「黒澤さんは、どうでしたか?」

車に戻ると、助手席の佳澄が声をかけてきた。まだ、何も食べ物には手を付けていなかったようだ。


「ん、ああ。兄様のことを話したら上機嫌だったよ。敵が減って動きやすくなったって」

「そうですか。…よこまちストアのことは何か?」


「ん…? うん…」

直球で訊かれ、佳澄を見ることも出来ず、真人は言葉を濁した。


「そうですか」

佳澄は微笑した。

「本多さんは、優しいですね。言わなくても、大丈夫です。もう、そういうつもりでいましたから」


「……」

ごめん、と謝るのは、よっぽど佳澄を傷付けるだろう。

そう思い、真人には何も言えなかった。


佳澄のほうが、無理を感じさせる大きな声を急に上げた。

「それ、買ってきたんですか? お腹ペコペコなんです」


「あ、ああ。焼きそば…。嫌いじゃない?」

「大好きですよ」


そう、わざと笑顔を浮かべているように見える佳澄のそぶりに、真人は心を奮い立たせた。焼きそばのパックをトントン指で叩く。

「よかった。じゃあ、腹が減ってはなんとやらだ。食おうか」


「はい」

佳澄はうなずいた。


あれこれ訊ねたいことがあるに違いないのだろうが、言葉はそれまでだった。

それっきり、静かに焼きそばを食べる佳澄の疲れた横顔からは、感情はなんともうまく読み取れなかった。


真人はなんともいえない苦しさを感じて、焼きそばをかきこんだ。

口の中に放れるだけ放って咀嚼しながら、フロントガラス越しに秋の寒空を再び見た。


サービスエリアの周辺には高原の山々が近景にも遠景にも立ち並んでいる。

この辺りは阿賀流より標高が高いようで、紅葉はすでに始まりつつあり、枯れかけた黄土色の山も見える。高いほうは雲が紙の切れ端のように引っかかっていて、おぼろにしか見えない。


「冬が近付いてくるんだな」

焼きそばを胃に送り込んだ真人はつぶやいた。

「まるでいまの気分だよ。どんどん寒く冷たくなっていく。これからはじっと耐え忍ぶ季節だな」


佳澄が、真人と同じようにまっすぐ前を見たまま、応えた。

「日本は、四季の国です。今は秋から冬になろうとしていても。冬がどんなに長くて冷たくても。春は必ず来ますから」


「フフ。ありがとう。でも、そんな月並みな表現では、俺の気は休まらない。…君だってそうだろう?」

「だからどうしたっていうんですか? 気持ちが沈んでも、沈まなくても、これから何がどうなっていくかなんて、変わらないんですよ。だったら、沈んでいたって仕方がないじゃないですか」


「……君は、強いな」

「強くありません」


「そうかな。俺は…。人生で何度も何度も、やっちまった、って惨めなことがあってさ」

真人は目を閉じ、唇だけで笑った。


美奈子のことは筆頭だが、他にはまず何を思い出すだろうか。


まだ二十代も前半、会社の同僚と居酒屋で浴びるように呑んだ挙句に酔い潰れて、家まで文字通り引きずってもらったこと。

洗面所に吐き続けながら、食道を逆流した胃液の酸っぱい味に嫌気がさして、二度とこんな調子にのった酒の飲み方などするものか、と誓い。

それから何度同じようなことを繰り返しただろうか。そのたびに自分の愚かさに腹を立てながら、次こそはと無駄な誓いを立て。


独り身のときに厳しかったことといえば、原因不明の腹痛と下痢で一晩中眠れなかったときだろうか。

たった一人、何度も布団とトイレを行き来しては、便座に腰かけ苦痛に脂汗を流して。身体をくの字よりさらに折りたたんで、それでも我慢できずに頭を膝の間に入れるところまで身体を折りたたんで。どうして自分はたった一人でこんなところで苦しんでいるのだろうか、何が食あたりの原因だろうか、と思い悩み。


