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櫻さんは高杉が死んだ頃から高熱を出し始めた。血便混じりの下痢も一日に十回だったものが二十回と、さらに増え、どんどん回数が増えてな、数えられなくなった。
当然、俺達の足も止まった。
櫻さんが赤痢だろうというのは、たいした知識もない俺達でも誰もが分かった。櫻さんは自ら進んで俺達と離れた場所で寝て過ごし、俺達が近付くことを禁止した。
三日もすると櫻さんは起き上がれなくなって、服も脱げなくなった。そのまま下痢と血を垂れ流すようになった。
俺達も誰もが疲れ、何人かはマラリアらしい熱にやられていたがな、しかし、元気だった頃の櫻さんを思い出すと何とも言えなかった。
それに、俺達も誰もが下痢だったからな。クソをするたびにいつ血便が出るかと怯えた。
櫻さんは起きなくなってからも丸二日は何かと戦っていた。うなされ、何かをぶつぶつつぶやき、絶え間なく下痢を垂れ流していた。野営地は糞臭かったが、櫻さんの死期が近いことを皆、薄々悟っていてな。誰もその場を離れられなかった。櫻さんの命令を待っていたというのもある。
突然、俺達は全員、櫻さんに呼ばれて集まった。倒れてて動けなかった奴も一人いたな。春山だ。そいつ以外だ。
糞まみれで皮ばかりになって見る影もない櫻さんを前にして、俺達はみんな泣いていたよ。
櫻さんは突然身体を起こした。
乾いた唇でな、あれは櫻さんも心は泣いていたんだろうが、涙を流せるような水分がもうなかったんだろう、肌も乾いていた。
俺達が駆け寄ろうとしてもまた櫻さんは制止した。櫻さんは赤痢の自分に近付くことを徹底して禁止していた。
『我が隊は任務半ばにして敗れたり。敵艦および敵航空機に白布を掲げ、戦闘意思なしと伝え降伏せよ。自決を禁ず』
俺達の誰も考えていない命令だった。降伏など俺達の頭には存在しなかった。何の成果もないまま降伏など、誰も。
櫻さんが変わった上官だとは誰もが思っていたが、降伏は恥だとする軍の中で、それが櫻さんの口から飛び出したことで、俺達は動揺した。
その後、櫻さんは良く分からないことをぶつぶつとつぶやいて、そのまま仰向けに倒れた。それっきり動かなくなった。
俺は、このときの櫻さんの言葉を一言一句覚えている。引っかかったのさ。まるであの頃の俺達が聞いたことがないような喋り方でな。振り返ってみれば今の俺達に近い喋り方だったな。
「俺はここまでか…。お前達の誰かが継ぐのだな…すまない」
櫻さんの謝罪の言葉は、俺の心に響いた。降伏せよという衝撃的な命令と相まってな。
赤痢の櫻さんの遺体には誰も触れなかった。泣く泣くそのままにしておくことにした。
櫻さんが亡くなってから、その日のうちに、マラリアで倒れていた春山も死んだ。
俺達は少尉の櫻さん直下だと話したな。俺達をまとめあげていたのは櫻さんだ。その櫻さんがいなくなってしまった。俺達の統率は乱れる。
櫻さん以外は、死んだ二人も入れて三十名、みな二等兵だ。はっきり分かるような上下関係がないままでも、グループやリーダー格が自ずから生まれていたが、誰か一人、とまでははっきりしていなかった。伍長なり曹長をおかなかったのは、軍隊色を抜きたかった櫻さんなりの考え方だったんだろうがな。それが良かったのかどうか。
俺達は今後のことを議論した。行動方針は二つに分かれた。
どちらの意見にしても、櫻さんの遺言は守れなかった。俺達に降伏の文字はなかったんだよ。櫻さんを奪われた悲しみは連合軍への怒りに変わっていた。まして俺達は、俺達の時代は。敗北など恥であって、誇り高く最後の血の一滴まで天皇陛下の皇国のために尽くすことが正義だった。徴兵されてからの櫻さんの教えは俺達に浸透してはいたが、それでもなあ、生まれついてから染みついていた教育というのは、そう簡単には抜けないものさ。
櫻さんだって、俺達のことを案じて投降を命じたのに違いない、本心では無念だったはずだと、俺達は皆そう考えた。
意見が割れたのは衰えて行軍が遅れた者の扱いだ。
