芸術の力を忘れたのか。瓦礫とガレキと被災物。ARIAの風景。

「どこで読んだのかはもう忘れてしまいましたが、幼少時代クラシックを聴いて失神したという詩人がいたのを思い出しました」


「詩人……」

「ええ。その方は、失神するほどの感受性に強い自信を抱いたそうです。それから、更級日記を書いた菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめも、想像豊かに源氏物語の世界を思い描いてましたし」


 詩人と、日本を代表する女流随筆家。その二方に見合うわたしじゃないように思えてならない。


「じつはね、ぼくもあなたと似たような思いを抱いたから、この企画展を開いたんですよ。〈ヴェネツィアの赤い宮殿〉です」


 それは学芸員がじっと見つめていた油彩画だった。真赤な建物の並ぶ運河沿いを描いたものだった。

 建物の壁がぺったり張りついている。奥行きは赤いレンガの隙間の陰だけなんだけど、それが妙な立体感を疼かせていた。


「芸術の力を忘れたのか。そう語りかけられたような気がしたんです。ヴェネツィアを見なさい。そこに君たちの未来を支えるヒントがあるかもしれない。ヴェネツィアに学びなさい。とね。新常設展へはもう?」

「いえ、ご飯食べたあとに行こうかなって」


 学芸員はふっと顔を綻ばせた。

「それがいいと思います。じっくり巡ると二時間半はかかりますから」

「にじかん……そんな広いんですか?」

「いえいえ。ただ、文字量が多いんです」


「文字、ですか」

「ええ。震災間もない頃の写真を展示していますが、それだけだと我われが体感した現実とは異なるものなんです。デジカメのシャッターを切っただけでは、我われの感情も思考も映し出されない。一番大事なものが伝わらなければ、記録の意味がありませんからね。だから言葉の力を借りたわけです。写真の他に被災物も百五十五点展示していますが、一点一点に物語がある。ですから、被災物には物語をしたためた葉書を添えています」


「被災物って、瓦礫のことですよね?」

 被災地や被災者という言葉は耳にするし使うけど、被災物って言い方は初耳だ。


「ええ、一般にはガレキと呼ばれるものです。ですが、我われは被災物と呼んでいます。ガレキを辞書で調べると〈価値のないもの、つまらないもの〉を意味します。しかし被災者にとって〈ガレキ〉なんてものはありません。それらは大切な家であり、家財であり、大切な記憶です。

 たとえば大事にしていたぬいぐるみが津波によってヘドロまみれになったとしても、大切なものだったことに変わりはありませんよね? 亡くなってしまった家族のご遺体を死体や死骸とは言いません。同様にガレキと呼ぶのではなく、被災物と呼んでいます」


 確かに言われてみればそんな気がする。テレビの映像を思い出した。粉々になったブロック塀だって、わたしからすれば危なっかしくて仕方ないけど、誰かにとっては恋人を待つあいだ背にもたれてたものなのかもしれない。くしゃっと曲がった電信柱だって、わたしには津波の破壊力を思わせるだけだけど、元々家庭に電気を届けていたものだった。


 被災物。瓦礫と呼び捨てるより、ずっといい。


「話が逸れてしまいましたね。ヴェネツィアについて、どのくらいご存知ですか?」


 ヴェネツィア。イタリアにある美しいまちってイメージだ。運河をゴンドラが行き交う。わたしが小学生の頃に〈ARIA〉っていう、ヴェネツィアを舞台にしたアニメがあったらしい。詳しい話は知らないんだけど。


「水の都、ですよね」

 〈ARIA〉と水の都、その二つのイメージしかない。


「ええ、実際行ってみるとわかるんですが、水との距離がとても近いんですよ。しかしここで早とちりしてほしくないことがあります。このまちは決して、景観をよくしようとして景観がよくなったわけではないんです。日々の生活を守り続けてきた結果、水の都と呼ばれるようになったんです」


 学芸員はわたしを連れて展示の奥へ進む。企画展の後半は水の都を撮影した写真が展示されていた。


「アックアアルタの風景、見たことありますか?」

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