第102話「1歳半の時に」

今回は小学時代の話ではない。でも、僕の根幹に関わる事なので書き記しておこうと思う。

僕は、1歳半から記憶がある。僕には、その頃から激しい怒り、殺意に相当するような激情があり、それは次第に家族や社会への憎悪となって行った。その大元の話だ。


◇◇◇


「じゃあ、行ってくるから良い子にしているんだぞ!」


と、手を振り、階段を降りていく親父。

僕は、保育園の二階の柵ごしに、保母さんに抱かれ『裏切ったなあ!』と怒り心頭に、激しく泣いたのだった。


僕は、1歳半から保育園に預けられた。保育園に預けられている方はご存じかと思うが、慣らし保育があり、少しづつ時間を長くして行くのだ。

初日は、婆ちゃんが僕を乳母車で連れていき、少し遊んだ所で迎えに来た。二日目はお昼まで、三日目はお昼寝まで……と慣らしていくのだ。始めは、保育園が物珍しく楽しかったが、しだいにつまらなく、寂しくなった。


「保育園に行きたくない!」


と、僕は泣いた。

そんなおり、親父が抱っこで保育園に連れて行ってくれた。


「遊園地に連れていってやる!」


と、言うのだ。僕は喜んだ!でも、着いた所は保育園だった。僕は、怒り狂った!


『嘘つき、嘘つき、嘘つき!』

と、泣いた。柵の閉まる音……消えていく親父の姿……僕は、怒りにつつまれ、やがて……怨みとなり……大きくなるにつれて、殺意に相当する気持ちを持つようになった。


それは、家族全員に対してであり、僕以外の世界全部へであった。


それは1歳の記憶からの……ずっと抱えてきていたものだった。そしてさらに、鮮明に記憶を裏付ける物を見つけた。


爺ちゃんが死んだ後、大片付け中に見つかったのだ。僕を生んだ母親の写真と共に、保育園の時の連絡帳を。話は前後するが、お通夜の夜、親父と久し振りに飲んで話した。その時に、1歳の時の事を親父に話したのであった。お通夜の夜、親父と飲んで話した。その時の親父は饒舌だった。


「お前は、葬式に来ないと思ったよ!」


と、まず親父に言われた。まあ、そう思われても仕方ない。そんな付き合いしか家族としなかったから。

とはいえ、お互いざっくばらんに話し合いになり、小さい頃の話しになり、僕は、そもそもの怒り、僕の怒りの原点について話した。親父は黙って聞いていた。


「親父、俺はね。置いて行かれた事を怒ってはいないんだ。ただ嘘つかれた事が嫌だったんだ」


と、話した。


「嘘ついたつもりはないんだけどなあ……」


と、親父は言った。

その後、高校の話しになった頃……


「お前が怖かったんだよ」


と、言われ僕は戸惑った!

怖かったって。どういう意味?こっちの方が怖かった!!と、話している時は思った。


爺ちゃんが死んで、それから6年。時々、親父に言った言葉や、1歳半の時に思った事を思い出していた。そして、思った。本当に嘘だったのかな!?と。僕は、記憶を巻き戻した。確かに僕は、そう感じ聞いた!と思っていた。でも、なんどか記憶を巻き戻しているうちに……


「保育園は、遊園地や動物園みたいな所だよ!」


と、親父が言っていた。

言った言わないの話しじゃないが、僕は、思い込みをしていたのかもしれない。記憶を改ざん?でも、嘘だ!と感じたのも確かだ。


しかし、子どもが間違えて思い込んで感じ考えてしまう事を、今の僕は知っている。


仕事の現場で、、本当はどんな気持ちなのか?本当はどういうつもりで言ったのか?色んな人間関係をつないでいる。それが僕の仕事だからだ。では、自分は自分に対してどうだったのだろうか?と思った。


今、思っている事が本当か?

思いこみはないのか?

他に視点はないのか?

