わたしたちの続きをつくるために。

 再び松実と目が合う。松実は厨房でなにか作業をしていたみたいだけど、それを切り上げてスイング扉を出た。


「イリエなに飲んでんの?」

 わたしの左隣に並んだ。その位置がなんだか懐かしく思えた。


「水曜日のネコってやつ」

 社長さんはお姉さんとマスターに奥さんの話を続けていた。

 三ツ葉はわたしと同じテーブルにいながら、どちらの話にも加わっていないように思えた。


「ふーん。それね、泡が出にくいから入れるのコツいるんだ」

「ビールに違いなんてあるの?」


「それ、バカにしてるよね?」

 ムッとなった顔を見ると、キュッと胃が縮まる思いがする。もうこれは反射なんだろう。

「ごめん、そんなつもりは……」


「トーゼンだよトーゼン。季節によって変わるんだから」

「そうなんだ」


「泡が少ないのはまだいいよ。ロスも少ないから。たまーにお客さんがやろうとすることあるんだけど、大抵泡だらけになるんだよね。勝手にやったときは自己責任で飲ませるけど、私が入れたとなると捨てなきゃいけない」


 松実は歌うように仕事の話を続けた。


「うちのサーバーね、八〇杯入れられるんだけど、捨てる回数が多ければそれだけロスが出るわけ。最近はだいぶよくなったけど、初めはダメ。三割近く捨てて、全然利益出ないこともあった」

「すごいなあ、松実ちゃんは」


 ロスとか利益とか、わたしじゃ絶対言わないような単語が出てきた。もし自分が経済学部の人間だったら違ったかもしれない。


「当たり前でしょ。お金もらってる以上、こんぐらいの心構えはしなくちゃ」

「わたし、働いたことないからさ」


「イリエ、バイトもしたことないの? それ、相当ぬるま湯だよ」



 ただ松実が話したいのは仕事の話なんかじゃないのは、なんとなくわかった。



 会いたかった。

 松実は最初に、わたしにだけ聞こえる声で言った。


 もしもそれが本音で、他が取り繕いの言葉なのだとしたら。

 歩み寄ろうとしている。〈彼女〉は一度、わたしと絶交したんだから。


 それならわたしも近づいてみてもいいのかもしれない。


「松実ちゃんはいつからここにいるの?」

「私? 中二の秋だよ」



 中二の秋。わたしはそのころ、女川町なんて存在すら知らなかった。

「よくある話、親の勤め先が倒産したから実家へ戻りましたってやつ。実家さ、工場なんだ」

「工場……」


「ま、大したとこじゃないよ。いわゆる下請けの水産加工会社ってやつ。今は昼工場で働いて、夜はこっちって生活してる」


「すごい」

「なんかおかしい?」

「ううん。そうじゃないんだけど」


 中学のころの松実は洗練されてて都会的で、将来はエリートビジネスマンか、あるいはまさしくバーテンダーでもやりそうな、そんな背中をしていた。


 工場で働く松実。ちょっと想像できない。



「働かないと生きてけないの。言っとくけど好きでやってるわけじゃないから」


 働かないと生きていけない。

 バイトすらしたことない自分がこんなこと思うのもおかしいけど、たぶん真理なんだと思う。

 そりゃ毎日家でだらだら過ごしてたい。けど、わたしたちは働かなくちゃいけない。


 好きでやってるわけじゃない。それは建前なのだろうか。仕事をしてる人はみんな似たようなことをぼやくイメージがある。

 でも松実は好きじゃないことをわざわざやるような人だったろうか。もっと松実は情熱的で、気に入らないものはとことん気に入らなくて、人に合わすこともしなかったはずなのに。


