タクシーが停まった。

真人は気力を失っていたが、しおりと亀利谷に半ば抱えられるようにして外に連れ出された。

雨はまだ続いている。


タクシーが去ると、亀利谷が言った。

「俺が表を見張っている。その間に」


「はい」

しおりがうなずいて、真人の顔を覗き込んできた。

「…真人。あなた達の部屋に案内して。必要なものだけ持ち出して、動くの」

「動く…?」

「阿賀流に行くのよ、私達で」

「阿賀流に…。何のために?」


「何のためって…。阿賀流の今の状況を聞いて、亀利谷さんが。今なら攻められるって」

「攻める…か」

真人はつぶやきながらも、ほとんど機械的な動作で歩き出した。

しおりは大きめのキャリーカートをタクシーのトランクから取り出していた。カートを転がしながら、エレベーターで部屋に向かう。


「真人?」

エレベーターの中でしおりは声をかけてきたが、真人には返事をすることが出来なかった。ただただ、このエレベーターを佳澄と利用したことが何回あっただろうかと、それだけを考えていた。


真人は部屋に戻った。

緩慢な真人に代わってか、しおりがきびきびと室内を整理して手早く荷物をまとめていく。

真人はベッドに腰かけてぼうっとうなだれるばかりだった。


「真人。あの子の部屋も開けるよ? 必要なもの、何かあるでしょう?」

しおりが訊ねてきた。

「…?」

真人はのろのろと顔を上げた。


「隣…佳澄の部屋? 鍵、持ってない」

ぼそぼそと言ってから、真人が持っていた金庫の鍵を佳澄がいつの間にか抜き取っていたことを思い出して、また頭を掻きむしった。

「あの鍵…。あれさえ、俺がきちんとしていれば良かったんだ…!」


しおりはため息をついた。

「鍵のことなら、心配しないで。ピッキングぐらい、出来るから。内緒にしてたけど」

「今さら何を隠していたって、もうどうでもいい」


「……」

しおりは首を振り、静かに部屋を出ていった。


静かになった室内で、立っていることも空しく思えて、真人はベッドにずっしり腰かけ、ぼうっとした。

ベッドの正面、部屋に備え付けの鏡を、焦点が定まらないままぼうっと見た。驚くほどやつれた自分の顔があった。


鍵。

あの鍵が佳澄の手にさえ渡らなければ…。


時間を戻りたいと、今ほど狂うばかりに熱望したことはない。

佳澄のことを真人は想い続けた。頭を抱えて、ほとんど膝の間に埋まるぐらいまで垂れて、ただただ後悔をし続けた。


自分が、おそらく生涯で最も貴重な宝物を失ったのだということが染みてきた。

この年齢になって、すべて手遅れになって、やっと、真人は知った。


後悔…するさ。

なぜだ、真人。

なぜ、佳澄の心に一度も応えなかった。

醜さゆえか?

醜いとは何なのか?

たった一度でも、抱きしめるだけでも良かった。佳澄のぬくもりを覚えておくことさえしなかった。


たった、手をつないだことがあるぐらいの。すべて合わせても何時間足らずの。

あとは泥酔して意識も朧な中で身体を預けたあの感触ぐらいなもので。

あれだけが真人に残された佳澄との触れ合いの記憶だとは。


なぜ人は死ぬと冷たくなる?

なぜ人は生きていると温かい?

生きているとはどういうことだ?


