第726話 かすみ目に疲れ目で九尾なのじゃ

 最近、親父の奴が目を擦っているのをよく見るようになった。

 新聞を読んでいると、途端に老眼鏡を外してごしごしと手の甲で右の瞼を擦るのだ。猫みたいな仕草と最初の頃は笑っていたのだけれど、回数がちょっと洒落にならんことになってきた。


 大丈夫な奴かこれ。

 気になって加代の方を見ると、彼女もまた心配そうに顔を歪めていた。


 まぁ、なんだかんだで定年越えた爺様である。

 そら体にいろいろとガタが来ますわなぁ。

 そろそろ老眼鏡が必要になってくるだろうし、ぎっくり腰にも注意しなくちゃならんだろうし、なによりいつ病気になってもおかしくない。


 年金は貰っているが、ちょいちょい会社を休んでいたので、その金額は雀の涙。

 おふくろの継続的なサポートがなくなったら、えらいこっちゃという奴である。


 うぅん、俺は唸った。


「早いとこシベリア送りにしてしまうか」


「待てい桜!! お前、そんなデンデラみたいなことを言いだすんじゃない!!」


 おっ、親父にしてはまた洒落た小説知ってるじゃないのよ。

 俺は読んだことないけれど、佐藤先生の小説は面白いよね。

 そして、捨てられない程度に年金を稼いでからそういうことはいえ。


 まったく本当、困った肉親なんだから。


 子供は生まれる親を選べないを地で行く親父には、もはや何も言い返すことができないってもんですよ。


 とまぁ、そんなおふざけは置いておいて。

 実際問題ちょっと親父の目については心配だった。


「どうしたんだよ、最近なんかしきりに掻いてないか?」


「いやー、なんかちょっと目がかすんで見えてな。おかしいなと思って、ついつい手がいっちゃうんだよ。ダメだとは、これでも分かっているんだよ」


「……かすんで見えるか」


 どうです加代ちゃんドクターと、たぶんそういうお仕事の経験もあるであろう、頼りになる我が家のホームドクターに助言を求める。どこから取り出したのか――俺の趣味ではない――白衣を見に纏った加代ちゃんドクターは、なるほどなのじゃと頷く。


 それから親父の目を覗き込んで、ふんふんと診察し始めた。


 むーんとしかめっ面で加代の診断を受ける親父。

 頼りになる我が内縁の妻は、ひとしきり爺の目玉を見て一言。


「特にこう変な初見は見られないのじゃ。こればっかりは、もうちょっと専門の施設で見た方がいいかもしれんのう」


「マジデ?」


「蚊が見えるとか、一部が欠けて見えるとか、そういう分かりやすい症状であれば想像はつくが、目がごわごわするというのはのう」


「え、加代ちゃん、マジでワシ、精密検査とか必要な感じ?」


 まぁ、このまま何かあっても大丈夫なら、今のままでも構わんがと加代。

 いつもは朗らかな彼女が真剣な目をしてそういうこと言うと、割とギャップでインパクトが強い。たじろぐ親父に、まぁ、お袋の保健に入れているうちに、受けれるもんは受けておけよと俺はさとす。


 ぐすり鼻をすすって親父。

 眼鏡をはずすと、いつもは瞼をこする手の甲で今度は涙をぬぐうのだった。


「うっ、健康には変えられないもんな。そうだよな、精密検査行ってくるか」


「まぁちょっとくらいは受診料は手伝ってやるから」


「のじゃのじゃ。父上どのには、細く長くでも生きて欲しいのじゃ」


「桜、加代ちゃん、ありがとうな――」


 こんなんでもまぁ身内である。病気になられりゃ気分が悪い。

 それに、目が見えなくなったらこっちの負担も大きくなる。

 介護しながらの仕事ってのはきついって言うからな。


 体の不調は早めに処置を。

 老々介護になる前に。


 まぁ、嫁は不老不死だけれど、そこはそれである。

 できる限り、元気なうちは元気でいて欲しい。そこの所は、あしざまに言っても、理由はともかくとしても変わりないのであった。


 それにまぁ、俺たち以外にも悲しむ人もいるしね。


「じーじ、どこかちょうしわるいの?」


「なのちゃん」


 襖からひょこり顔を出したのはなのちゃん。

 日課の日光浴を浴びて、ちょっと公園から戻って来たところらしい。

 とてとてと近づいて、自分の身を包んでいる衣服を脱ぎ捨てた彼女は、ぴとりと親父に抱き着いた。


 たいへんなの、しんじゃやなのと、それこそ子供らしい心配をするなのちゃん。

 そんな彼女に、大丈夫じゃよ心配ないよと返す親父。

 もう二人の姿は、完全に爺さんと孫のそれであった。


 ふと、その時――。


「あれ、なのちゃん、なんか頭が色づいてない?」


「……のじゃ、本当なのじゃ。なんていうか、小さな花がちょぼちょぼと咲いているような」


 爺の呼吸に合わせて揺れるピンク色の花弁。

 よーしよしとその頭を撫でれば、ふわり花弁が揺れる。


 そして、そこから、粉が飛ぶ。


 そう――。


「ぶぇっ、ぶぇっ、ぶぇーーっきしょい!!」


「「汚ねえ!!」のじゃ!!」


 鼻水を飛ばしてずずりと盛大に啜るハクション大爺。

 なのちゃんを避けるようにこちらを向いた彼を睨みつける。すると親父は、なんだか申し訳なさそうに鼻をくすぐる。

 そしてその流れで――。


「うーん、やっぱごわごわするなぁ」


 瞼を手の甲でごしごしと擦るのだった。


 なるほどフォックス謎は解けた。


 なんで最近になって目の調子が悪くなったのか。

 謎のかゆみのその正体。

 ついでに言うと、その鼻孔のむず痒さの原因も。


 親父――。


「ただの花粉症かよ、心配かけさせやがって」


「のじゃぁ、なのちゃん、しばらくお爺ちゃんとは接触禁止なのじゃ」


「なぜじゃ!! なのちゃんはワシの老後の楽しみなんじゃぞ!!」


 なんでもだってーの。

 ひょいとなのちゃんと爺を引き離して、しょーもなと嘆息する俺と加代。


 やれやれこの親ならば、まだしばらくどこに捨てに行こうかと考える必要はなさそうだった。


 まったく、人騒がせな奴である。


「なのー、なんにしてもお爺ちゃんてば、お花が咲いているのに頭を遠慮なくごしごししてくるからちょっと困ってたなのー」


「死体蹴りやめたげろなのちゃん」


「のじゃ、けど、こんな分かりやすい原因が目の前にあるのに、容赦なく頭を撫でる親父どのにも非はあるのじゃ」


「仕方ないじゃないか、かわいい孫なんだから」


 目に入れても痛くないってか。

 おもいっきり掻いておいて、苦しい言い訳だな、もう。

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