4
「泣いている? そうか、俺は泣いているのか。人間的な感情の。抑えきれない表面化。面白いとは陳腐な表現だったか? ではこう表現しようか、素晴らしい物語に興奮し、心を震わされていると。人は素晴らしい芸術に出会ったとき、感動に心うたれたとき、期せずして涙を流すものではないか? 人の心は極限まで至ると枯渇する。俺はイツア島のあの極限にあって、人の生き死にも何もかもに無感動になっていたよ。あれは地獄以下だった。その俺がアガルタのピラミッドでな、俺達がやってきたこと、生きてきたということがすべて定められていたという真理を知った。そっちの若造には分からんかもしれんが、真人よ。お前はきっと理解するだろう。あの頃の戦争の時代と今のお前の時代と、どちらが地獄か俺には良く分からんね。意味もなく死んでいく時代と、意味も分からず生きなければならない時代と、どちらがより苦しいのか、変遷を見てきた俺にも分からんよ。すべてを知るということは、絶望でしかない。ア機関の俺達のあの行軍はなんだったのかと、倒れていった仲間達の死はなんだったのかと。すべて定まっていたとは。お前もそうなる、真人。意味など何もなかったと、俺達はただ因果を形作るための道具に過ぎないのだと知ればな。意味とは、ただ俺達がそう解釈するだけのもの。実在はただ情報、パラメータの変遷だけだ。世界とは情報。ただひたすらに無と有が蠢いている情報の集まり。情報とは無から揺らいだエネルギー。エネルギーとはつまり情報の記述。あるとき無が揺らぎ有となり世界が生まれた。世界とは何か。情報だ。無とは何もないことであり、変化もない。永遠の無に変化はなく、変化がないということはエネルギーも何もない。だがそれが揺らぐということは、1でも0.0001でも1のマイナス44乗でもなんでもよいが、有が生まれたということ、パラメータが生まれたということだ。そしてパラメータとは世界の広がり。何故か分かるか? ひとたび無ではなくなれば、そこには無限が発生するからだ。パラメータはいつまた0に戻るかもしれない。あるいはそのまま有であり続けるのかもしれない。しかしいずれにしても揺らぎ変化する。無に戻らないイコール変化しないということもまた、変化量がないという変化を示している。変化は無限の可能性を示すのだよ。最初は1だったパラメータが、次の刹那にも1である可能性と、0に戻る可能性と。さらにその次の刹那にも1であり続ける可能性と、0に戻る可能性と。可能性は刹那の時間ごとに累乗されていく。では刹那の最も短い時間とはなんだ?」
黒澤は涙を流し続けたまま机から降りて立った。ぐっと首を伸ばし真人を覗き込む。
真人はたじろいだ。黒澤からは狂気ともまた違う圧倒的な気迫を感じる。自分が抱いてきた黒澤への敵意さえ飛び越えたその迫力に気圧された。
「そ、そりゃあ、一秒とか、千分の一秒とか…」
「フフ、フフフッ。もっと、もっとだ。もっと短くしていけ。最も短い時間とは?」
「そりゃあ…」
「0が1になる極限の瞬間とは、いつだ?」
「だ、だから…」
「その瞬間、0はいつ1になるのだ? 0とも1ともつかない瞬間などというものは? 0が1になる瞬間とはなんだ? 0が1になる瞬間というものはいつ訪れるのだ?」
「……」
「かつてアキレスと亀の競争に言及したゼノンという哲学者がいたな。アキレスより先の位置からスタートした亀に、アキレスは決して追い付くことは出来ない。なぜならT時間が経過してアキレスが亀のスタート地点に着いたとき、亀はその地点より必ずT時間分だけ先に進んでいることになる。それは無限に繰り返され、アキレスがどれだけ進んだとしても亀は常にアキレスよりも前の地点にいて追い付かれることはない」
「それは…ただの言葉遊びのパラドクスだ」
「そうかもしれない。では、これは?」
黒澤は足元から小さな鍾乳石の欠片を拾い上げ、天井に向けて弾いた。
石は黒澤の頭ほどの高さまで上がってから、当然、地面に落ちた。
「この石はいったい『いつ』動いたのだ? 放物線を描いて落ちたのだから確かに動いたのか? だが0という瞬間において俺の指先0地点にあった石は、いつ0から1に移動したのだ? 時間というものを微小にどこまでも短くしたとき、石はいつ運動したのだ? 運動とはなんだ? 瞬間、とはなんだ?」
真人は顔をしかめた。どうにも気分が悪くなってきた。
「まだ理解は出来ないだろうな。無が有となったということは、そこに連続性が生まれるということ。連続性とはつまり無限大の情報。すべては無から有へと無限に続く情報。俺達もお前達も、無限の0と1の集合。開闢以来の0と1の変遷、それが事象というものだ。あらゆる粒子は0と1のとびとびの値をとる。その間を埋め、連続性を持たせるために人の意識はある。俺達はあらゆる存在の無限を記述するための装置なのだ。肉体からの解放とは、この次元からの解放。原初の意識への帰還。あらゆるものに意識は宿っている。八百万の神と、日本人は古来からそれを知っていたな。その原初の意識をどの程度覚えているか、自覚出来るか、それは宿ったもの次第。無機物に宿った意識は無機物に束縛され代わりに悠久の長寿を得る。知的生命体に宿った意識は有機物に束縛され短命だが意志により世界に解釈、つまり意味をもたせる。俺達が多次元の可能性世界としてとらえているものは、0と1の狭間にある無限から生み出されるのだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます