五日目――其ノ一

 不快感の中に目を覚ます。

 異様なまでに冷え切った体。全身が硬直している。特に手先足先は変な痛みを伴う。

 服は何かに浸されたように濡れている。それが皮膚にへばり付き、僅かな動きで表面を這う。音から、すぐ隣を川が流れていると判断できる。

 胸のすぐ下辺りに何かが触れる。それは固くもなく柔らかくもないと言った印象。缶の底よりも少しだけ大きなサイズ。それが強く食い込み、引いていく。それが数回、繰り返される。

 生暖かい空気が顔に当たる。ねっとりとした生の臭い。やや太みのある息遣い。

 私の薄く開いた口を覆い隠すように、湿った穴が付着する。細かい無数の尖りがその周りを突き刺す。

 穴から多量の空気が注ぎ込まれる。強制的に膨らまされた肺は、それまでのリズムを大きく乱す。私は反射的に咳き込むと同時に目を開く。

「うっ」

男のような低い声。穴は私から遠ざかり全容を現す。

 肌色の薄い体に、女性にしては太く男性にしては細い腕。水の浸みこんだ長い髪。そしてそれに隠された白い顔。端的に言うならば、下の下着一枚の濡れた長髪の男性がそこに座っている。手は軽く私の胸に触れている。先ほどの穴は、二枚の唇。

 猥褻な姿で女性の胸を揉み、唇を重ねる男。つまり、そこにいるのは変態。それ以外の何物でもない。私はとっさにそいつを突き飛ばす。

「おっ」

そいつはただ硬直する。長髪で顔は隠されているがこちらを向いている。唯一見える口元は固く紡がれており、無表情を読み取らせる。

「なっ、何?」

予想よりも出ない声。私は少しだけ体を起こし問いかける。それはこの状況における沈黙への恐怖心を回避するための行動。

「あ……あ……」

そいつは何か言っているが、小さすぎて聞き取れない。謎は深みへと沈んでいく。

 数秒の間、場は停止する。両者の動き。私の思考。

 そして突然、そいつの表情は変化した。

「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」

裏声のような甲高い声。半狂乱なその笑い。

 私は逃亡した。脳がとっさに判断した。その場が危険であることを。

 走る。走る。走る。走る。

 背後からはいつまでも狂気じみた声が聞こえてくる。

 川沿いを一心不乱に駆け下る。水分を含んだ重たい服。山の早朝の切るような冷気。それらが足取りを重たくさせる。

 声が唐突に消える。私は無意識的に振り返る。

「だっ・だっ・だっ・だっ……」

影は遠い。しかし、やつはこちらを一直線に見つめながら追ってきていた。走りは男性のそれ。私よりも明らかに速い。私はとっさに、川辺よりも死角の多い山道へと進路変更する。

 木が服に引っかかる。足がもつれ、転倒する。それでも私の意識は逃れることにしか向かなかった。




                   ○




                   ○




 窮地を脱する。息をつく。

 山道を進むと見覚えのある道へと繋がった。私はコテージへの帰途に就く。

「だっ・だっ・だっ・だっ……

しばらく歩いたところで聞こえ始める足音。叩きつけるような焦燥感に駆られる。しかし、それはすぐに鬱念へと変化した。

「しずこ」

これから始まる息苦しい時間を考えると気が遠のく。

「静子だよね? 本物だよね? どこにいたの? 何があったの? ケガしてない?」

いつも以上に鬱陶しく聞き寄って来る。一晩山で行方不明になった事から、私の身に何か起こった事は誰からみても明白。だから、そこから弱みを見つけ出そうとこいつは必死。私は一呼吸置き、平然を装う。

「そう。本物よ。どこにいたは分からない。何も無かった。ケガもない」

「何もなかった? 嘘。そんなはずない。服は破れているし、泥だらけ。それに全身びしょ濡れ。これで何もないなんて思えない」

「服はその辺の木に少しひっかけただけ。水たまりを思いっきり踏んじゃったから汚れてるのはそのせい」

つけないまともな嘘。子供でもつけそうな安い嘘。まだ、先ほどの出来事に動揺している。

「水たまり? そんなのどこにあるの。昨日は快晴だった。ほら見てよ。地面はこんなに乾いてる」

引き下がらないこの女。もう、やめて欲しい。こいつの相手をしてやれるほどの余力は残っていない。

「ここが乾いているからといって水たまりが無い理由にはならないわ。ここは山よ。湿ってる場所なんていくらでもあるわ」

「何も無かったなら、どうして昨日帰ってこなかったの?」

「それは私の自由でしょ。急にいなくなったのは悪いと思ってる。でも実際何もなかったし、あなたが心配するようなことじゃない」

強引な理屈。自分で言ってても分かるこじつけ。終わらせたいけれども終わらせる言葉が思い浮かばない。

「なんで? なんで何も教えてくれないの? 強がりはもういいよ。私、長い付き合いだからなんとなく分かる。静子が何か隠してるってことくらい。そんなに私が信じられない? 話してよ。力になるから」

悲観的な口調になったり、荒々しい口調になったり。押したり引いたりを繰り返しながら、あいつは私の心を揺さぶって来る。

「あなたの気持ちは理解した。でも本当に何も無かったわ。それ以上何も言う事は無いわ。」

相手に呑まれぬようにそう返す。

「どうしてそんなに意地を張るの? こんなに証拠は揃っているのに」

何を言っても言い返してくる。私の中の抑制の糸がちぎれた気がした。というよりも、先ほどの男との出来事で、飽和状態になっている脳内の情報を整理したいがために強気になっていた返答の姿勢が、より強力になったと言う方が正確。私は少し強く言い返す。

「証拠? なら私の身に何か起こったと誰が見ても分かる客観的な理由を教えてくれる? あなたが言ってるのは、私の状態から予測した単なる妄想でしょ。信じてないのはあなたの方よ。私を疑いたいなら、まず水たまりがない証拠でも見つけてくればどう? そうすればもう少しだけ詳しく話してあげてもいいわ」

私はあいつの手を当たり散らすように引き剥がし進み行く。あいつは、普段見せない私の怒気に動揺を隠せない様子だった。




                   ○

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