第9話 現実、ここにない声





 その時間がアリアスにもたらしたのは、自然な全ての肯定と落ち着き。

 アリアスを抱く竜は、伏せた瞳を親が子に向ける眼差しで下に向けて暫く。背を撫でていた手でやんわり頭を撫でて、体を離した。


「落ち着いたようだな」

「……はい」


 アリアスの頬に張りついた白い髪を丁寧にのけ、シーヴァーは首を傾ける。アリアスは一度顎を引いた。

 様々なことは、受け止められていた。シーヴァーという存在に触れ、包まれていると身に染み入るようにこの空間での全てが整理されていった。疑いようもないことで、事実である。自分の魂は竜の魂で、だから今髪も目もこのようになっている。

 そしてそのお陰で、全ては叶い、何も手放さなくて済んだ。これが一番だった。


「今一度言うが、分かっておいて欲しいことは、救いたいと願うことは良いこと。しかし、今のおまえには強い願い、人の力ではひっくり返せぬことを掬いあげることはとても危険だということだ」

「はい……」

「言われたとしても判別は難しいことであり、此度のようにどうしても譲れぬことはあるだろう。ゆえに、おまえの生はおまえのもの、後悔はせぬようにせよ。人の生を健やかに過ごすことを願っておる」

「本当に、ありがとうございます。シーヴァー様」

「礼を言われることはしておらぬ」


 とシーヴァーは微笑んだ。


「さて、こう出来る時間も名残惜しいがそろそろ目覚めても良いだろう」


 目覚めると言えば、現在、現実で変なところにいるようにしか思えなかったアリアスは実は触れたりするのに魂だけというよく分からない状態である。本物の『現実』、体は眠っているらしい。


「私、どれくらい眠っているんですか?」


 時間感覚がない。荒れ果てた地にいたときが正確にどれくらい前なのかも、判別がつかない状態。昨日のことにも思えるようで、もっと時間が経って昔のことのようにも思える。

 一日、それとも二日……。

 シーヴァーは「ふむ」と少し考える様子に。


「数日……本日で五日目となろうか」

「えっ」


 そんなに?

 見積りより長い日数に、アリアスは目を丸くする。五日間起きずに、眠り続けているのか。


「今ここでおまえが目覚めるまでには混乱した魂を収めねばならなかったため、ここで過ごした時はそれほどではあるが、それまでの過程で数日が経っておる」

「えぇと、あの、どうやってこの状態から目覚めればいいのでしょう? 目覚められますか?」

「落ち着くがよい」


 どうしよう。早く目を覚まさなくてはと細かな理由もなく焦り、おろおろするとシーヴァーは穏やかに笑った。


「待っている者を心配しておるのだな」


 そうなのだろうか。そうかもしれない、と焦りの原因は言われて、明らかになる。

 五日間も目を覚ましていないのでは、とても心配してくれる人達を知っているから早く目覚めなければ。


「おまえは、実に良い出会いをしたようだ」


 アリアスが見上げるとシーヴァーはその手を掬い上げ立ち上がる。アリアスも立ち上がる。


「心配せずとも、我が導く」


 セウランとしていたように、繋いだ手。微笑むシーヴァーの掌から柔らかでありつつも、力に溢れた白い光が生まれ、白い世界をより白く。アリアスの見える限りも白くする――――




 *









 目が開いた。最初に見えたのは見覚えのある天井。ぱち、ぱち、とゆっくりと瞬きをしてぼんやりとする頭で無意識に現実味を判断する。


「…………」


 十と数度天井を見たまま瞬きしたところで、身動ぎすると頭が枕と擦れる音と感触があった。その間に視界に映る景色はといえば見慣れすぎたもので、天井から、オフホワイトの壁、そして。

 ベッド横に移動した視線は壁を捉えなかった。


「――――シーヴァー様」


 どこと分からない場所で長く向き合っていた姿が、椅子に座ってアリアスを見ていた。「目覚めたな」と優しい笑みが深まる。態度がくっきり残る記憶の続きのようだから、あれは紛れもなく一種の『現実』で、夢ではなかったと確信が沸いた。

