第1話 セルゲイ・ワルツ
少年の家はどこにでもありふれる、ささやかな家庭を築いていた。
風に木々や生い茂った雑草がたなびき、時には家畜の鳴き声も聞こえてくる。
そんなとある田舎町の、のどかな風景の中にポツンと立っている一軒の民家。
大して大きくもなく、綺麗な見た目でもなかったが、それでいて煙突から出てくる煙は、まるで中で幸せを生成していると主張している様だった。
しかし突然、そんな平穏を絵にかいたような景観を壊すように、十歳の少年が元気よくドアを開けた。
――バン!!
勢いよく外に飛び出そうとした少年であったが、それは許されなかった。
家の中から、かわいらしい女の子が少年の手を引っぱる。
「お兄ちゃん! 私も行くー!!」
「ダーメーよ。こら! お兄ちゃんの邪魔しないの。これからお兄ちゃんは学校に行くんだから。ほらセルゲイ、忘れ物はない?」
「大丈夫だよ、お母さん。それじゃあ、行ってくるね!」
駆けだした少年の名は、セルゲイ・ワルツ。
後に世界最大の刑務所、レクイエムを創立し、最高顧問を任される男である。
家は農家をしていて父、母、そして妹と四人で慎ましく暮らしていた。
優しくて、真面目で、家族思いな、決して特別な子供ではなかった。
だが、セルゲイの人生は、今日を持って変わり始める。
*** *** ***
日が暮れ、学校から帰ったセルゲイは、自分の家が目に入った時、中から見たことのない男が逃げるように立ち去ってゆくのを目撃した。
父か母の知り合いなんだろうと深く考えず、ドアに手をかけ家の中に入り、姿の見えない家族に話しかける。
「ただいまー」
「おかえりー」と、いつもなら妹が寄ってくるはずなのだが、今日はそれが無かった。
おかしいと思いながらも、セルゲイはリビングに向かい、暗い部屋に電気を灯した。
部屋が照らされ、セルゲイの視界に飛び込んできたのは、荒らされた真っ赤な室内と、変わり果てた三人の姿だった。
父親はナイフが刺さった首から血を流し、うつぶせに倒れている。
体は変色し、生を感じさせなかった。
母親と妹は服が破かれ、二人とも半裸状態だった。
断片的に見える皮膚には無数のあざがくっきりと刻まれており、二人の股間からは大量の血が流れ出ている。
母親の死因は絞殺だろうとすぐに判断できるくらい、首にはしっかりと絞められた跡が残っていた。
微動だにしない母親の悲痛な表情からは、殺害された時の状況がたやすく想像できた。
死んでいる母親の目を見て、絶望に打ちひしがれたセルゲイだったが、妹の顔は見ずに済んだ。
なぜなら妹は、首から上が切り取られて、持ち去られていたからである。
「うぐっ!!!!」
むせ返る様な瘴気と狂気にセルゲイは抑えられず、胃の中身をその場に吐き出した。
強盗目的で偶然狙われたワルツ一家の惨殺事件。
刑務所から出所したばかりだというのに、すぐにワルツ家に手をかけた薬物中毒の男は、その後すぐ捕まり、死刑判決が下される。
しかしセルゲイの家族はもう戻らない。
この事件が、これからのセルゲイの人生を大きく変えることとなる。
*** *** ***
家族を失ったセルゲイは親戚の元へと引き取られた。
セルゲイが見たあの日のおぞましい光景は、到底忘れられるものではなかった。
脳裏に焼き付き、しばらく眠れない日々が続いたが、それでも腐らずに周りの人間に支えられ、少しづつ、事件を過去の出来事と受け入れ、傷を癒していった。
少しでも何かをしていなければ、あの出来事を思い出してしまう。
セルゲイは、気を紛らわすため、暇を作らぬようひたすら勉学へと時間をつぎ込んだ。
親戚は自分たちの評判のために勉強をしてくれているとセルゲイを心配していたが、本人は好きでやってることだと、かたくなに主張したので止めなかった。
セルゲイ自身も、自分に良くしてくれる親戚に迷惑をかけたくなかったので、粗相のないよう気を遣っていた。
