部屋には真人としおりの二人だけが残された。

黒澤が消えた光が薄れ、また凍てつく静寂が訪れる。


真人は、指をぴくり動かした。

それだけで、しおりが震える声を吐いた。

「真人」


真人の神経もまた鋭敏になっていて、言葉を発する後ろのしおりの呼吸さえ感じ取れた。

真人が応じずにいると、しおりが動いた。それまでずっと、真人のやや後ろか横から決して前に出てこなかったしおりは、真人の正面に回り込んだ。


「まさか、行かないよね、真人」

「……」


「感じていた。ずっと。あなたの心は浮かんでいた。ここではないところに。あなたが亀利谷さんを見る目にもたくさんの感情が。黒澤さんへの噴き出るような怒りが、ここに来てから急に薄れていったのも。何かが、黒澤さんの何かが、あなたの心をとらえてしまったんだよね」

「……」

「でも、行かないで」


「俺は…」

真人はしおりの濡れ始めた瞳につぶやいた。

「…俺は、孤独だった。小さい頃から両親はいない。たった一人、好きだったのは姉ちゃんで。その姉ちゃんがいなくなってから、一人だった。ほんの少し、そこに幸せだと思えたものをくれたのがお前で」

真人の瞳からもぽたりと温かい粒が落ちた。


「お前からは偽りで始まっていた愛だとしても。今なら、分かるんだよ。今の俺は、愛するってことを、あの頃よりちょっとは分かったつもりで。それを教えてくれた人がいて。だから分かる。俺には最初から本当だった。それに今でも…わだかまりをほどいて透明な心で言えば、お前を―君を思う心は少しは残っているんだろう」


しおりの唇が開きかけた。


「でもな、俺は阿賀流に来て、失っていたものをほんの少しだけ取り戻せた…。そしてまた失った。失ったものは多すぎる。人は意味を形作るのだというなら、俺の意味を形作っていたものは失われて。今の俺は空っぽの存在だ。黒澤は憎い。だがそれも本当に憎いと言えるのか。憎いと信じることで空虚な俺を埋め合わせていたんじゃあないだろうか」


真人はしおりを静かに避け、前に進み出た。

「あっ……」


「俺は…。黒澤がああなったことを、理解出来るんだ。いつからか、亀利谷さんより黒澤に共感していたんだよ、しおり。俺達のすべてを形作った何かがこの世界の外にいるだと? だからなんだというんだ? すべてが決まっているだと? 決まっていることには抗えないだと? 運命とか、パラメータだとか。そんなことを否定出来る力が欲しい。定められたことを否定できる力。運命なんてものを書き換えられる力。俺自身が、アガルティアンが決めたものなんかじゃない物語を紡げる力」


「だ、ダメ、そんなの、そんなの間違ってる」

再びしおりが立ちはだかった。真人にしがみついた。

「愛してるの。分かってる、あなたが信じないことも。でも―」


「いや、信じるよ。もし俺達が本当に愛でつながっているというのなら、お前と本当の意味でずっと愛し合っている世界もどこかにあるんだろう。でも、違うんだよ、しおり。それじゃあ、俺達はただ定められた物語の登場人物のままだ。選択肢が違っただけ」

真人は微笑し、そっとしおりの身体を離した。


「肉体からの解放、原初の意識になる、すべての可能性を見渡せるなんて、想像も出来ないな。黒澤でさえ絶望したという。だけどそれが道になるというのなら。そう、神様なんて聖なるものなんかじゃなく、黒澤が言うように、ラプラスの悪魔でいい。世界に抗ってアガルティアンに辿り着いて、俺達の愛や人の心はお前達に作られたものなんかじゃないと、文句を言う。俺達の物語は俺達自身が紡ぐ。それが俺の選択だ」


真人は壁に近付いた。


しおりが顔をぐしゃぐしゃにして叫んだ。

「どうして? そんなこと、どうでもいいじゃない! 人と人の出会いが、それが定められていたことだとしたって、だからなんだって言うの? 確率の話なんだとしたって、私とあなたが出会った偶然は無限にあるっていう可能性の中でたった一瞬起きた偶然は奇跡みたいなもので、たとえどんな理由から始まっていたってそれが本当の愛になってはいけないのッ? どこか知らないところに答えなんて探しに行かなくたって、いつでも分かってることなのに? あの人だって、そんな選択にイエスなんて、絶対言わない!」


「しおり」

真人は声を出した。

「俺達の間にあった時間は、俺達の距離を変えたな」


真人が壁に触れると、お馴染みになった稼働音が聞こえ出した。


「おかしいよ、おかしいよッ。真人、おかしいよ! 阿賀流はこれからどうなるの? 黒澤さん達が残していったここの可哀想な人達は、どうなっちゃうの? そんなの無責任だよ、捨ててどこかに旅立とうなんて、それじゃあ、亀利谷さんと同じことじゃないの? 地に足がついた傷付け合った愛に苦しむこともしようとしないで、それで宇宙の理だとか、そんなものを求めようなんて! 何もかも見える? 違うよ、そんなの、何も見えてないじゃない!」


「だから見にいくんだ、しおり。お前の声では俺に響かない」


「わ、私は、私は―」

部屋を包む白光にもしおりは目を閉じなかった。曲がり寄っていた眉が、引き締められた。

「私はッ!」

光で失われていくその影に、しおりは足を踏ん張り、両の拳を堅く握って、言葉を迸らせた。

「あなたとは違う答えをッ―」


光は消え、また冷たい時間が訪れた。

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