二日目――其ノ二

                   ○




 問題発生。私はいつの間にか寝てしまっていた。目が覚めた時刻は午前三時。あいつは睡眠中だと推測できる。タイミングを逃す。

 私は寝られなかった。あいつの、絶望に触れたかのようなリアクションを想像すると、交感神経が優勢になる。今すぐにでもそれを鑑賞したい。

 耐えがたい欲求が私を襲う。計画を先送りにする事は物理的に可能であれど精神的に不可能。私は神に祈りを捧げる。それに効果などは期待していない。ただ、その行為に満足を求めているだけ。

「ガチャ」

それは予期していなかった音。私の部屋の前、つまり、あいつの部屋が開く音。あいつは起きている。ドーパミンが異常に分泌される。

 私は速やかに策を実行に移す。待ち侘びたこの時。私はあいつが戻るのを待って、ドアの前にスタンバイする。壁に耳を当てる。何も聞こえない。

 画面に手を触れる。拾ってきた音源を再生する。心拍数が上昇する。

「……」

 しかし、何も流れない。何も聞こえない。お経の音もあいつの音も。

 私はもう一度画面に触れる。何も起こらない。先ほどは鳴ったその音が全く再生されない。

 私はこの状況を考察する。先ほどはできて、今はできない。さっきと今では異なる事。時間帯、照明の有無、皆がコテージ内にいること、そして自分の位置。前の三つの変化が機器に作用するとは考えにくい。だとすれば私の位置が原因。先ほどは部屋の中で再生を押した。今は部屋の外。つまりスピーカーとの距離が離れた。電波が届かなくなったと考えるのが妥当。

 私は手を伸ばす。可能な限り高い所へ。スピーカーとの距離が最短になるように。だが、何も変わらない。何度も再生を押す。しかし、何も起こらない。これ以上近づけるためには部屋の中に入る他ない。それは大きな危険を伴う。私は選択を迫られる。隙間から灯りは漏れていない。部屋内の電気は消されている。状況によってはうまくいく。

 どうするか迷う。あきらめるか、突き進むか。

 そのとき私は、昔、父から聞いたとある言葉を思い出す。

「大志を実現するためには、時にリスクを負わなければならない」

進もう。六年も煮込んだこの感情。今がリスクを負うべき時。それだけの理由がある。

 ドアノブに手をかける。そしてそれをそっと回す。扉をゆっくりと前に押す。

 暗く静かな部屋。弱く月明りが差し込んでいる。目の前には歪んだベッドが一つ。歪を与えているのはあいつ。言い換えると、あいつがベットの上で寝転がっている。背中をこちらに向けて。

 安堵を覚える。しかし、気は緩めない。

 「そっ……そっ……」と少し中に入り手を伸ばす。再再生。

「&%$#……」

天井裏から淡く響き始める音。あいつに動きはない。寝ているのかしら?

「&%$#“!&%$#”!……」

音量を少し上げる。あいつは体勢を変えずに耳からイヤホンを外す。起きている。

無眼界むがんかい 乃至ないし無意識界むいしきかい 無無むむみょうやく 無無明尽むむみょうじん……」

あいつに大きな変化は無い。あいつが恐怖を覚えているか私には理解しようがない。

 反応が無い。快感が無い。大きな動きを期待していた。しかしあいつは横になっているだけ。ただ、寝ているだけ。

能除のうじょ一切いっさい 真実しんじつ不虚ふこ 故説こせつ般若波はんにゃはみっ多呪たしゅ……」

あいつは体を丸める。微々たる変化。面白くない。もっと見ごたえのあるものが欲しい。

即説そくせつしゅ 羯諦ぎゃてい 羯諦ぎゃてい 波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい……」

さらに音量を上げていく。最大になる。あいつは未だ固まったまま。人の心を読み取る機械があれば楽しめた。テクノロジーの発展の遅さを悲嘆する。

菩提薩婆訶ぼじそわか……」

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

それは唐突。しかし必然。こいつは限りなく優しい娘。そう思えた。怖いというその感情を、こいつはわざわざ体現する。「怯えています」という心情を。私の願いをこうして叶える。

 私は満足し扉を閉じた。


 

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