黒澤の提案に真人は動揺した。


憎しみの標的だった黒澤。

しかしここに来て黒澤の独白を受け、アガルタの片鱗を目の当たりにし脳への情報の洪水を受け、黒澤への迷いなき憎悪が揺らいでいた。


いっぽうで亀利谷へのかすかな疑惑は表面化した。

美奈子の最期に立ち会った亀利谷。

佳澄の最期に間に合わなかった亀利谷。

真人達にもいつその得物を向けるのか。


亀利谷の正義感は、黒澤の超越的な価値観ほどには真人の心に訴えてこなかった。むしろ黒澤への明確な敵意とはまた少し違う不信感さえ根強く残っていた。

黒澤には包容力さえ感じるが、亀利谷には器の小ささを感じてならない。若造、と黒澤が嘲るのもあながち頷けないわけではない。


真人が亀利谷に向ける羨望はその力。黒澤が、アガルタのほんの表面をなぞっただけだと言うその力。それでもこの世界でなら圧倒的とも思えるその力。では黒澤の力なら。ではその黒澤でも成し得なかったことを成し遂げられる力なら。


真人はのろのろと視線を亀利谷に向けた。


亀利谷がぎょっとしたように目をむいて真人に笑いかけた。声は乾いていた。

「お、おい。大丈夫だ。お前らは黒澤の被害者なんだ。まさか黒澤のこんな悪あがきをまともに信じはしないよな?」

「……」


「真人。図星だろう」

黒澤の声は部屋によく響いた。

「俺は弁明など一つもしていないな。ただこの世界の在り方を教え、俺がこれまで何をしてきたのか、その半生を話しただけだ。不確定な世界の可能性を変えていくということはきれいごとではない。ときにはある世界で悪と罵られることもあるだろう。自らの選択が消した世界を想い、良心が砕け散ることもあるだろう。誰にも理解されることなく、ただ避けられない未来を知りながらも歩みを止めることが出来ないこともあるだろう。お前が俺を憎むようにな」


黒澤は真人から視線を離さなかった。黒澤の瞳に星々の輝きが無数に反射する。

「しかし、それでいいのだよ。俺がこれまでやってきたことは、このときのためだったのだと今にして分かる。俺は読者に過ぎなかったが、お前はお前の目的のために物語を紡いでみせろ。こんな世界を創り出したアガルティアンにたどり着いてみろ。その可能性を俺は導いてきたのだ」

言いながら黒澤は壁に沿って横に動く。


その動きが亀利谷の反応を導いた。

「…もう時間は充分だ。させると思うなよッ!」


亀利谷は椅子から机に跳び上がり、長ネギを例によって黒澤目がけ真っすぐに突き出した。

その速さは毎度のことで、真人が気付いて止めようとしたときには、すでに長ネギは振り上げられていた。


勢いあまって身体ごと突っ込む亀利谷を、黒澤は予期していたのか横に動いて回避した。

長ネギが壁に振り下ろされる。


「…あッ!?」

驚きの声を上げたのは亀利谷だった。

ここまで無敵を誇ってきた亀利谷の長ネギは、壁に触れるとぐにゃりと歪み、ただの長ネギがそうであるように、湿った音を立てて脆くも折れた。これまで幾多見せてきた堅さが失われた、あるべき長ネギの本来の姿だった。


「ちっ!」

体勢を立て直す亀利谷に、黒澤が笑いかけた。

「やれやれ。話せば分かる、と言ったのは昔の誰だったか。俺が何も準備をしていなかったと思うなよ。俺の前で貴様の力なんぞが役立つものか」


すると、部屋から宇宙空間の投影がかき消えた。

映像が消えると、はっきりと分かった。亀利谷の立ち位置の壁、先ほどまで黒澤が立っていた壁が淡く輝いている。

そして何かが作動しているかすかな唸りが部屋を満たしている。


「こ、これは…」

亀利谷は狼狽している。

「…はめたな、黒澤ッ? さっきまでの映像は、ただの目くらましか!?」


黒澤は乾いた笑みを浮かべた。

「貴様には、この次元に存在するには不安定な要素がある。長ネギは長ネギらしく、他の次元の人間は他の次元へ、だ。あるべきものをあるべき姿に戻そうじゃないか」


「…ッ! 俺を、こんな…!」

亀利谷は明らかに焦り出し、身体を動かした。

不思議なことに、亀利谷の動きも、大きく振り回そうとした腕も、壁が輝いている範囲から外側には出ない。

まるで見えない壁でもあるかのように。

あるいは本当に、そこには障壁が生まれているのかもしれない、と真人はぼんやり思った。亀利谷は不可視の壁に閉じ込められている。


「この次元にこれ以上影響してはならないというのは貴様の持論だろう。貴様自身、ここではない可能性世界から来たのなら、この次元から排除されるべきだな。貴様は矛盾を内包している。象徴的ではないか。矛盾こそ、無限のエネルギーを生む、無から有を生んだ原初の力だ。矛盾により貴様は今から消滅する。そして、俺や真人は、憎しみと愛、反感と共感の相反するものを併せ持つ矛盾した原初の意識となるだろう」


黒澤は机に歩み寄った。その手が机の一角に触れると、亀利谷を束縛していた壁の輝きが、さらに明るさを増した。

その明るさは真人に思い出させた。真緒の消滅を。


「く、くそっ。俺がこんなことで―」

亀利谷は絶望的な努力を続けながら、真人に声を張り上げた。

「本多、本多ッ! どうして動かないッ!? し、しおりんッ!」


真人には分からなかった。

ただ眼前のシーンに対して為すべきことが分からず凍り付いているのか、黒澤の言葉に何か感じるものがあったのか。積み重なった亀利谷への反感が表面化したのか。

あるいは黒澤がラスボスよろしく残忍な笑みでも浮かべながら亀利谷を見ていればまた違ったのだろうか。

亀利谷を突き放すその言葉とは裏腹に、黒澤の顔に滲み出ていたものは言い尽くせぬ虚無だった。


「無限に戻るんだ」

黒澤は言い放った。


真人はただただ、これから消えるであろう亀利谷を、冷静に見届けるだけだった。

そして、後ろではしおりも。亀利谷にも真人にも、何も声をかけることがなかった。


「く、黒澤! 本多アァァッ! 俺の正義は追うぞ、お前達を、お、俺は、どこまでも追って―」


亀利谷は光とともに消えた。

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