 きっとこの七年間で変化があったんだと思う。



 社長さんが大きな声で笑った。お姉さんが面白いことを言ったらしい。向こうは盛り上がっていた。


 あの二人は松実のことを以前から知っていた。以前というのはいつのことだろう。ここに越してすぐなのか、あるいはもうちょっと最近のことなのか。


「あの社長さん、常連なの?」

「常連だし知り合いだし。町内の人だったら名前まで知らないまでも顔見知りではあるね。八助おじさんはそうね……心配かけさせたから」


 松実は多くを語ろうとはしなかった。口にすることを忌避してるようにも思えたし、逆に話したくてうずいてるようにも思えた。


「で、依利江はなんでこんなとこに?」

 話題を逸らすように松実が尋ねた。


「んーと……」

 この旅の話をどう伝えればいいんだろう。

 あまりにもいろいろなことがありすぎた。



「私が旅に誘ったんだ、依利江を」


 どん、と三ツ葉はジョッキをタルテーブルに置いた。


「あ、へえ、あなたがねえ」

 松実は釣り目を細くさせ、舐めまわすように三ツ葉を見た。


「そうそう、私、木梨松実きなしまつみ

「木梨さん、初めまして。岳ノ台たけのだい三ツ葉ミツバです」

「で、イリエ、どんな旅だったの?」

 手短に自己紹介を済ましたら、松実の関心はわたしに移っていた。

 なんか三ツ葉と松実は相容れなさそうな気がする。


 うっすら頬を引きつらせながら旅のあらましを話した。ゆぽっぽで三ツ葉と話したときと違って、あまり面白味のある話ではなかった。



 本当に伝えたいのは旅をしたことじゃない。


 けれど、本当に伝えたいものを伝えるためには、旅の話もする必要があった。


 たぶん途中で飽きちゃうだろうな。そんな予想をぼんやり思ったけど、思いのほか松実は聞いてくれた。

 三ツ葉が補足を入れてくれて助かった面もある。松実は時折質問をするほかは相槌に徹していた。


「――それで、仙台で牛タン食べて、今日こっちまで来たんだよ」

「仙台デカいっしょ。平塚より」


「うん。建物も大きいし、人もたくさんいて酔っちゃった」

「あー、いいなあ仙台。一週間でいいから暮らしたい」

 テーブルを指でととんと叩きながら松実は願望を洩らした。


「ま、ムリなのわかってるけどね。駅近のマンションでも借りて夜遊びでもしたいよね」

「松実、今はどこ住んでるの? やっぱり、仮設?」

「ん。まあね。山の裏の」

 山の裏。女川駅前は三方向を山に囲まれている。たぶんそのどこかにあるんだろう。


「狭いよー。従兄と暮らしてんだけど、もーヤバいから、いろいろ」

「イトコ」


「そーそ、六つ上のね。もういい歳なのに彼女すらいないっていうね。いい加減マズいでしょ」

「そうなの? 六つ上ってことは、今二六ってことだよね? 結婚なんてまだ早いくらいじゃない?」


 出るべくして出た問いだと思う。

 それなのに、一瞬松実が真顔になったような気がした。



 その顔が怖かった。あのときと同じように、無自覚のうちに言ってはならないことを話していたのではないか。


「まっちゃんのにーちゃん、甲斐性がねえからよ!」

 恐怖は一秒も待たず流された。社長さんが話に割り込んできたのだ。


「つーわけでな、まっちゃんはまちで婿探ししてるんだ! 俺も婿候補に名乗り出てるんだが、見向きもされん」

「んもー、変なこと言うと奥さんに言いつけるよ!」


 その反応を見た社長さんは大声で笑った。それからなにごともなかったかのように、お姉さんとマスターとの会話に戻った。


 松実の境遇について、予感めいたものがあった。それが今ので確信に変わった。三ツ葉の顔を見た。彼女はわたしの確信を察したのかほほえみを浮かべた。三ツ葉も同じことを思ったらしかった。


 予感のままだったら、訊いといたほうがいいかなって思った。でも確証を得た今、わざわざ尋ねる必要もないと感じた。


 松実と視線が合った。彼女は動揺するわたしを一部始終見ていたらしい。どんな顔を見せればいいのだろうと、ほんのちょっとだけ思った。


 ほんのちょっとだけ考えて、別に動揺する必要もないことに気がついた。



「なんか、楽しいね」


 そんなことよりも、見知らぬ土地で見知らぬ境遇を過ごした昔馴染みとお酒を飲む。その一秒一秒を満喫したかった。



 息を止めたまんまの松実が長い息をついた。


「……ま、悪くないよ。最近そんなふうに思い始めた」

「ここでの暮らし?」


「そ。あー、私生きてんなーってね。ふと感じるときがあるんだよ。カウンターからお客さん同士の会話を眺めてるときとか、仕事上がりに飲む缶コーヒーの二口目とか。学校にいたんじゃ、私、抜け殻になってたかもしれない。イリエは大学通ってんの?」


「うん。二年になったよ」

「大学って四年制でしょ? つーことはあと二年も箱んなかで過ごさにゃいかんわけ? ムリムリ、耐えらんないね」


 松実は笑った。

 心の底からそう思ってるみたいな笑い方だった。

 彼女は人から指図されるのが嫌いな子だった。気に入らないものは気に入らないと口にする。

 そのせいでいじめを受けたこともあった。今は彼女のことを理解してくれる人もいるみたいだし、ここでの生活のほうが合ってるのかもしれない。


 わたしは、どうだろう。なんの目的もなく大学まで来ちゃった。

 その前提で考えようとして、実はそうじゃないことに気がついた。


「松実ちゃん、わたしね、松実ちゃんと会えたから大学に行こうって決めたんだよ」

「は、私?」


「うん。あ、多分会えなくても大学には進学してたと思うけど……」

「じゃあ私関係ないじゃん」


「でもでも、大学に行く目的をくれたのは、松実ちゃんなの。そうだったんだって、気づけたんだ。だから、ありがとうって言いたい」

「ありがとう? それ、皮肉だよね?」


 そんなことない。そう言おうと思ったけど、松実は間髪なく言葉を連ねた。

「ま、言いたくなるのもしょうがないか。私は受け止める責務があるわけだし」


「責務?」


「だってそうでしょ? あんたに感謝されることなんてないし。あのとき、駒代わりにしてたんだ。ストレスが溜まったときの解消用。イリエの存在意義はそれだけだった。恨みくらい持たれてトーゼンだし、ぶつけられたらどうしようもない」