*** *** ***
親戚に預けられてから八年の月日が流れた。
十八になったセルゲイは、親戚の元を離れ、グラミーへと上京する。
勉強はできたが、進学するための学費を払わせたくなかったセルゲイは、仕事を求めて一人グラミーへと旅立ったのである。
どこへ出しても恥ずかしくないと、親戚は過去の不幸を感じさせない真っ直ぐな好青年へと成長したセルゲイを見送った。
田舎から初めて都会に出たセルゲイにとって、見るものすべてが興味深かった。
道もわからず路地を伝い、気づけばセルゲイはスラム街へと迷い込んでしまう。
慌てて来た道を引き返そうとしたが手遅れだった。
周りを見れば、いつの間にやらセルゲイは、ガラの悪そうな少年たちに囲まれていたのである。
にやにや笑いながら道を塞ぐ彼らに、セルゲイは話しかけた。
「すまない。道を間違えた。そこを通してはくれないか?」
「ここを通るにゃ通行料を払ってもらわないとなあ。兄ちゃん」
頭のいいセルゲイは何を言っても通じないだろうと、財布を出し、何枚か札を取り出して差し出した。
「おっ! 話がわかるじゃねえか!」
道を塞ぐ少年はセルゲイの手から金を奪いとろうとした。
だが、セルゲイはギリギリのところでその手を躱し、持っていた金を自分のポケットに押し込んだ。
「あ? なにしてんだ? てめぇ」
少年たちの目つきが変わる。
じりじりとセルゲイに詰め寄った。
「私は悪には決して屈さない。貴様らに金を奪う権利などないはずだ。神色自若を心に持てば、私の正義は揺るがない」
あの忌まわしき事件以降、セルゲイは悪と言う悪が許せなかった。
わずかばかりの不正でも許さなかったセルゲイは、学生生活でも一人、かなり浮いた存在であったと思う。
だが、セルゲイはそれを苦にしなかった。
事件からの八年間で、セルゲイは悪人は決して許さないと、今は亡き家族に誓うようになっていたのである。
なぜならあの日、ワルツ家に立ち入った人間を世界が許していなければ、あのような悲劇は起こらなかったのだから。
「兄ちゃん、いい度胸してんねえ」
男は指をパキパキと鳴らし、セルゲイに向かって威嚇する。
「間違っているのはお前らの方だ。私は自分の信念を曲げたりはしない」
「じゃあお望み通りぶっ飛ばしてやるよ!!」
「やめろ!!」
男が振りかぶり、セルゲイの顔面を打ち抜こうとした瞬間、一人の少年がセルゲイを庇った。
「なんだよボス、こんなやつぶっ飛ばしちまえばいいだろ」
「いいから……、てめえらはどいてろ」
不良の後ろからセルゲイの前へと歩いてきたボスと呼ばれる少年は、ガラの悪い少年らの中でもさらに幼く見えた。
おそらくあの事件があった時の。
八年前のセルゲイと同じくらいの年齢だ。
「なあ兄さん、名前教えろよ」
「セルゲイだ。セルゲイ・ワルツ」
「そうか。俺はエルビス・ブルース。よろしくな」
幼きエルビスと名乗る少年は手を差し伸べたが、セルゲイはその手を払った。
「不良となれ合うつもりはない。用がないなら私はもう行かせてもらう」
立ち去ろうとするセルゲイをエルビスは止めた。
「まあ待てよセルゲイ。おまえどこに行くつもりなんだ?」
セルゲイには行く当てなどなかった。
求人の張り紙がしてある店を一軒一軒まわり、受かったらそのまま近くに住み込もうとしていた。
仕事は何でもよかったし、給料だって口にのりが出来れば十分だとセルゲイは考えていた。
「私がどこへ行こうと、お前には関係ないだろう」
「どうせ行く当てなんてないんだろ? ならお前、俺たちの仲間になれ」
セルゲイの行動は見透かされていたが、突拍子のない提案にセルゲイはため息をついた。
「何の目的か知らんが先に言っておく。私はお前らのような悪党が大っ嫌いだ」
「そう言うな。俺たちも生活の為なのさ。それにおまえには、まだぎりぎりなにもしてねえだろ?」