快復させながら全員で少しずつ進軍すべきだという者達と、衰えた者は残して進めるものがどんどん進むべきだという強硬な意見。二つの考えで俺達は割れた。
言うまでもないだろうが、水谷は強硬派の中心人物だった。水谷は周りに慕われていた。あいつは帝国軍人向きだった。分かるだろう? あいつはあの戦争を疑っていなかったし、皇国のために目を輝かせて尽くしていた。
俺か? 俺はただの少し臆病な兵隊だったよ。櫻さんに憧れる一兵卒に過ぎなかった。今の俺からは想像もつかないだろう、フフ…。俺は出来れば戦いたくはなかった。怖かったさ。仲間が死ぬところは見たくないし、誰かをおいていくというのも考えるに忍びなかった。
強硬派は水谷の強力なリーダーシップで、多数派になった。出来る限りの速さで進み、落伍者を顧みないことを水谷は主張し、その強い方針が皆を奮い立たせた。俺を含め、残りの消極的な少数が落ちこぼれて笑われ、ゆっくり進むことになったようなものだったな。
いずれにしても、その時点では皆歩けた。とにかく海岸までは全員で今まで通りの山狩りを続けることになった。だがな、ほどなく再び行軍が止まった。水谷が熱病に倒れたんだよ。
人は脆い生き物だな。水谷が真っ先に倒れるとは誰も思っていなかった。
そもそも人というものが個体としてどれだけの意味があるのか。マラリアでは寄生虫に勝てず、赤痢ではアメーバに勝てない。人を個体として考えるとな。人は入れ物だ。人は土壌だ。すべての生命に価値があると考えるならば、人間の生命だけを至上と考える必要さえないがな。人が熱帯病に倒れようが死のうが、生命のサイクル全体としてはそれは必要なことなのだ。この世界はそうなるべくしてなった世界なのだから。
強硬派の連中は、水谷本人が言い出した通り、動けなくなった水谷を残し先行することになった。
俺達にそれを止めることは出来なかった。俺達数人と水谷が残され、他の奴らは前に進むことになった。
憂鬱な日だったな。夜には豪雨に見舞われた。水谷は昼夜問わずうなされていた。幻覚を見ているのか、うわごとが続いた。まるで呪いのようなあのつぶやきを聞いているとな、それだけで気が滅入る。
次の日に、恐ろしいことが起きた。水谷ではなく、下痢以外には平気そうな顔をしていた奴が、死んだ。起きなかったんだよ。朝になっても。三浦といったな。これにはぞっとした。
三日目には、俺達の中から一人が行方をくらました。そいつは斉藤だ。そのときは、先を行った奴らの後を追ったんだろうと思ったな。
その場で生き残っているのは、水谷を入れても八人しかいなかった。
水谷の容体は小康状態になった。相変わらずぶつぶつと何かをつぶやき続け、たいして良くなってはいなかったが、死ぬことはないように見えた。
俺達は、水谷を交替で背負って進むことにした。
一か所にとどまっていると、食べ物が問題だ。近くで動く生き物は虫やムカデも含めてほとんど腹に入れてしまった。残るは葉と樹しかない。
それにな、糞尿の臭いやら死臭も、気にしなければ気にならなかったが、一度気にし出すとずっと鼻をついた。少しでも変化が欲しくなったし、場所を移動したくなったんだよ。そのままじっとしていることに耐えられなくなってきた。
一時間もしないうちに、蛆だらけの肉塊に出会った。行方不明になっていた斉藤だった。思えば俺以上に気弱な奴だった。手榴弾で自決していた。俺達に見られたくなかったんだろう。
ぼろぼろの足で、代わる代わる水谷を背負ってもう一日歩き、先行した強硬派の連中のケツに追いついた。
六、七人がまとめて死んでいた。皆、赤痢をこじらせたようだったが、切腹していた者もいた。一人は銃で頭を打たれていた。お互いに殺し合って苦しみから逃れたんだ。
注意深く見ると、櫻さんのものだった行糧入れが近くに投げ捨てられていた。どうやら、密かに櫻さんの遺品を漁っていた奴がいたようだ。そこから集団感染していたのだろう。
俺達は八人。先を行った連中だって、この調子では果たして何人が残っていることか。
死が蔓延しはじめた。
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