独身といえば、思い出すだけで腹立たしいやら情けないやら、身が引き千切れそうなのは三年前の離婚だろう。

将来設計が出来ず、結婚してからも浮ついていた真人に問題があることは、今なら良く分かる。

しかしそれにしても、ある日突然に『あなたとはもう生活出来ない』と元妻のしおりに言い放たれたときの痛み。

売り言葉に買い言葉で、そのまま口論は朝まで続き、疲れ果てたまま始発電車に座り、睡眠時間に充てながら仕事に出たものだった。そして帰宅すればすでに家はもぬけの殻。


さらにさかのぼれば、先方から離婚を突き付けられたときよりも、自分から女性をフるときのほうが痛みが大きかった。

身も心も確かにその瞬間は愛し合っていたはずの二人でも、すれ違い始めるといつか終わりが来る。

それまでの距離が近くお互いに深い関係になっていればいるほど、相手の人生を滅茶苦茶にしてしまったような罪悪感が、自分への強烈なカウンターパンチとして飛んでくる。

永遠の愛なんてものが、他人同士の間に成立すると思うことがしょせん幻想なのだと、悲観的な恋愛観にとらわれていく。

親戚縁者がいない真人には、一つ一つが美奈子の失踪に勝るとも劣らない喪失感と自問自答に見舞われたものだ。


幾度も味わってきた挫折や喪失。そのたびに自分の惨めさや力の無さに打ちひしがれ、言いようのない周囲への敵意に襲われ、過去の自分への後悔にとらわれてきた。

それでも、そのたびに自分を誤魔化し誤魔化しながら、傷を少しずつ塞いでやってきた。酒や煙草に頼ることもあれば、無心で一日中パチスロにいる毎日を一か月近く過ごしたこともあった。


どこから自分の人生の針路がずれていったのだろうかと振り返りながら、あのときに戻ることが出来たなら、とかなわない幻想を抱きながら、なぜ自分の人生はこうなってしまったのだろうか、と問いを繰り返しながら。

それでも、一つずつ傷を閉じてきた。その甲斐がフリーライターとしての出版デビューでやっと実を結んだようにも思えていた矢先に。


すべての古傷が一斉に開いてしまったようなこの痛み。

人生がどこから狂ったか? 美奈子に連れられて阿賀流を出たときにはすでに狂っていたのだ。

それがすべての根源とは言わずとも、起点に近いところで生じたずれは、そこから先に延びれば延びるほど大きくなっていく。


美奈子はすでに亡くなっていて、目下の行動目的だった真緒は目の前で消え、頼りにしていた寛子と渡辺は死んだ。敵と思っていた兄様さえ何の実感もないままに死んでしまった。

美奈子の双子の姉である理沙子は健在のようだが、黒澤が何かしらのアクションを仕掛けるつもりのようだ。

真人にとっては道が断たれたように思える。

東京に戻ったところで、潜伏したところで、今、これから、何をすればいいというのだろうか。


「俺は張子の虎だったのかもしれない。つぎはぎで応急処置してきただけで、強い風に吹かれたら、つぎはぎがみんな剥がれてしまった。正直言って、ぽっきり折れてしまった感じもしている。これからどうすればいいんだか、さっぱりだよ。今は、俺の人生の中でも最低のどん底に落ちてきた気分だ。今までも、今が最悪だと何回も思ってきたけどな。底には底があった。突然すぎて、真緒が消えてしまったって思っても、涙さえ出てこない。こんなことより悪いことなんて、これからあるんだろうか」


「まだ、そんなどん底なんかじゃないですよ。誰か有名な人が言ってます、どん底だと思えるうちはまだ大丈夫なんだって。本当のどん底なら、考えることも悩むことも出来なくなるんです。私達は二人とも生きてます。身体も健康です。お金だってあります」

「あれかい? 世界には今日の食事に困る子どもたちもいる、内戦で安心して眠る場所さえない難民もいる、それに比べたら、平和ボケした世迷いごとだって、そういう話かい?」

「そんな一般論は言いません。絶望感、閉塞感、重苦しい感じ。明日が見えない、いつまでこれが続くんだろう、いつになったら抜け出せるんだろう。そんな苦しさは、私も。でも、私達はまだ、前に進もうとすることは出来るじゃないですか」


「そう。それだよ、佳澄ちゃん。やっぱり、君は強いよ」

もう一度、真人はそう認めた。


「私が強いと言いたいなら、それでも構いませんが。でも、本多さん、私は東京のことなんて分かりません。私ももう、一人ぼっちです。本多さんが頼りです。空元気でもなんでも。もう少しだけ、本多さんも、強くいてくれませんか?」

そう言って、佳澄が顔を真人のほうに向けた。


ミス渋柿の顔をまともに見ても、真人はもう茶化す気も目を背ける気もなかった。

今の佳澄は、強くあろうとするために、真人という心の拠り所を必要としている。

それならば。佳澄が強くあろうとするのなら、真人だってもう少し、つぎはぎだらけの身体に鞭打ってでも前に進んでみるしかない。


「すまなかった、ありがとう。弱気になってはおしまいだ。春が来るまで、もう少し前に歩いてみる。しばらく一緒に歩いてくれ」

真人はそう佳澄に告げると、その言葉を証明するべく、エンジンをかけた。

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