スラム街出身の人間は教育など受けられない。
エルビスもまた、その一人だった。
年を重ね、成人するころには、マフィアになるか、売人などの非合法な仕事に手を染めるか、あるいは刑務所に送られるか。
エルビスたちスラム出身の子供の未来には、その程度の選択肢しかなかった。
エルビスは幼いながらこの状況を打破しようと考えていた。
そこに田舎者丸出しのセルゲイがやってきたのである。
仲間にして、せめて文字の読み書きでも教われれば、自分たちにもなにか仕事ができるのではないかと考えたのだ。
過去の事件により、悪人を毛嫌いするセルゲイがその提案を受けるとは思えなかった。
だがしかし、スラムの人間をまとめ上げた様に、エルビスの才能はこの頃にはもう開花していたのである。
エルビスの交渉が始まった。
「おまえが俺たちを部下として好きに使っていい」
「おい、何言ってんだボス!!」
「ふざけんな! こんな坊ちゃんに使われるだと?」
「勘弁してくれよボス」
ガラの悪い少年たちの罵声がスラム街に響いた。
対してエルビスは叫ぶ。
「黙れおめえら! 俺たちはなあ、どこかで人に頭を下げなきゃ先はねぇんだ! 金はねえ、常識はしらねえ、字は書けねえ。下らねえプライドに縋って、死ぬまでこのまま底辺でいいのかよ!?」
少年たちは黙り込む。
それを聞いていたセルゲイはエルビスの意図を知った。
こいつらは間違いなく悪人だ。
どう言いつくろっても先程の恐喝が証言をしている。
だがしかし、本当に変わろうとしているのかもしれない。
自分なら、こいつらをまっとうに変えてやれるかもしれない。
セルゲイはそう考えた。
「エルビス、私の命令なら何でも聞くか?」
「ああ。セルゲイ、俺たちを救ってくれ」
セルゲイは静かに頷いた。
不良に囲まれても頑固に正義を貫くその姿勢を見て、この答えは最初からわかっていた。
すべてエルビスの計算通りであった。
*** *** ***
セルゲイはグラミーにある飲食店に就職した。
給料こそ安かったものの、熱心に仕事をし、空いた時間でスラムに行っては、子供たちに勉強を教えた。
もともと学力の高かったセルゲイは、人に物事を教えるのもまた上手かった。
寝る時間すら惜しむセルゲイの生活は、非常にハードなものだったが、セルゲイはどちらも手は抜かなかった。
飲食店では店にも客にも信頼されるようになったし、スラム街の子供たちからは、仕事を得るまでにはいかなかったが、感謝はされるようになっていった。
教育により、いつの間にかスラム街である程度の治安が保たれようとした時、セルゲイは考えるようになる。
もっと大きな規模で自分が活躍出来たら、世界から犯罪を無くすことができるのではないのかと。
*** *** ***
セルゲイがスラム街に通い出してから二年が経とうとしていた。
きっかけは些細なことである。
その日、グラミーの記者がスラム街に取材が来た。
たまたま見かけていた人が連絡したのだった。
マスコミは面白おかしく、セルゲイを褒めたたえた。
『無償でスラム街の子供たちに勉強を教え続ける少年』と言う見出しは、群衆の話題になった。
セルゲイはその顔の良さも相まって、あっという間にグラミー中の有名人になっていた。
セルゲイにとって、これが絶好の機会だった。
エルビスと相談し、その年の議員に立候補すると、学力も知名度も持ち備えていたセルゲイは、あっけなく当選してしまったのだ。
グラミー史上、最年少の議員の誕生だった。
だがセルゲイは、それだけで満足はしていなかった。
権力を得た今、さらに大きな事業で世の中の犯罪者を減らそうと考えたのだ。
*** *** ***
セルゲイはその類稀な才能を見出し、エルビスを側近としておいていた。
どうしても仕事のないスラムの子供たちは、一人残らず自分のボディガードとして雇っていた。
世間からは武力団体に見えていたかもしれないが、その業務は至極真っ当なものだった。