最近、そう思う事が多くなった。


小学時代を書き続けて来た事も関係し、段々と振り返る事が出来てきたのだろうかと思う。(心のリハビリになっていたのだ)


僕は、文体では「僕」などを使っているが、現実では、「俺」が多く、非常に感情の起伏激しく、激情なタイプである。ネガティブであり、言葉のナイフを使う事、多々ありな奴なのだ。

一方、「僕」もいる。僕は、ポジティブで楽観的だ。感受性強く、人一倍寂しがり屋かとも思う。業務中はこちらが基本だ。


小学時代を書くのそもそもきっかけは、「俺」の心の記憶の、吐き出し口としてと考えていた。「俺の記憶」の原点、一歳の時の怒りから、怨み、殺意への莫大な記憶へと積み重なっていたと思っていたからだ。しかし、実際に書いて見ると、楽しい記憶もあるのだ。


というか、書いていたら完全に「僕の記憶」が小学時代の大半を占めていた。確かに意識して、楽しかった、面白ろかった気持ちを書いてもあるが、書いていて、エピソードが溢れてくるのだ。それには、自分でもびっくりしている。(不思議でしょうがない!人間の脳はいったいどうなっているのだろうか?)


ある意味「俺」が「僕」をつなぎ止めていてくれ、「僕」が「俺」を支えてくれた事で、これだけ鮮明に覚えていられたのだと、今は思う。(実際、嫌な記憶も同じ量あるからだ)


話を戻そう。

お通夜、そして葬儀。その後、爺ちゃんの物を一族で一気に片付けた。(また一同が集まるのが大変なので)の大片付け中に、僕を生んだ母親の写真と共に、保育園の時の連絡帳と母子手帳が見つかった。僕は、母の顔を知らない。(厳密には、1歳半すぎに一度だけ見たのを覚えている)


28歳にして、初めてみた母の顔写真だった。そして片付けていて、出て来た保育園の連絡帳。読むと、さらに、「僕」と「俺」の記憶に自信を与えてくれた。

小学時代の当時、家族や友達に話したけど、あまりに幼い頃の話で、誰も信じてくれなかった。でも、それらが書いてあったのだ。


爺ちゃんが死んでから6年が経ち、僕にも子どもが出来た。その時、通夜の夜に親父が言った言葉。


『怖かったんだよ』


が、なんとなく分かった気がした。

それは、親としての責任みたい事かも知れない。

今思うと、親父も酔っていたとは言え、良く正直に、素直に言ってくれたと思う。

そうそう、職場の大先輩に……


「現実や事実は、解釈しだい」


と、言われたのを思い出す。

なぜなら、今の僕と俺の一歳半の記憶の中では……


◇◇◇


保育園に行かない!と泣き叫ぶ僕に、婆ちゃんは疲れはてて、親父が代わりに連れて行く事になった。

抱っこをしながら歩いて行く親父。

親父は少しでも、かなめんにとって、保育園が楽しいものになるようにと、あれやこれや言っていた。


「保育園つまんない!」


「えっ?保育園楽しいよ、遊園地や動物園みたいに楽しい所だよ!」


「えっ?本当?!楽しみだなあ~!」


僕は、親父の「みたいに~」は聞いてはいなくて、保育園は遊園地だ!と思いこんだ。だから……


『え~嘘つき!』


と、朝のバイバイでは激怒して泣いた。

保母さんが抱っこして、なだめたり、あやしてくれたが、いつまでもシクシク泣いていた。(連絡帳にも書いてあった)

泣いていたら、友達が頭ナデナデしてくれた。(これはカミやコウ、メグだった)


部屋にはオモチャが沢山あるのに気付き、友達も遊んでくれた。(そうそうメグの他に女の子がいて、その子が好きで、よくつきまとったなあ。確か途中で引越してしまった記憶がある)


外は青空、気持ち良い!!テラスに出たり、近場の公園に散歩した。ワゴン(子ども6人乗り手押し車)に乗る時もあり、あれは楽しかった。

その時には、親父に対しての激しい怒りなど忘れていて、また明日も保育園に来たいとおもっていたのだった。


こうして僕の、保育園生活が始まったのだった。


おしまい

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