大運河のひととき。これはキャンバス。あたまのなかのカンツォーネ。

 こういうものをどういうふうに鑑賞すればいいのだろう。絵を近付いて観るべきか、離れるべきか。タイトルは見たほうがいいのか。一枚一枚じっくり眺めるべきか、あっさり過ぎ去ってしまったほうがいいのか……。


 なかなか絵に集中できなかったけど、ふと足が止まる。足を止められたと言ったほうがいいかもしれない。その絵もやはりヴェネツィアの絵で、力強い油彩画だった。


 オレンジ色の建物、杏色の建物、オフホワイトの……。体温を分かち合うようにして寄り添っている。空は薄い雲の張る青空。人の姿はなく、道もない。建物の前には外壁の色を映した河がさざ波を立てていた。


 ヴェネツィア大運河、と題されていた。


 絵の前で、わたしはおののいていた。

 絵に精通してるわけじゃない。この手法を活かしてこの陰影を際立たせている、そんな形式ばった意見なんてない。



 ひたすら向こうから、この私をよく見よ、この水を、まちを見よ、どんどん語ってくる。


 妄想か現実か、混同した心臓はやけにおとなしく、音もなく鼓動する。


 二歩、ブーツの底を擦りながら油絵から離れる。


 額縁に飾られた絵はもちろんそのウォルナット色の枠内に留まっていて、外界の白い壁紙のキャンバスとは隔離されていた。


 キャンバス?


 二、三度まばたきをする。


 途端に運河の水がキャンバスに溢れだす。ワンピースの裾を握りしめ、流されないように踏ん張った。ここはキャンバス。


 ペンティングナイフで重ねられてく色彩が横へ拡がる。わたしは運河に至る階段の四段目に立っていた。


 彩られていく。水面から芽吹くようにレンガのまちが伸びる。カーテンをめくり、窓を開くヴェネツィアの婦人が、ゴンドラを漕ぐ男に声をかける。


 陽気な舟乗りは愛の言葉を口ずさみ、帽子を振って去っていった。舟の澪が河面の色を混ぜていく。混ざった色はクリーム色になり、やがて白い壁紙と、額縁と、一枚の絵画に戻った。


 大運河に触れた胸に抱いたのは、憶えのあるほほえましさだった。


 この絵をこれほどで鑑賞できたのは、この景色を知っているからだった。


 気仙沼とヴェネツィアが、ここで一枚の絵となった。



 わたしはヨーロッパはおろか西日本にすら行ったことはないんだけど、ヴェネツィアというイタリアの一都市に親近感を覚えてしまった。

 今まで〈鑑賞〉という心地を知らなかったけど、今初めて絵を〈鑑賞〉することができたんじゃないかとも思う。


 そんな予感がして、それがちょっとうれしくて、頬が緩んだ。

 ハッとなって振り向いた。学芸員と女性来館者の視線が刺さっているように思えた。

 だけど女性来館者の姿はもうなく、学芸員の男性は絵をじっと見つめているだけで、わたしのことを凝視してるわけじゃなかった。


 気を取り直して他の絵も見て回ることにした。ぱりっとした空や水の透明さに魅入ることはあったけど、さっきのような感覚はなかなか起きない。起こそうと思って起きないのは、なんとなくわかった。


 さっきのは、きっと空を飛ぶ夢みたいなものなんだ。願ったところでできるもんじゃない。あるとき唐突に降ってくるようなもんだと思う。


 あの感覚が引っ付いて、絵に集中できなかった。

 やっぱわたしはわたしなんだと思う。素敵な経験をしたら、なにはともあれ誰かと共有したいんだと思う。


 手持ち無沙汰な学芸員。話してみようかな、と思う。

「あの」

 誘惑に負けて話しかけてしまう。学芸員の男性はわたしに気付く。


「こんにちは。どうしました?」

「えっと……」


 絵の感想。

「すごかったです」


 なにがすごかったのか。

「あの、絵が」


 指をさす。

「〈ヴェネツィア大運河〉ですね」

「はい。観てたら、わっと拡がって」


 もっと具体的に。

「河、運河が拡がって、わたし、ヴェネツィアにいるみたいな気がして」


 わかりにくい。

「わかりにくいですよね。すみません。えっと、なんか、絵のなかに惹きこまれちゃったんです。惹きこまれたというか、絵が拡がって……ああ、拡がるって何度言ってるんだろ。ヴェネツィアのほとりに立ってて、人が挨拶してて……」


 なんか言ってて変な人に見られそうだ。

「こんなの初めてだったんです。でも、不思議と心は落ち着いてて、それきっと、気仙沼と似てるって思ったからだと思うんですけど」


 うまくまとまらなそうな予感をひしひし感じる。

「なんか、ええと」


 問いかけは会話の基本。

「わたしみたいな人って、いるんですか?」


 会話のバトンタッチにしては赤点レベルの締まり方だった。そもそもわたしと似たような人を求めてるわけじゃないし。


「いますよ」

 しかし学芸員は丁寧に教えてくれた。

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