第5話 優しいお叱り








 目が覚めたときと同じ感覚がしたけれど、いたのはどこだか分からない場所だった。

 白くて、白くて、とにかく白い場所はかつて魔族に連れ込まれたことがある、空間と空間の間だという場所に似ていた。どこにも区切りがないという点だけ。

 どこかの部屋ではないことは間違いない。


 ここはどこだろう。荒れ果てた地にいて、師やゼロ、サイラスはどうなったのだろう。早くここから出なければと右や左を見るけれど、出口は見当たらなくて……白い中アリアスがぽつんと立っていると、誰かが現れた。


「上手くいったようだ」


 橙色の瞳に長い長い白い髪。肌まで白いから綺麗な瞳の色以外はこの場所に溶け込んでしまいそうな美しい男性を、見たことがある。セウランのときと同じく、数年前の記憶と合致した。


「あなたは、竜の……」


 と言いかけて、止まる。

 もっともっと知っている気がしたから。


「よい。思い出さなくとも良い。まっさらなまま、おまえはおまえの生を生きれば良い」


 曖昧なものを掴もうと見上げ続けるアリアスにそう言い、立ち止まった。


「前に会った折に名前は言わなかったと記憶しておる。我の名はシーヴァー」

「…………あ、私は、アリアスと言います」

「良い名だ」


 微笑み、大きく頷く。


「あの……」


 現れ、自然に正面に立った男性に流されていたアリアスが躊躇いがちに話しかけると、眼差しで続きを促される。


「ここはどこ、でしょうか」


 よく分からない場所なのに、現れた竜の男性はあまりに自然で、周りがこうであることを理解しているようだった。


「ここは、どこでもない。夢でもないが、現実の世界ではないことは言っておこう。ここには身体はなく、おまえと我の魂のみがある状態だ」

「……魂……」


 手を見下ろして、驚いた。

 魂と言われても、体は見慣れた制服に透けたとかいうこともない。さらりと流れてきた髪の色が――――白。

 驚いた瞬間に触れて髪を辿ると、自分の頭に着く。引っ張ってみても、そうに違いはないけれどこの色はどうしたことか。周りが真っ白だったから、辺りを見回しているときは気がつかなかったのだろうか。

 両の横髪は見える限りで同じ色。今まで見ていた竜の男性と同じ色。髪に触れて凝視していたアリアスは視線を弾き上げた。


「話さねばならぬことがあってな。ゆっくりするのもいいのだが、話に入ろうか。おまえが目覚めることを待っている者もおる」


 目覚める。アリアスは自分のものらしき髪を手のひらに、何が何やらだ。


「お座り」


 穏やかに声と目で勧められて、髪を見て男性を交互に見てからアリアスが座ると竜も正面に直接座った。衣服の裾がふわりと浮いて、落ち着く。


「あ、あの」

「何でもお言い」

「色々、聞きたいことはあるんですけど……」


 やっぱりここはどこなのか。何がどうなっているのか。この髪はどうしたのか。何から聞けばいいのか、途方に暮れるに近い心地になる。


「ここにいるより前に、何があったか覚えておるか?」

「は、はい」


 荒れ果てた地にいて、サイラスを止めようと思って――崖の上にいたときの記憶から先は、少し現実味が薄れているにしても、覚えている、と思う。でもどうなったのかは分からない記憶を最後に、ここにいる。

 話題を提示されたことで、あの場はどうなったとかという思いが一番強くなる。


「何が起こったのか、ご存知なのでしょうか?」

「知っているとも。安心せよ。アリアス、おまえが望んだことは成された」

「本当、ですか」


 返ってくるのは、深い頷き。

 細かく尋ねていないのに、本当に全て――誰も失わなかったのだと確信し、不意に泣きそうになった。良かった。それは、間違いなく大きな安堵。


「しかしそれを成し遂げるために、おまえは少々危険な状態になっていた」

「危険……?」

「おまえは魔族を『こちら』で生きられるように変化させた」

「サイラス様は『こちら』で生きられるんですか?」

「そう願ったのだろう?」


 願った。どちらでも生きられないサイラスが『こちら』で生きられるように。サイラスの前に行き、願い、その先は覚えていない。

 そして、竜は先ほどアリアスが望んだことは成されたと言ったからには実現した。


「その願いには大きな力を払わなければならず、それはおまえに力以外の代償を負わせるやもしれぬものであった」


 代償、という言葉に思い出したのはすべを教えてくれたセウランが、全てを犠牲にしてでもしたいと思うかと言ったこと。アリアスが自分の何かを、何もかもを差し出せばあの場全てを失わないとしたら、と。

 聞いた上で、アリアスは教えてと言った。


「私は、何を払ったんですか?」


 何らかの代償を払ったことでこのようになっているのであれば……。『魂』の状態が未だにしっくり来ないが、これが一種の現実でないとしたら、体は?


