤殿!」
まだ声の震えている遠藤が、再び上段上座から降りると、今度は伊藤の位置よりも下座までわざわざ回り込み、その場に平伏した。
「当家の仕置きに関しては、最早それがしの意図ではどうにもなりませぬ故お任せ致します。なれど、なれど」
遠藤は泣きはらした両目をキッと見開き、伊藤を見据えた。
「この胸にある我が恨み、受けて下さると申された事が偽りでないのであれば!」
遠藤は正座した状態のまま更に、ずるずると下座へ移動し、壁際まで下がると再び頭を下げ、畳に額を擦り付けた。
「お聞き入れ願いたい義があります! 我が侍女のお玉と申す女子を、どうかよしなにご差配ください。我が子を身ごもっておるのです!」
「そのような事、さしたる苦ではありません。我が主は必ずや、お玉殿を丁重に致します」
伊藤は少し離れた位置から、遠藤に優しい声をかけた。
遠藤は再び、肩を震わせ泣き始めた。
「いどうどの! ごのいがり! 受けでぐださると申すのであれば!」
どうにか息を整え、言葉を繋げていく。
「そこの香を貰ってはくださらぬか!
遠藤は床から額を離す事なく、必死に懇願していた。
「他の女子に夢中になり、この数ヶ月は手も触れぬ有様。……家臣からは侮られ、領民からは慕われず、父の威光だけが取り柄の情けない夫を持った故、苦労ばかりをかけて……参りました……」
再び、声に涙が混ざり始める。遠藤の方を向いている伊藤の背後から、香のすすり泣く音も聞こえて始めていた。
「伊藤殿であれば必ずや、幸せになると思うております! 妻にせよとは申しませぬ。どうか、香をお側に置いてやってくだされ!」
遠藤の懇願には、様々な想いが入り混じっているが、一つだけ明確な理由があった。実は、香とその父である安藤守就は関係が至極複雑であるのだ。
原因は数年前、香の母にある。香の母は安藤の側室であったが、正妻に対して嫉妬を抱き、有ろう事か毒殺した。
更には正妻の子である幼い乳飲み子まで殺してしまったのだ。
香の母は磔に処されたが、それ以来、香は父から遠ざけられ、疎まれ、北方城で肩身の狭い人生を送ってきた。
そして二年前、遠藤家に嫁ぐ形でようやく北方城から解放された。
今回、北方に戻れと記された書状は、香の安全を気遣っての書状ではない。書状の最後には、北方に戻れぬときは自害せよと記されていたのである。
そんな父親の元に戻った所で、幸せな結末があるとは思えなかった。恐らく、命さえ危うい。
遠藤はそれを知っていたのだ。
怒りを受け止めると言ってしまった以上、伊藤としてもこの頼みを安易に断る訳にはいかなかった。
「ふむ」
少し思案しながら、自分の背中越しにいる香を見る。香は恭しく姿勢を整え、三つ指を付いて伊藤に平伏していた。
「いいでしょう、お引き受けします」
優しく微笑み、遠藤の申し入れに対して深く頷いた。
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