第226話 大恩で九尾なのじゃ

「八尾が?」


「死んだ?」


「えぇ、ご存知ないでしょうとも。八尾さんはお二人に連絡を入れるなと、きつく明美さんに言っておられましたし。なにより、葬式自体をしませんでしたから」


 葬儀をする金も明美にはなかったらしい。

 そして、自分の死後に頼れ、と、明美が言われたのが宮野部長だったようだ。


「突然、八尾さんの孫を名乗る娘から連絡が来て、私は困惑しました。彼が死んだという話にもですが……」


「そりゃそうだろう」


「八尾くん、どうしてそんな、私たちに黙って……」


「……そんなの、会長も副社長も、今さら言わなくてもわかっているでしょう?」


 変わり果ててしまった自分を過去の自分を知る人たちに見られたくない。

 まして自分を追い出した人間相手にだ。


 そんな老人の頑なな心は、想像に難くなかった。


 宮野が寂し気な視線と共に発したその言葉に、会長も副社長も黙り込んだ。

 八尾のことを一切知らない、俺も加代もそれは同じだった。


「八尾さんが死んですぐ、明美さんは私に連絡を取りました。祖父の死後の処理について相談したいと……けれど」


「本当の目的はそうじゃなかった」


「のじゃ。未だナガト建設に席を置いている宮野部長と結託することで、彼女は会長への復讐を計画していたということなのじゃね」


 珍しく、頭が冴えているらしい。

 加代が確信を突いた言葉を発する。


 宮野部長はその言葉に、力なく首を縦に振ったのだった。


 呼び出された病院の一室。

 そこで、あどけない少女から、妖艶にネオンの街を舞う夜の蝶へと変貌した明美に出会った宮野部長は、彼女の境遇に深く同情したようだった。


 八尾が病気にかかってからの生活を聞き。

 彼女の今の生業を知って。

 宮野部長はなによりもまず、彼女にその世界から足を洗うように説得した――。


 しかし。


「私は逆に、明美さんから会長への復讐を持ち掛けられた。八尾さんを――祖父を追い出して、ナガト建設の会長職としてのんのんと暮らしている。そんな三国さんを許せない、復讐したいと彼女は私に言ったんです」


「のじゃ!! なんでそれで止めないのじゃ!! 聞き分けのない子供をしつけてやるのも、大切な大人の役目なのじゃ!!」


「……加代さん。受けた恩ってのはそう簡単に忘れられるもんじゃない」


 俺だって、世話になった部長のために海に飛び込んだ男だ。


 若いころに世話になった恩人。

 青くて失敗ばかり重ねていた頃の自分を支えてくれた、共に戦った、そんな上司や先輩に、ついつい感情的になるのはしかたない。


 おそらく、宮野は相当に八尾にかわいがられていたのだろう。

 そして信頼もされていた。


 そんな人間の孫娘が、復讐を持ち掛けてくれば。


 首を横に振れないのが人情だ。


 いや、きっと何度も彼は首を横に振り、思いとどまるように明美に言っただろう。

 しかしそれでもやるのだと、強く言われてしまえば、従うしかなくなる。


「仕方、なかったんです。全ては私の優柔不断です」


 力なく言って俯く宮野第一営業部部長。


 それを責めるような奴は、この場には一人として居なかった。


 宮野部長の背中で悔しそうに涙を流したのは八尾明美だ。


 夜の世界に慣れたとは言っても、当時、彼女はまだ若い少女だったのだ。

 いや、時系列のことはわからない。


 もしかすると、彼女はまだ今も、二十代にもなっていないのかもしれない。


 なんにしても、平穏に過ごすはずだった青春を。

 自分と同じ年代の娘たちが、謳歌している輝かしい時間を。

 祖父の看病と、自分の糊口をしのぐために費やさなければならなかった。


 祖父をそのような死に追いやった怒りもあるだろう。

 しかし、それよりも自分自身の境遇に対する怒りが強かったのではないか。


 八尾明美の表情を見ていると、そんな気がして仕方なかった。


 と、そんな彼女の前に加代が出る。


 安定安心のコメディーリリーフ。

 俺に対してはともかくとして、彼女が他人に対して眉を吊り上げているのは、なかなかに珍しい光景だった。


 尻尾も逆立てて――うむ、実に怒っていらっしゃる。


「のじゃ!! どんな境遇でも、決してあきらめることなく前を向いて生きるのが人間というものなのじゃ!!」


「……なんですか、貴方は?」


「お主より尻尾が一本多い者なのじゃ!!」


 今さら、それをネタにするかね。

 そしてそんな意味の分からない自己紹介があるかね。


 やれやれ、と、俺は頭を振った。


 流石は俺の同居人だ。

 こんな時でもおせっかいには余念がない。


 連れてきてよかったんだか悪かったんだか。


 だが、八尾明美の人生に対して同情で満ちたこの場において、彼女のその叱責の言葉は、現状を打開する切り口にはなった。


 まったく、このような自分の人生に関わり合いのない女。

 放っておいたって構いやしないのに。


 つくづくどうして、このおキツネは人懐っこいというか、なんというか。

 そして真っすぐでひたむきな性格をしているのだろう。


 そういう所が俺が彼女を放っておけないところでもあるのだが。


 だぁ、もう。


「生きていれば、苦しいこともあるだろう、辛いこともあるだろう!! けれど、その気持ちを誰かにぶつけても、何も始まらないのじゃ!!」


「……それは!!」


「分かっていると言いたいのじゃろう!? ちっともわかってないから、こんなことになったのではないのじゃ!?」


 無言になる明美。


 そんな彼女に、そっと近づくと、優しく加代はその肩に手をかけた。

 そして尻尾を大きく広げると、その体を優しく包み込む。


「けれども、全部自分で受け止める必要もないのじゃ。苦しみを分かち合い、共に歩いていく相手がいれば……それだけで、人間は強く生きていけるのじゃ」


「……共に歩いていく相手」


「なのじゃ。お主は本当に復讐がしたかったのか? それとも、たった一人の肉親を失ったのが悲しかったのか? それを一度よく考えてみるのじゃ」


 なるほどね。


 加代の言葉にはなんとなくではあるが妙な説得力が感じられた。


 失われた人生の意味。

 家族の喪失というのは彼女の心の平衡を失わせるには十分だろう。


 ようは寂しかったのだ。


 復讐はその感情の暴走した結果に過ぎない。


 守るものがない人間が問題を起こすのは世の常だ。

 彼女は祖父を失って、生きる意味を見失い暴走していたのだ。


 大事なのは、彼に変わって彼女を支える人間。


 そしてそれは――宮野部長ではなかった。


「楓!!」


 その時だ。


 工場の外から、車が停車する音がした。

 それと共に、聞き覚えはあるが聞いたことはない感情的な台詞が響いてきたのは。

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