第十四章 バーンアウト

第十四章「バーンアウト」1

阿賀流に比べれば暖かだったとはいえ、東京にも冬の兆しが見え始めていた。


都内に潜伏することは、気を付けていればそう難しいことではなかった。


住まいはかつての真人のアパートからは遠く離れた、蒲田駅近くのウィークリーマンションに偽名で投宿した。出張で一か月の滞在予定とした。


黒澤の車は、そのままウィークリーマンションの駐車場に突っ込んだ。利用者以外はそうそう来ることもなく、車も盗難車というわけではない。そう考えると、下手に月極駐車場やコインパーキングに入れるよりも、意外に白琴会からは最も見付かりにくい場所ではないかと考えた。


二人とも、スマホは電源オフのままにしていて、今はモバイルルーターとプリペイド携帯に切り替えた。


部屋は当然といえば当然だが、並びの二部屋を別々にとった。

佳澄は節約のためにひと部屋でも自分は気にしないと言ってくれたのだが、たとえ佳澄のような人物であれ血縁がない妙齢の女性であることに違いはなく、真人としては色々な意味での間違いが起こらないために、この配慮は欠かすことが出来なかった。


幸い、資金面に関しては黒澤の口座で当座の心配はなかった。

東京暮らしが長い真人にとっては、暮らす分には何も困ることはなかった。スーパーもコンビニも徒歩圏内にある。生活用品も衣料品も駅前に出ればある。車さえ必要がない。


そんな都市型の生活は、真人には阿賀流以前の生活に戻っただけの感覚だったが、佳澄には新鮮な驚きがあったようだった。

真人には、身近にコンビニも大手スーパーも家電量販店もない阿賀流での日常生活は、それなりの苦労がありそうに思えるのだが、佳澄にとっては両手を伸ばせばなんでも手に届くような東京の距離感は、逆に息苦しさを感じさせるところもあったようだ。


「東京は、空が低いですね」

東京に着いて間もなく、JRの蒲田駅から京急蒲田駅に向けて歩いているときに、佳澄がそう口にしたことがあった。

「言われてみると、阿賀流に比べれば、そんな印象を受けるな。でもどうしてだろう。空の高さなんて、地球上どこでだって変わらないのに」

「狭いからかもしれません。空という空間の中で、空が占めている面積が。この辺りだと、ビルがたくさんあって、電線に、看板に…。空がでこぼこした線でカットされて見えます。自然には、デコボコの線なんてあまりありませんから。直線は人工物を連想させるんですね」


佳澄がもう一つ指摘したのは空気の汚れだった。大気汚染や排ガスというような高尚なものではなく、もっと単純に、人の多さから感じる空気の圧迫感、使い古されたような重さのある空気の汚さ。

買い物帰りの京浜東北線が、丁度帰宅ラッシュに当たっていて、結構な混雑具合だった。車両から降りるときには佳澄は本気で息苦しそうにしていて、困憊していた。

「今日は…何かお祭りか、大会でもあるんでしょうか?」

「いや、たぶん何もないけど…」

「それなのに、こんなに人がいるんですか? どうなってるんです?」

「どう、って…。まあ、これがいつものことだけど」


慣れというのは恐ろしいものだと真人は身震いした。真人も阿賀流での空気の清々しさから急転直下の、ラッシュの息苦しさには辟易したのだが、それでも電車を降りる頃までには、いつものことだと何も感じなくなっていた。

ほとんど東京に住んでいた真人には、東京の環境は当たり前のことだったし、文明化の先端を行く大都市生活にはちょっとした満足感もないではなかった。


しかし少しだけ棘のようなものを胸に感じたことも事実だった。

阿賀流の深い地底から戻ってきてみれば、この無機的な都市空間と、どこから湧き出てきたか何千人何万人という人の奔流には、ふと嫌悪に近い違和感を覚えた。

いつも鍾乳洞や洞窟から出れば少なからずそんな想いは抱くのだが、今回は特に強力だった。阿賀流での体験と、佳澄の存在によるものだろうか。


周りにはおびただしい人々が行き交っているというのに、自分は自分の周りの世界から切り離されているような孤立感。

同時に、いわれのない苛立ちと、周囲に対する不愉快な敵意。周りの人達がみな幸せそうに見えてきて、なぜ自分だけがこんな経験をしているのか恨めしさと苛立ちがちらりと心をかすめて、慌ててそのいかがわしい想いを消した。

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