 松実の言ってることが本当なら、わたしは出会い頭に顔をひっぱたいたってよかった。

 彼女の言うことは間違ってない。松実の言うことは今も昔も正論だけなのだ。


 変わったのはわたしだった。旅する以前に彼女の顔を見ていたら、人生めちゃくちゃにしてくれたことをぐちゃぐちゃな言葉で伝えてたはずだ。高校三年間と青春を返せと叫んだかもしれない。


 なのに今は湧き立つはずの衝動が凪いでいた。決して彼女の境遇に同乗して、むりやり感情を抑制してるわけではなかった。


「恨みなんてないよ」

 そんなものは旅先のどこかで棄て去ってたらしい。


「松実ちゃんがいたからね、友達とどう付き合ってけばいいのか、真剣に向き合えたんだと思う。三ツ葉と会って、今こうして松実ちゃんと再会できたのも、中学で松実ちゃんと知り合えたからなんだよ。わたしだって、あれからいろんなことがあったんだから」


 話し終えると、松実はゆったりと頷いた。

「へえ……」


 それからニヤッと笑った。八重歯がちらっと見えた。

「やっぱ変なの、イリエ」

 昔っからこの笑みを知ってる自分に気づいた。


「私のほうがあんたよりずっといろんなことあったよ。語り尽くせないくらい、たくさんね」



 きっと松実の体験は壮絶で、壮絶だからこそありきたりな物語なのだろう。


 彼女の体験談は聞く人の胸に迫るものがあると思う。

 そこにはドラマがあって、苦しみや悲しみや、怒りや、あるいは喜びがあるに違いない。


 けど、個々の体験に優劣はないと思う。

 三ツ葉の昔話が興味深かったように。

 わたしの過去語りに三ツ葉が耳を傾けてくれたように。

 ドラマがあって、苦しみや悲しみや、怒りや、あるいは喜びがあった。


 松実の話も、あるがままに聞きたかった。そう思っちゃうのは多分自然の欲求なんだろう。



「依利江……」

 ここで三ツ葉がわたしにだけ聞こえる声で囁いた。タルテーブルの陰でスマホを入り切りさせる。


「あっ」

 時間。


 八時一五分を過ぎていた。


 間もなく終電の時間だった。



「あの、わたしたちそろそろ」

「え、ここで帰っちゃうの?」

 松実が唸り声を上げた。


「うん。電車だから」

「イリエ、どこ泊まんの?」


「今日は仙台で」

「仙台ねえ、そっかあ」

「うん」


「なんならさ、送ってくよ。車ぶっ飛ばせば一時間で着くし。ほら、そっちのええと……連れも一緒にさ」


「いや、私はいいよ」

 三ツ葉が席を離れた。


「石巻で、撮っときたい夜景があるんだ。私一人でも大丈夫だよ。それに二人は久しぶりなんだから。ゆっくり話す時間も必要だ」

 三ツ葉は笑った。



 その笑みを見て、急に胃の底が冷えた。



 彼女は丁寧に一人ひとりあいさつしてまわる。社長さんとは握手を交わしていた。混じりあう感情を孕ませた目でその姿を追った。


 三ツ葉はドアに手を掛けながら「仙台で」と手を振った。


 一連の動作を済ませた彼女の背中があまりにスマートで、それでいてすごく三ツ葉っぽい感じがした。孤独で、着飾って、わたしと一緒にいてくれた、三ツ葉だった。


「私さ……いろいろ話したいこと、あるんだ。いろいろ、あったんだ」


 松実はゆっくり、そう言った。


 その瞳は、どこか仔猫のような臆病さがあるようにも映った。



 怯える意味は察せられた。

 わたしは旅人だけど、一方で彼女はこのまちから離れることはできない人間だった。

 話したいことだって山ほどある。

 というよりも、わたしに刻みたいのかもしれない。


 彼女の生きた証を。



 話を聞いたら、後戻りはもうできない。

 目を閉じた。残りのビールを飲み干す。


 選択肢でいえば二択なのだろう。でも、選ぶべきものは決まりきっていた。


 大切なのは、言葉だ。


 今度は間違えない。



 わたしたちの続きをつくるために。




 あのね、松実ちゃん――

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