黒澤の涙は途絶え、引き換えに頬は紅潮し、言葉に熱が入ってきていた。いっぽうさっきまで興奮気味だった亀利谷は、静かだが険しく黒澤を睨んでいる。


その二人に対し、真人としおりはおおよそ同じような状況で、日本語でありながらますます解きほぐせない黒澤の言葉に首をひねるばかりだ。

「さっぱりわけが分からないな。すべてのものに意識は宿るって? 霊が実在するとでもいうのか? アガルタは超科学の文明なんだろ。その行き着く先がオカルトとはどういうことさ。アガルタというのは、なんなんだ。誰が作った文明なんだ?」


黒澤がふっと頬を歪めた。

「オカルトとはまた陳腐な表現だが、霊と呼びたければそれでもいいだろう。この宇宙、この世界を無から生み出した神は確かに存在する。それこそアガルタそのもの、アガルティアンとでも言うべき者達だ」

「アガルティアン…?」


「いいか、俺がやったことなぞ、アガルティアンがこの多次元世界に仕掛けたことの模倣に過ぎない。アガルティアンは俺達のすべてをすでに決めている。人間の脳は、思考する前にすでに運動命令を出していると聞いたことがないか? それは意識すなわち心が、すでに定まっている記録を脳から引き出すために生じる時間差、ロード時間だ。脳とは0と1の原初の記憶の保管庫。この次元で起きていることはすべて定まっていること。俺の行動もまた、脳から引き出されたすでに定められた情報の出力だ。真人、お前は俺を憎んでいるだろう。お前の、あるいはお前に近い人間達の人生を『狂わせた』と。だが、人生が『狂った』とはなんだ? 『狂っていない』人生とはなんだ? そんな主観での判断などしても仕方がないんだよ、真人。すべてそうあるべくして起きたことなのだ」


「屁理屈を! そんな言い逃れが許されるか! お前はお前の意志で行動した。それを他人事のように…」

「何を聞いていた、真人。この次元において俺の意識などただの装置なのだよ。この次元は無数の不確定な可能性の中の一つの定まり。その在り様は無限大の0と1の集まりで記述され、その集まりに意味をもたせるものが知的生命の意識、お前のオカルト的に言えば霊。この次元はなぜこの姿をしている? 意識がそう解釈をするからだ。情報に意味をもたせ因果のある世界を形作ることが意識の仕事だ。そっちの坊ちゃんは、俺が恣意的に世界の可能性に介入したことを罪と咎めるが、残念ながらアガルタの真理の前では人の自由意志などない。俺の意志は、俺ではなくアガルタがすでに定めているものだ。俺の脳と遺伝子は情報処理をするためにかつてアガルティアンが創造したものだ」


亀利谷が真人達に険しい声をかける。

「口車に乗せられるなよ? 黒澤は言い逃れをしているだけだぜ。どんなにアガルタというブラックボックスを使って自分を正当化しようとしたってなあ、人として許されねえものは許されねえ」


「それはそうだ。同情するぞ。貴様はそう言わなければ自分の任務を果たしたことにならんのだ」

黒澤は冷笑した。

「同情…? バカにしやがる」


「だがそうして行動する貴様もまた、この世界という物語の中では登場人物の一人に過ぎん。アガルタに定められた一人だ。ほんの少し、他の次元にはみ出しているようだがな。貴様はアガルティアンではない。貴様が貴様の価値観において行動することもまた、アガルティアンが定めている事実。アガルタはただその行動が生む0と1の変遷を読み取るだけだ。貴様達はアガルティアンの思惑に忠実に動き、プログラムに反しようとする俺達を不穏分子として排除する。その行為こそ人間の意味を否定しようとする侮辱、アガルタの奴隷だ」

「真人を言いくるめられないと、今度は俺の番ってか? 0と1とか情報とか。なんなんだ、この世は仮想現実みたいなものだって理屈で煙に巻こうとしているのか?」


「理屈ではない、真理だ。では貴様のその言葉を借りるなら、この世はすべて仮想現実だと言おう。アガルティアンという神によって設計されたシミュレーションの世界。0と1の情報が無限に集まり、それを計算処理する演算装置として人の意識があり、出力結果として多次元世界がある…」

「そんな問答をしたところで、罪は消えないぜ」

亀利谷は鼻で笑った。


「哀れな。俺は罪などにとらわれていない。真人、空山君。君らが物語の中にいると仮定してみろ。この世界すべてが物語であると、自分は物語の登場人物に過ぎないと」

水を向けられて真人は面食らった。

「ばかばかしい。証拠がどこにもないじゃないか。現にここに俺はいる」

「そんなものは仮想現実が与える知覚に過ぎない。証拠というなら、そう否定するに足るだけの証拠のほうはどうか? この世界が、究極のリアリティがある仮想現実の世界などではなく、真実の世界であると証明出来るかね?」

「うっ……」


「とある物語の登場人物にとって、その世界は真実であるし、はたして自分達が、誰かが書いた物語の登場人物に過ぎないのではないかと、そんなことを考えること自体が無駄なことだな。ある世界に縛られた存在には、その世界がリアルなのかバーチャルなのかを証明することは出来ない。真実を知っているのは、外を知っている者だけだ。この世界は情報の集合。0と1の集まりから意味を読み取るためのシミュレーター。アガルティアンは意味を知りたいのだ」


