危うき停戦協定。ナイフとフォークの上流作法。湘南フジツボ。
三ツ葉は日本酒(銘柄は聞き逃してしまった)を頼んでいた。わたしも一緒に飲みたかったけど、このあと二度目の温泉に入りたかったから食前酒だけにする。
ご飯は釜飯だった。タコとウニと刻みアワビが入った、贅沢な一品だ。
「いやあ、これ、太るね」
「え、あ、まあ……」
ぎこちなさげに呟き、日本酒を口にした。
「あそっか、三ツ葉は太んないか」
「その言い方はちょっとずるくない? 私のこと、知ってて言ってるでしょ。よろしくない」
「でも、わたしだってさ……」
お互い顔を見合わせる。いたたまれぬ哀しさを帯びた表情で見つめられる。わたしも同じような顔をしてると思う。
ああこれ、延々ループするやつだ。
「やめよう、この話。せめて食べ……せめてよく噛んで、さ、そのあとにしよう」
「そうだね。おいしいご飯に罪はないよね」
「ああ。我々は美味しい夕食をおいしく食べる責務がある」
「責務だね」
双方言い聞かせて停戦協定を結び、お箸を動かした。
どれもおいしい。うん、食材に罪はないよ。
一品一品、いや調理人や給仕らも含め、おいしく食べられるために最大限の努力が籠められている。味覚以外の部分も研ぎ澄まされてようやく一流の味に至るんだ。
ただまあなんというべきか、わたしにはレベルが高すぎて恐縮しちゃう。ファミレス程度のサービスでいいんだな、自分は。
「アワビ、いい感じかも。あ、ふた開けてくれる?」
「ふた?」
三ツ葉がカメラを構えたので、察した。湯気立ち上るアワビを撮りたいのだ。銀ぶたはじゅわじゅわ小刻みに揺れている。手拭きを鍋掴み代わりにして、鍋を開けた。
わっと白い蒸気が立ち込める。充満する磯の芳しい香りを、思わず肺一杯吸い込んでしまった。三ツ葉は連写モードでシャッターを切りまくった。
アワビの肉は貝の上でまだ踊りながら収縮していた。三ツ葉はすかさずレモンを掛け、バターを慎重に一切れ落とす。とろり脂が溶けていく様をまた撮る。カメラのフィルムにはどんなご馳走が映っているのだろうか。おいしいモノばっか食べてるくせに、舌の裏からよだれがじゅじゅっと溢れてきた。
一通りカメラに収めた三ツ葉は、ナイフとフォークを手に取り、アワビを切った。
そう、ナイフとフォークだ。
アワビのバター焼きは、ナイフとフォークを使う。まるでレアフィレステーキを切るように、一口サイズにスライスしたアワビを口に運ぶ。
「三ツ葉んちってさ、お金持ちなの?」
「なに、突然」
「や、なんか、様になってるから」
箸じゃないんだ。漠然と箸で丸ごと挟んでかじりつくもんだと思ってたけど、世の中には未知の上流作法があるのだった。なんという階級ギャップ。
「別に。ただ親が旅行好きなだけだよ。松本って内陸だからさ、旅ってなると海行きたがるわけ」
神奈川の湘南(の東端)に住む自分としては、複雑な心境だ。海が近いから海鮮料理に詳しい、なんてことはない。近くの海岸にいる貝なんてフジツボくらいだ。
とはいえ、挙動不審になるのは恥ずかしいから、見よう見まねで、あたかも食べ慣れてるふうを装って、アワビにナイフを入れた。想像以上にすんなり切れる。口にする。
バターと磯の香ばしさ、それからレモンの酸味が口内から鼻に抜ける。こんな幸せな呼吸初めてだった。しかしそれは序章に過ぎない。アワビのなにがいいって、歯ごたえだ。こりこりと適度な弾力。噛むほどに頬が緩んでいく。呑みこんでしまったらなくなってしまう! なんて貧相で贅沢な悩み!
焼いてレモンとバターをかけるだけの単純な料理なのに、こうも魅了させる。単純だからこそ素材の旨味が出てくるのかもしれない。
こんな最高の出会いをもたらしてくれたことに感謝なのであった。
食らう者の感謝の表現方法、これ完食することなり。一品一品丁寧に食した。
今の自分だったら、幸せ太りを肯定できる。実に庶民じみた感想を抱きながら、膨れた腹をやさしく撫でた。
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