5
黒澤と別れてから、真人はすぐに寛子に訊ねた。
「黒澤さんが言ってた清水君というのが、兄様とやらのことだろ?」
真人の脳内では、まだ見ぬその人物像と、非通知電話の主であるミスターXが重なっていた。
「そのとおり。私の兄よ」
「兄? え、兄様って、おばさんの兄っていう意味?」
寛子はくすりと笑った。
「そうなのよ。佳澄やマサ君達にとっては、全然、お兄さんじゃないのにね。私が呼んでるのを真似して、佳澄がいつの間にかそう呼ぶようになっちゃって」
「ふうん。そうすると、いま五十代とかそんなものか。黒澤さんと同じぐらいなのかな…」
年齢的なイメージや、真人に対する命令口調からしても、ミスターXのイメージとは乖離しない。
「そうね。そうなるかしら」
「どうして俺はそういうことも何もかも覚えていないんだ。よっぽど阿賀流でイヤなことでも体験したかな、ハハ」
真人は自嘲してみたが、もどかしい思いは深まるばかりだ。思い出せない、という次元ではない。すっぽりと欠落している。
「で。その兄様というのは、どこで何してる人なのさ。どうも、俺に会わせたくないみたいだけど…?」
「もちろん、仙境開発の社員よ。黒澤さんと部署は違うけどね。カスタマーサービス部長」
「部長か…。黒澤より下なのか。年齢考えれば、黒澤がよっぽど切れ者なのかもな」
「ふん。部長だろうがなんだろうが。自分の手でご飯食べてるマサ君のほうが、よっぽど立派よ」
寛子の口調は辛辣で、真人は眉をひそめた。きょうだい仲は芳しくないようだ。
「俺に会わせたくないからには、それだけじゃないんだろ?」
寛子はこくりとうなずき、土産物コーナーにいる周りのまばらな人影を気にしてか、声を潜めた。
「白琴会では、導師」
真人は顔をしかめた。
「出たな、白琴会。身内にいたか。関わってない者はいないとは、よく言ったもんだな」
「ごめんねマサ君。隠すつもりではなかったけれど、タイミングが、ね」
「まあ、気持ちは分かる。身内の恥みたいなものは、表に出しにくいものだろうし。いま教えてくれたんだから、それは言いっこなしだ。それより、導師というのは、どういう立場?」
「出家者のなかでもトップクラスの階級よ。その上は老師と大ばば様しかいないそうだから」
「出家者ってことは…そうか、もう一般市民として生活していないということだな?」
「そうなの。白琴会と仙開さんを往復しているみたいね。私も詳しくはもう分からないけど」
真人は考えた。
渡辺駐在の言った通り、道を歩けば白琴会か仙境開発の関係者にぶつかるというのがこの村のようだ。
まだ役場のような公共機関こそ当たっていないが、事情は似たり寄ったりなのではないだろうか。
改めて、自分の立場の危うさを感じ始めていた。
「その話を踏まえて、それでも、本当にあなた達は俺の味方と考えていいのか? それに、さっきの黒澤さんも」
「血がつながっていると、色々あるのよ。でも、だからこそマサ君、君を兄様に会わせないようにしているの。そして黒澤さんは、大丈夫さ。少なくとも当分の間は味方でいてくれる」
「その保証は? 俺の勘だけど、黒澤さんは、必ずしも全面的に信用していい人物とは思えなかったな。何かあるぞ、あの人には」
「黒澤さんはやり手だけど、世俗のことにしか興味がないの。白琴会にはあまり関わらないようにしているみたいで。黒澤さんの価値観は、純粋にビジネス、マネー。仙境開発の中で昇り詰めたいみたい。上昇志向であることは確かでしょうけど。すごくリアリストなのね」
「計算でものを考えるタイプか。自分の利益になる限りは敵にはならないと。でも、俺たちに手を貸すことが、黒澤さんにとって何のためになるんだ?」
「黒澤さんは、外から来た人だから。仙境開発の中で上に行くためには、後ろ盾が必要なのよ。村の支持者という」
「ふううん。世論を味方に付けるってことか? 地道だねえ。それだけで動くとも思えない人だ。まあ、何かあるんだろうさ。俺がまだ知らないことで彼が得するようなことが。そういうことだろ?」
「直接的には、兄様にマイナスになる行動をとれること自体が、黒澤さんにとってはメリットがあるのよね。兄様から社長までのラインが守旧派で一つの派閥を形成しているから」
「なるほど……」
黒澤が権力欲の強い男であるなら、妙な宗教的価値観で行動する人間よりはむしろ分かりやすい。
ただし、カネで動く可能性がある男だというなら、今こうしている間にも、次の一手を考えていることも有り得る。
頭が切れる男のようである。いつ裏切られても不思議はない。こちらとしてもドライな信頼にとどめておくべきだろう。
「その…兄様というのに俺を会わせないのは、どうしても?」
寛子はきょろきょろ目玉を動かす。周りを一層気にしているのだろうが、寛子の顔でやられると魚類じみていて少し可笑しい。
「…どうしたの、唇の端をぴくつかせて」
「い、いや。ちょっと水族館のことを考えていて」
「水族館なんて阿賀流にはないじゃない。…兄様ね。もちろん、私が連絡さえすればいつでも会えるけど、まだ会わないほうがいいと思う。今は、まだ、ね」
「会ってみたい。俺が小さい頃、一緒に遊んでいたこともあるんだろ? 今はそれをまったく思い出せないけど、会えば、何か思い出すこともあるだろうさ」
「そうかしらね…。小さい頃と今では、変わっていることが多いのよ。いいことばかり起きるとは限らない」
「分からないさ。会うまでは無理としても、見かけるぐらいのことでも」
「随分、兄様にこだわるのね、マサ君」
「手掛かりになりそうなことは、なんでもね」
真人はそこまでにしておくことにした。寛子にとって兄様のことは好ましくない話題のようだ。
今の段階でこれ以上、寛子の機嫌を損ねるのも得策には思えない。
「さ、その話は、終わりにしよう」
自分から話題を変えるしるしとして、その辺りの土産物を真人は適当に漁り始めた。
「いちおう、取材だからね。めぼしいものでも調達して、ささげ画像ぐらい撮っておかないと…」
「ささげ?」
「通販なんかに使えそうな写真を撮ることだよ。俺は貧乏ライターだからね。ちょっとした写真ぐらいは、スタジオなんか借りないで、自分で撮れるようにしてるんだ。白い背景シートとか、手製のレフ板なんか使ってね」
「へえ。プロっぽいじゃない」
「腐ってもこういうことでメシ食ってるからさ」
「大人に、なったんだね。マサ君も」
「いつの間にか、ね」
真人は苦笑した。プロとして仕事をすることが大人なのだとしたら、そうだろう。
だが、私生活ではあれこれと辛酸舐めてきて、おまけに小さい頃のこともロクに覚えていないような、そんな自分が、本当に大人なのだろうか。
十年前から、何かが止まっているのではないだろうか。
本当に、真人は完成された大人の人格になっているのだろうか。
ふとした自問自答だった。
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