「意味? 意味って…?」

しおりの困惑は最高潮に達しているようだ。ほとんど悲鳴のようだった。


真人もしおりに続けた。

「意味なら俺も知りたい。黒澤、あんたがやってきたことの意味を。それをすべて、得体の知れないアガルティアンが仕組んだことだと、私はプログラムされたことをやっただけで悪いことなどしてませんと、そんな言い訳で納得出来るわけがないだろう? アガルタが創造神だというなら、なぜ遺産なんて残す? ここがシミュレーションされた世界だというなら、外部と隔絶した環境を作るものだろう。なぜ自分達の痕跡を残したりする?」


「建築家は建築物の一角に密かに名を残す。日本でも大工は梁の裏に落書きを残したりするな。コンピュータで言うなら、最近でもあるだろう、ゲームの中にスタッフの開発室があったり。創造主は誰かに気付いてもらいたがっている。そうして意味を解釈することを求めているのだ。この0と1が描く物語の意味を」

「…0と1」

「そうだ」


「いや、やっぱり有り得ない。この世界が0と1の世界? 極度な仮想現実? 俺が今ここにいることも、これまで俺の周りで起きてきたことのすべても0と1のプログラムで成り立っているって? くだらない。あまりにも…くだらない。世界はそんな無味乾燥なものじゃないし、人の心や意識がそんなもので成り立っているわけがないんだ。俺の…これまでの歩みは、そんなもので作られたりしていない」


「真人。その抵抗は人間心理としては良く分かる。同情もする。しかし、この世界を形作っている物質としてお前達が理解している究極はなんだ? 素粒子か? クォークか? 振動するひもか? この部屋を切り取ってみたとき、部屋に鍾乳石に空気に…様々なものが人間的な解釈における意味をもって存在するな、我々を含め。だがそれは、意志が解釈をもって認識しているかたちに過ぎない。切り取る時空を狭く、狭く、ミクロにしていくとどうなる? 最後には人間的な意味をもって解釈できるものなど何も存在しない。0と1を示すものが見えるだけだ。そこでは因果さえ存在しない。時空の逆行さえ起こるのだ。テレビは遠目に見れば因果ある美しい映像を映すが、近付けばそれは単なる光の点滅に過ぎず、方向さえ何の意味も持たないだろう?」


「違う、違う、違う、違う! 世界は算数で成り立っているわけじゃない。ミクロな世界で起きてることをそのままマクロな世界に当てはめるなんて出来ない。世界はミクロを足せばマクロになるっていうものじゃないはずだ!」

「そう、その通り、いい答えだよ、真人。だからこそアガルティアンは知りたいのだ。ただの0と1の集まりに、意識はどう意味をもたせるのか。不確定な無数の可能性の中から、意識はなぜある可能性を選択していくのか。人間のヒトとしての肉体は一つの個体を持っていると日常的に俺達は解釈しているが、その実態は実はコロニーであるな。無数の細菌がヒトの体内に存在し共生している。そこではヒトと外界を隔てる境界は曖昧だ。そもそも人体と外界の境界とはなんだ? 口腔、鼻孔から食道、胃腸を通じ肛門に至るまで、人体は母親の胎内から産み落とされ産声を上げた瞬間から外界を体内に持つのだ。ヒトにとって人体は個体としての意味をもっていても、体内細菌にとってはすなわち世界という意味をもつ。そして世界にとっては人体といえどただの有機物、素粒子の集まりに過ぎない。たかが人体一つをとっても、これだ。解釈は無数に生まれるだろう?」


そこで黒澤は顔を亀利谷のほうに向けた。

「俺が世界を恣意的に動かした、だと? もう充分だろう。人間も、生命も、すべての意識が恣意的な存在だ。世界は恣意的に解釈されてはじめて意味をもつ。その意味によって意識は相互作用を受け、それによってまた意識は新しい意味を解釈していく。世界の可能性の選択とはそういうことだ。分かるか若造? あらゆる世界は恣意的に生み出されている。俺を糾弾するなら、貴様はこの仕組みを作り出したアガルタをこそ否定しなければならない。その遺産を便宜的に使う偽善は論外だ。アガルタそのものに触れていない貴様如きでは俺の相手にはならん。来るなら貴様のボスとやらが来るべきだったな」

「何をっ…」


憤りをみせる亀利谷を無視し、再び黒澤の顔は真人に向けられた。

「真人。お前は幾度となく空山君の胸の膨らみに性欲を覚え、その唇の柔らかさに興奮し、肉の交わりに快楽を得ただろう? だがそれはなぜだ? なぜお前は一定の曲率の曲線と桃色の小さな円如きに、ときに抑えられないほどの性欲を抱くのだ? 愛か? 本能か? 肉と肉のただの触れ合い、摩擦、0と1で記述される物理運動に過ぎないものに、生物は愛と生殖活動という意味を見い出す。あるいはお前も花火を見るだろう。その輝きの美しさにお前は拍手し心うたれるだろう。だが同じ輝きを見てこう解釈する者もいる。その火薬玉の原料を採掘し輸送するという行為こそ、どこの国とも知らない何人もの採掘労働者やトラック運転手の生活を成り立たせる崇高な輝きであり、空の輝きなどそれに勝るものではないと。あるいはスカイツリーから美しい夜景の輝きを見下ろすとき、その明かりの一つ一つが持つ意味はなんだ? ロマンティックな恋人同士は、法定の割増賃金さえ貰えない過労自殺寸前の鬱病社員が残業しているオフィスの明かりを見て、美しいと感じ愛を語り、その愛によって一夜を共に過ごし次の生命が育まれるのだ。同じ0と1で作られたパラメータが意識によってフィルタリングされ、その意志によって次の可能性が変遷していく。それがこの世界だよ。なんて悲しくも面白い物語だと思わないか?」

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