第十二章 白琴洞深部

第十二章「白琴洞深部」1

案の定、ろくに眠れはしなかった。

阿賀流に来てからこの方、まともな休みをとれたのはよこまちストアで寝た一泊だけで、昨日に至っては食事もたいしてとっていない。

椅子に浅く座って身体を斜めに傾け、腕を組み目を閉じて天井を見上げるようにして目を閉じたが、身体は疲れているはずだというのに、興奮が冷めないのか脳が眠りを求めない。

少しうつらうつらと断続的に意識が途切れたようにも思うが、それさえも夢なのかもしれない。


しかし、眠れなくとも目を閉じているだけで脳の情報処理は中断され、少しは心の疲労回復につながったのだろう。

佳澄が動き出した頃には真人の目もすっかり冴えていた。

こういうものは疲れハイとでもいうべき一種の自己ドーピング状態なのだろうが、それでもまだ気が張っているうちは心身とも持ち堪えられる。三十代はまだいける、と真人は自分の身体を慎重に診断した。


佳澄もおそらく眠れていなかったのだろう。椅子で何度か姿勢を動かしているのを真人はおぼろに感じていたが、いつの間にか、すっかり起きたようだった。

立ち上がって何やら身支度らしきことをしている佳澄を横目で気だるく見ながら、真人も身を起こした。


「本多さん。起こしてしまった?」

「いや。たいして眠れやしなかったから、いいんだ」


真人はぼんやり答えながら、唐突に妄想めいた錯覚に襲われて少し困惑した。

このやり取り。

気だるい朝を迎えた感じ。

少なくとも佳澄とだけは絶対にそういうことにはならないのではないかという自信があるのだが、これはまるで朝チュンのノリだ。


真人には女性で失敗は何度もあるとはいえ、それでもその瞬間瞬間には確かに幸せと愛情を味わっていたもので、そんな記憶をかすかに呼び覚まされて、少し胸が痛んだ。

そんなことは思い出さなくてよいから、もっと小さい頃の記憶のほうを思い出したかったものだ。


「五時。もう、夜が明けそう」

「そうか。俺は、いつでも行けるぞ」

「私も」


真人達は早速、部屋を出た。

すでに冬も近い。夜明けは気だるい紫色の空で、空気は痛く澄んでいる。

真人の荷物はもはや黒澤からのパソコンぐらいのもので、佳澄もよこまちストアから持ち出しているリュック一つの軽装。


真人は黒澤にメールを送った。このまま阿賀流をいったん離れる、と。


「敵をだますにはまず味方から、ですね」

そう言う佳澄に、真人は頷いた。


昨晩チェックした地図によれば、仙境開発の工場敷地内の外れに、養殖場入り口がある。

表に出てすぐの場所に、黒澤が用意した車が置いてあった。少し大きめのSUVだ。


養殖場の入り口までは、同じ工場敷地内とはいえ数百メートル離れている。

「時は金なりだし、遠慮なく使わせてもらおう」


未明の工場は白銀の照明を除いて暗かったが、ロの字の一角だけ煌々と蛍光灯が灯っているエリアがあった。コールセンターだろうか。

ロの字の中央の建物から、周囲の建物の下は吹き抜けでくぐれるようになっていた。真人が見学した時には、上の通路を通っていたことになるらしい。


アカリ虫の養殖場とされている建物は、ロの字からさらに外れ、敷地の端近くにあった。

基本的に平地に立っている仙境開発の建物だったが、この辺りから山の裾野に差し掛かっている。

地図に従うならば、この建物から地下の洞窟にそのままつながっているということになる。


車を建物に横付けし、降りた真人と佳澄は、ドア前に立った。

ここはロの字の建物と明らかに様相が異なっていた。

ドアにはセキュリティシステムが導入されている様子はなく、ただの掛金と南京錠になっている。

「向こうの建物と随分違うな」

「おそらく、仙境開発に変わる前の夕鶴の頃からある建物なんですね」


アナログな印象が、いかにも養殖場の入り口と感じさせる。

外見はたいして大きい建物に見えないが、黒澤の言うように洞内が主な設備になっているのであれば不思議はない。


「このカギは、どう開けるのか」

「問題ありません。こんなこともあろうかと…」

と佳澄は背中の袋から、いかにもな小型の糸のこぎりを取り出した。


「直径五センチの鉄パイプでも一分で切断です。深夜通販でお母さんが買ってました」


確かに寛子は深夜通販にハマっていそうなキャラクターではあるが…。

「君はなんでそんなものをわざわざ持ってきてるんだ?」


「勘です。イリーガルな相手と戦っていくなら、こちらもそれなりの備えをしないといけませんからね」


言うや否や腰をかがめ、佳澄は早速南京錠に立ち向かった。真人顔負けの行動力だ。

あっという間に、南京錠が切れてポトリと地面に落ちる。さすがは深夜通販の買い物だ。このままインフォマーシャル映像に使ってほしいぐらいの鮮やかな手並みだった。


「さ。これで入れます」

佳澄は、錠が外れたドアを開けた。


「ん…? これは…」

「なるほど。こういう作りになっているんですね」


ドアを開けた先は通路になっているが、建物というより屋根と柱、それにトタン状の壁だけの構造だ。簡易的な小屋といったほうがいい。

通路は階段になって下っており、階段の左右には資材や物品が置かれ、倉庫状になっている。

数メートル先の突き当りに開口部がある。つまりこの空間は、洞窟の入り口に簡易的に屋根と壁で覆いを取り付けたものなのだ。これなら南京錠だけで済ませたくなる気も分かるというもの。


入り口には工事現場よろしく「立入禁止」の看板が立てられている。


どこかに明かりのスイッチはあるのだろうが、佳澄が懐中電灯を灯した。その通り、余計なことはしないほうがよいだろう。


「あの奥が養殖場かな。どうします?」

「ここまで来て戻れるかい。行くさ」


真人は鼻を鳴らし、先に立って開口部に向かった。

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