東一

一日目——其ノ一

 壊れるときは一瞬。それは全てに共通する。どれだけ長い時間をかけても、どれだけ高く積み上げても、一度傾くと、それまで培ったものとは無関係に崩壊する。この世界は豆腐のように脆く出来てて、繊細なバランスの中で「不安定な安定」を保ってる。人々はその「不安定な安定」の「安定」にだけしか目を向けず、そこが永遠に安泰だと本気で信じ込んでる。昔の俺のように。

 俺の人生はかなり優しいものだったと思う。あらゆることが自分の思い通りになってきた。人生イージーモードと言われても仕方がないかもしれない。

 これを自分で言うと、顰蹙ひんしゅくを買うかもしれないけど、俺は昔から成績優秀で運動神経抜群だった。友達も多かったし家柄も悪くない。恋人にも苦労しなかった。何を指標として競いあっても、常に上位層に位置していた。

 当時の俺はそれが当たり前だと思ってた。どう転がっても、自分にとって都合のいい出来事しか起こらないと信じていた。「喜怒哀楽」なんて言葉があるけど、その中の「苦」や「哀」なんて言葉は自分に全く関係ないことにしか思えなかった。

 周囲には、何をやらしても下手な人間もいたけど、そいつらがなぜできないのか、努力せずとも何でもできた俺には全く理解できなかった。

 だからと言って、何の努力もせず適当に生きてきたかと言われるとそうでもなくて、むしろ逆。「何をやっても上手くいく」っていう安心感が心を楽にしてくれて、その心の余裕があったから何事にも精一杯打ち込めたし人に優しくする事も出来んだって、今になってそう思う。

 でも、俺が見ていたその世界は氷山の一角でしかなかった。

 高校三年の秋、付き合っていた彼女が妊娠した。正直、そんなつもりは全然無かったから、さすがの俺も少し焦った。相手も学生だったから責任も感じた。だけど当時は、なるようになると思っていた。

 彼女が妊娠して一週間を過ぎた頃、その噂は学校中に広まっていた。その事を裏でいろいろ言うやつもいた。学校ではちょっとした有名人だったから、顔すら知らない人からも悪く言われてたと思う。

 それまで仲の良かったやつ、いや、本当は仲良くなかったのかもしれないけど、そいつらも手のひらを返したように冷たくなった。話しかけても無視されたり、すれ違いざまに冷やかされたりと陰湿な嫌がらせを受けた。

 彼女も俺と同じように非道ないじめを受けてたらしい。彼女の場合は女のそれだから、俺よりひどかったと思う。

 それが、俺の味わった初めての挫折。世界の危うさを知った初めての瞬間。あたりまえに存在していた楽しい学園生活なんてものは瞬く間に崩れ去った。それは思い通りにならなかった最初の経験でもあり、「安定」の脆弱さを知った貴重な経験でもある。

 その後、俺は卒業して結婚した。その数か月後には乃愛が生まれた。その子を初めて抱き上げたときは神秘的な気分に覆われた。

 俺は自我を捨てて仕事に励んだ。収入は高くなかったけど、すぐに高みへ行けると確信してた。生活もやっぱり順調で、安定した暮らしをすることができた。

 けれど「安定」は結局「不安定」だった。俺たちの団欒とした生活は突拍子もなく弾け飛んだ。

 半年前、妻は無くなった。事故死だった。その知らせを受けた直後は、何も感じなかった。人が死ぬっていう経験にない事象を、実感することができなかった。火葬され骨だけになった彼女を見たとき、ようやく事の意味を理解した。人生で初めて、我を忘れて哀哭した。

 今あるものがいつ消えるかは分からない。この先、俺の身の回りから、いろんなもの無くなってしまうかもしれない。もしかしたら自分の命すらも。それでも俺は構わない。ただ一つ、乃愛の乃愛自身が納得できる未来があるのならそれでいい。今はそう思ってる。

 世界の「不安定」さを知った所で、何かが変わるわけではない。知っていても、それを阻止することは叶わない。

 でも、可能性を吟味することはできる。それは予兆の発見に繋がるかもしれない。予兆が分かれば乃愛をそこから逃がしてやれるかもしれない。

 俺は自分の能力の限りを、そこに注ぎ込もうと思う。壊れやすい世界だからこそ、壊したくないものだけは守りたい。もう二度と、あの塩気は味わいたくない。




                   ○


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