セルゲイの救った人間はその時点で、すでに数えきれなかった。
エルビスの才能、そして自分のカリスマのイメージ。
それら二つをもってして、政界でセルゲイは力をつけ続けた。
ある日、日々忙しくグラミー中を走り回るセルゲイが、珍しくエルビスを食事に誘った。
「いやあ、あんたについてきて正解だったぜ。セルゲイ、まさか俺たちがここまで上り詰めるとはなあ」
「まだまだだよエルビス。まだ私の夢はまだ始まってすらいない」
「これだけ手に入れてきて、さらに夢ときたか。一体おまえはなにが欲しいんだ?」
セルゲイはしばらく黙り、ゆっくりと口を開く。
「『犯罪のない世界』。私はそれを実現して見せる」
エルビスは「なにを馬鹿なことを」と口に出しかけたが、相手はここまでのし上がった剛腕セルゲイである。
その言葉は冗談にも、酔った勢いにも聞こえなかった。
「エルビス、お前にはこれからも働いてもらうぞ。それで一つ頼みたい事がある。ある人物を落としてもらいたいんだが――」
「金か?」
「そうだ。来月セレナーデの当主と会合する。お前の出番だ」
セルゲイのそれを聞いてエルビスは口に含んだ酒を吹き出した。
「セ、セレナーデだと!? 一体いくらひっぱるつもりなんだ!?」
出てきた名前はスラム出身のエルビスでも知ってるほどの大富豪だった。
セレナーデを引き込むということは、それだけで大規模な計画を匂わせる。
「まだわからないがかなりかかるだろうな。何しろその金で世界一の刑務所を作るんだから」
「おいおいそんなもんもう世界中にあるじゃねえか。大体、公共機関を作るなら議会を通して税金で賄えばいいだろう?」
「それも使うが、とても足りない。私が作るのは尋常一様な刑務所じゃないからな。それに――」
「それに……、なんだ?」
「その刑務所の建設は所詮第一段階にすぎない」
セルゲイはカバンから一つのファイルを取り出しエルビスに渡して見せた。
渡されたそのファイルには『レクイエム計画』と書かれていた。
*** *** ***
二十三になったセルゲイは、エルビスと共にヘリに乗り込んでいた。
初めて乗るその乗り物に、エルビスは緊張を隠せない。
「おいおいセルゲイ、どこ行こうってんだよ!?」
「例の刑務所が完成したんだ。お前と一緒に見に行きたい」
ヘリのプロペラが耳に鬱陶しく入る中、セルゲイの目はきらきらと輝いていた。
エルビスがセレナーデ財閥に話を通したことにより、順調にレクイエムの建設は進んでいった。
世界に名だたるセレナーデ財閥が総力を挙げたことにより、レクイエムは恐ろしいほど短期間で完成した。
レクイエムを上空を飛ぶヘリから見たエルビスの第一印象は、巨大な塀である。
「見ろ、エルビス。囚人を囲む塀がぐるっと一周張り巡らされているだろう」
あまりにも壮観な眺めにエルビスはただただ心を飲まれる。
「あそこがレクイエムの入口だ」
セルゲイが指さす先には廃ビルが無数に立ち並んでいる。
「あんなビルまでわざわざ立てたのかよ」
「いや、もともとこの島にあった都市だ。もう何年も使われてないがな。それを利用して、ちょうどあそこに入口がくるようにしたのさ」
「何の目的で?」
「無論、投獄される囚人に、お前にはもう文明は必要ないと主張するためだ」
エルビスは深いため息をつく。
「あんまりいい趣味には聞こえねえなあ」
「覚えておけ、エルビス。犯罪者に舐められたら終わりなんだ。私の家族は――」
セルゲイはそう言い、言葉を飲んだ。
レクイエムが完成に至ったことで、家族を不意に思い出し、気づかぬ間に目に涙を溜めていたセルゲイの顔を見て、エルビスは何も聞かない事にした。
セルゲイの夢は、着実に一歩づつ実現へと向かっていた。
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