もう、佳澄の温もりを知ることは出来ない。

佳澄と冗談を言い合いながら食事をすることも、外を歩くことも、もう、ない。

佳澄の記憶を残すものさえ、隣の部屋にごくわずか残っているだけ。

あまりにも突然で、あっけないもので。

「ああ、アアアァッ!」

真人は頭を抱えた。

「…!」

一つだけ、あった。


ポケットに無理やりねじ込んでいた、佳澄が残したどんぶりのストラップ。USBメモリーが結び付けてある。金庫の鍵は…佳澄に外されてしまった。

これだけが、真人に残された佳澄の想い出になるというのか。


真人は不格好なストラップを手の平に収めた。

ミス渋柿とアカリ丼がモチーフだとか。売る気があるのかと内心で茶化した記憶がある。

実際、お世辞にも可愛いとは言えない。頭の布製どんぶりの部分がバランスを悪くしているのだ。

取り外しができると言っていた佳澄の言葉を思い出して、何の気なしに頭のどんぶりを外してみた。

キャップ式になっていて、回すと外れた。

どんぶり部分は中空の容器になっていて、周りに布が被せてある作りになっていた。


「…?」

どんぶりの内側に、小さな小さなビニール包みが押し込まれている。

指で端をつまんで引っ張り出すと、薬包のような小さなビニール袋を何重にも折りたたんだものだった。

中身は、これまたごく小さな鍵。黒くつやつやしている


このストラップを渡すとき、佳澄はUSBメモリーを紐で結び付けながら、真人のほうが色々知っているべきだと言っていた。

USBメモリーは佳澄の母の寛子が残したものだ。あのときの会話の前後の文脈も考えると―。

「…!」


慌てて隣の部屋へ真人は飛び込んだ。

驚くしおりに怒鳴った。

「しおり、この鍵…! 佳澄の持ち物で、この鍵が合いそうなものがないかッ?」


「…?? 鍵?」

しおりは目を凝らし、真人がつまんだ鍵を見つめた。

「随分小さいのね。形と色からすると、オシャレな南京錠か何かじゃないかな。女物なら、よく、バッグとかポーチにこういう鍵が…」


言いながらしおりは、部屋を見回した。

「すごくきれいに整理されてて、荷物も最低限のものだけ。急場しのぎの生活だからとか、女子だからって言っても、こうきれいに出来るものじゃないよ、なかなか。マメな性格だったんだね」

「ああ。…そうだったよ」


しおりはテーブルを示した。

「無駄がない荷物にしては、一つだけ気になったのが、これ」

テーブルの上に、佳澄の化粧ポーチらしきものが置かれている。同じような大きさのものが二つ。

「一つはテーブルの鏡の前にあって、もう一つは洗面所。これは、私の感覚だから女子一般じゃないかもしれないけど。普通は、化粧ポーチなんて、二個も三個も部屋に置いておくものじゃないんだよね。しかも彼女は外出中。外にお出かけ用を一つ持ち出しているとしたら、三つもあったことになる。服が必要最低限の印象だったのに比べて、これだけ多く感じるんだよ」


真人は二つのポーチを見比べた。片方はただのファスナー。もう片方は、ファスナーに黒く小さな南京錠。

「…佳澄は、お世辞にも美人ってわけじゃなかった」

真人は南京錠のポーチを手に取りながら、つぶやいた。

「あの子は、自分のことが良く分かってた頭のいい子だ。化粧ポーチを二つも三つも用意しておくってのは、暗示というか、ヒントのつもりだったんじゃないか」


ビニールから取り出した鍵は、南京錠にすっと入り、錠を外した。

ポーチのファスナーを開くと、中にはハンカチが二枚ほど入っているだけだった。

二つのハンカチの間に、ガーゼとビニールにくるまれたものが挟まれていた。

中身は、写真とマイクロSDカードだった。


「なるほどね…」

真人は写真の縁をそっとつまんで、しおりに見せた。まだフチなしでさえない、周囲に数ミリの白縁がある頃のものだ。

「あっ。これ、ひょっとして、真人達の小さい頃…」

「そうだと思うよ。俺と、佳澄と真緒。それに、兄様。四人が、一緒に映ってるんだと思う。記憶はないけど、みんな、面影がある」


「…彼女の想い出だったんだね」

「ああ。戻りたくても戻れない、幼い日々。この記憶が、佳澄の宝物だったんだ」


真人は写真を元通りビニールに戻し、代わってマイクロSDをつまんだ。

「この鍵をもらうとき、彼女の母親が、自分に何かあったときのために残したUSBメモリーのことを話してたんだ。同じようなことを自分もあのタイミングで考え始めて、鍵を俺に渡していたんだな」


真人はスマホを取り出し、電池カバーを開けた。

裏に、佳澄のマイクロSDをセットして、再び電源を入れる。


メモリーカードにはテキストファイルがたった一つ。

どうやら、佳澄が書き留めていた断片的な記録のようだった。

そういえば佳澄は日記をつけていたと、真緒があの儀式の前に言っていた。日記を元に真緒の記憶を補完していた、と。

その日記自体は、阿賀流から逃げるあの混乱の中で失われたとしても、長く続いた習慣はそう簡単に抜けるものではない。


自分の備忘であると同時に、真人が読む日が来ることも有り得ると想定しているような書き方をしているメモだった。

言うなれば、万が一のときに備えた、と。

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