 白い髪と橙の瞳、見ていたものと変わらない姿が見慣れた壁を背景に存在している様に、次にアリアスが目を向けたのは自らの近く。黙視した髪は、茶色。


「おまえは帰ってきた」


 これは本当に現実のようだ。今度は今の状況が現実だと認識し、とりあえず身を起こそうとすると、身体が鈍く重く感じられた。


「ずっと眠っておったから怠さがあるだろう」

「わたくしが」


 シーヴァーしか見ていなかったが、部屋の中には白い髪に橙の瞳――白い衣服に身を包む竜が他に二名後ろに控えていた。

 内、見知らぬ女性が進み出てアリアスの手を取ると、魔法力が体力の回復をしはじめる。


「ありがとうございます」

「いいえ。ご無事で何よりです」


 身体に満ちる倦怠感が薄くなっていく。思考が少しばかり明確でないのは、そのままに身を任せる。


「アリアスさま、大丈夫なのです?」


 包まれている手を委ね、後は完全に力を抜いているアリアスのベッド脇にやって来た小柄な姿。


「セウラン。大丈夫だよ」

「本当です?」

「うん」


 頷くと、緊張気味に見上げてくる少年の瞳からぽろりと大粒の雫が溢れる。


「セウラン?」

「……良かったです……」


 セウランは緊張の糸が切れたように、ベッドに突っ伏してしまった。

 その小さな背中に、アリアスは手を伸ばした。

 最初はそっと指先で触れて、それから長い髪が散らばる背中に掌全体をつけた。


「セウラン、ありがとう」

「…………?」


 一言お礼を述べると、セウランはおもむろに頭をもたげた。力が抜けた顔をしている。


「私に方法を教えてくれてありがとう。セウランのお陰で私は何も諦めずに済んで、後悔せずに済んだ」


 だからありがとう、と心の底からまた言うと、セウランは目をぱちくりとさせた後、ぶんぶんと首を振った。


「ぼ、ぼくのお陰なんかじゃないです!」


 いいや、何を言おうとセウランのお陰だと思う。必死にも見える様子で首を振るセウランを見ていると、口元が緩んで白い頭に触れ、手を滑らせた。


 それはともかく、今のやり取りで頭がはっきりした。改めて室内に視線を配るとなるほど、塔の一室だ。室内には竜だけという、客観視すると中々不思議な光景にはなるはずが、驚くべきことにこんな殺風景な部屋に彼らがいるという光景だけが強いて挙げる違和感。アリアスの個人的な感覚に過ぎないだろうか。

 椅子に座り、にこやかにこちらを見ているシーヴァーは自然に溶け込んでしまっている。目が合う。


「他に不調は?」

「いいえ、ありません」

「それならば何より」


 何より何より。とさらにシーヴァーは繰り返した。


「魔族を呼ばねばならぬな」

「封じです? もう封じは長が直接されても良いのではないのです?」

「力を身の内に留め出てこぬよう封じるより移動させておいた方が良かろう。力が満ちているということは、大きな力が出せるということにもなる。強い願いにより癒しの力は容易に何物をも破り、出される。ヴィーグレオと異なり、魂が不安定。望まずにはいられぬときもあるゆえ、いざというときに魂が揺らぐ危険性が減るようにしよう。――魔族はどこにおるのだろうか」

「わたくしが知っております」

「では頼むぞ。目覚めることを待っておった人の子にも――アリアス、如何した」


 意識が捉えていた会話が途切れ自分に声が向けられたことに、アリアスの他に引っ張られていた意識を戻っていき、曖昧になっていた焦点がシーヴァーに定まる。


「如何した」


 不調が無いと言ってから、アリアスは意識に引っかかる微かな音に気がついた。気がついてからは音はすぐ側で立てられているかのように大きくなりはじめたが、室内にそのような音を立てている者はいない。

 それに音は耳の内側に直接響き、実際に外から音を拾い上げているようではなく、幻聴の類い、耳鳴りであると言われてもおかしくない。

 しかし、アリアスはその音に聞き覚えがあった。

 アリアスの曇った表情に二度目尋ねたシーヴァーの促す目に、アリアスは唇を開く。


「シーヴァー様、どこかで竜が鳴いているような声が、聞こえます」

「竜がか」

「でも、直接外から聞こえているようではないので、耳鳴りでしょうか……」


 聞き覚えのある音が聞こえているような気がしているだけ、とか。言っている最中にも確かに聞こえているから、耳鳴りの類いなら相当だ。

 耳を塞いでみても聞こえて戸惑うアリアスに、シーヴァーは真剣な表情となっていた。


「それはどのような声だ」

「どんな……?」


 シーヴァーの言葉に、聞こえる音に集中する。目を閉じ両手で耳を塞ぐと、視界情報は無くなり外の音は遠ざかる。静かになった世界に、どこからともなく聞こえる音。

 竜の鳴く声と言えど、この声は。

 ――――キュウ

 小さな、小さな消え入りそうな声は、大人の竜が吼えても叫んでも強く響くのに対し、とても弱い。子どもの竜特有の声。


「……ファーレル……?」


 目を開いた。

 手が耳から浮く。


「ファーレルが、子どもの竜が鳴いています」


 弱っているときの声は記憶の中のものなのかどうか分からず、アリアスは伝えながらも眉をひそめる。


「少し前に人の元に渡った卵があったな」

「長、竜が孵ったとすればまだ幼い子のはず。魔族の影響を受けた可能性があるのでは」

「苦しむ竜の声を拾うたか。……少々、敏感になっておるな」


「ふむ」と思案する竜はやがて結論を出す。


「影響が出ることは仕方あるまいか。苦しみを除いてやれば収まるだろうが、力を制限すれば今後聞こえなくなるやもしれぬ」

「シーヴァー様、これは実際にどこかで鳴いている声なんですか……?」

「そうなる」

「ファーレルは大丈夫でしょうか」

「大丈夫だ、信じよ」


 でも、声が聞こえる。

 アリアスが浮かない顔をすると、シーヴァーが手を取り、手の甲に触れる。


「簡易の封じを」


 手の間から一瞬溢れた光。ジワリと触れた部分に熱が生じ、シーヴァーが手をはなして露になった手の甲には小さな模様――円が描かれ、細かな文字のようなものが円に沿う。


「おまえが聞いていたのは、竜の声。本来どこにおれども苦しむ声を拾う力を持っておるため、一部が表れたのだろう。一時的に我が封じておる。声は聞こえるか」

「……いいえ」


 聞こえなくなった。


「おまえに施すことを施してから、行ってやろう」


 鳴いていたのが事実であるのなら、どうしかしてやらなければならないと思うアリアスの胸の内はお見通しで、シーヴァーが諭す。


「魔族をここへ」








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