「私、死にかけていたり……?」

「おおそれは無いから安心せよ」

「そ、そうですか」


 死にかけていないということは、死んでもいない。


「じゃあ、何を」

「力以外の代償を負わせるやも、と言ったであろう? 負うことはなかった。しかしあわや二度と目覚めぬことになるところであったぞ」

「え」


 竜の男性――シーヴァーが手を伸ばし、アリアスの髪を掬った。やはり、白いまま。


「ここで目覚める前、見たことのない景色を見たであろう」

「……見ていた気が、します」


 息を吸えば空気を感じられそうなくらいリアルな景色に立ち空を見上げ、まるで飛んでいるかのように地上を見下ろし、何度も景色は移ろった。人がいた、――空を翔ぶ白い竜がいた、人の姿をした竜もいた。

 やがて植物が絶え、剥き出しの地に人が倒れ、竜が墜ちる。血が流れる。

 そしてまた景色は流れ――――


「良い、思い出すでない。すまぬな」


 頬に触れた何かに、はっとしたアリアスが夢から覚めたように目の前を認識すると、シーヴァーが離した掌でアリアスを宥めるように頭を撫でた。幼子にする手つき。

 アリアスの瞼の裏にちらついていた見知らぬ光景は、消えていく。


「それらはおまえの魂の記憶だ」

「私の魂の……?」

「そう。魂は巡り、戻り生まれるという話は知っておるか?」

「はい」

「ならば話は早い。――つまり全ての魂には、かつての生があったことは理解できるな?」

「はい」

「しかしながら新しい生は新しい記憶を刻んでゆく。記憶は巡る度に新たにされ、巡る。まっさらに、魂には欠片も残らぬ」


 アリアスは首を傾げる。ではアリアスの魂の記憶とは、どういうことだろうか。あれは、「アリアス自身」の記憶ではない。見た覚えがないのだから。


「但し、全ての魂にはその準備の時間が必要だ。魂を何も無い状態にし、巡る時間。人には人に適した時間。竜には竜。生きる時間が異なるためだ。そして、長く生きた者ほど巡るまでの時間は長く、長くなるものだ。――その準備が十分でなければ、魂に記憶が残ってしまったままになる」

「……私が見ていたのは、その残った記憶だと仰るんですか……?」


 話の流れでは。

 シーヴァーは深く頷く。


「その通り。長く生きた竜の、膨大な記憶だ」

「――――え?」


 清流のごとき声で、流れるように自然と述べたかの竜は、慈愛に満ちた微笑みで告げる。


「おまえの魂は、竜の魂なのだよ」


 アリアスは、瞬きを止めた。


 シーヴァーの指が、アリアスの目の前で円を描く。


「ご覧」


 円から浮き上がるように、どこからともなく出てきた鏡。

 促された意識の裏で他人の手のように動きはじめた手が鏡をゆっくりと受け取り、アリアスは鏡を上げ、視線を移す。

 鏡に映るのは、アリアスの顔。白い髪に……橙の瞳。頭が認識した途端、鏡に映る橙の目が見開かれた。

 全体像として、髪の色も合わせて改めて目にしたアリアスは、髪のときと同じくシーヴァーを見上げる。

 同じ色彩の竜は、微笑む。


「おまえの魂の色だ。今のおまえは魂の状態でいるため、そのようになる。実際の体にはこれまでがそうであったように、これからもその色が出ることはない」


 全ての肯定。


「おまえが魔族と成り果てた人間を変化させた力は、とても大きなものだ。それは竜の力だったのだよ」


 鏡を見ると、呟きを表すかのような色彩がこちらを見つめ返す。

 これは間違いなく、自分だ。アリアスが目を細めれば橙の瞳は細まり、首を振れば鏡でも首が振られ、頭が動き、白い髪が踊る。見慣れないのは色のみで、顔かたちは見慣れたもの。


「竜の、魂」


 力がみなぎっていた感覚を思い出す。

 掬い上げられると思った。気がつけば見ていた場に立っていたとき、自分ならこの場の全てを掬えると思えるほどの力が確かにあり、セウランが作ったような壁でサイラスとゼロの間を隔てていた。

 全能感とはこのようであるのだろうかといった感覚。溢れんばかりの魔法力が体に満ちていた。


 ――あのとき、自分は人ではなかった


「いつから」


 おかしな質問だったろう。

 だがシーヴァーは訂正しなかった。


「生まれたときに人の身を器に竜の魂が宿り、生まれた」


 魂なのだから、生まれたときからに決まっている。でもアリアスは、こう思った。「知らなかった――」と。心からの言葉は呟きとして口からも溢れ、シーヴァーが「そうだろう」と言う。


「そのようにしたゆえな。我と、おまえの近くにいる魔族と」

「……師匠……?」

「さよう。魂には力が宿っておるため、おまえの魂にももちろん竜の力が眠っておる。人は魔法の才がある者がある日突然魔法の力を目覚めさせるときがあろう。おまえの竜の力も、魂に眠っていたものが外に表れたときがあった。そのときに、魔族が我らの元におまえを連れてきた」


 おまえは幼き時、眠っている間のことだったと言われて、連れてきたと言われてもアリアスは覚えていないからそうなのだろう。


「少しまとめて話そう。良いか、おまえの魂は竜の魂だ」

「はい」

「しかしおまえの魂は本来次の生に巡るまでの期間を経ず、途中で巡ってしまい不安定、さらに魂にはまだ前の生の記憶が残っておる。これには問題があり、加えて人を器に生まれたことにも問題が付随する」

「問題、ですか」

「まず一つ目。竜の力は人よりも大きなもの。その力は魂に宿り、どれだけ人の器が優秀でも受け止め切れないというものだ」


 同じことを、セウランがゼロのことで言っていた覚えがある。


「そして二つ目。魂は繊細なもの。前の生の記憶が魂に大人しく眠っておればよいが、甦ってしまった場合今のおまえが自分の存在を認識できなくなり魂が混乱してしまう。最悪魂は有り様を保持できず、壊れ、体が死を迎えるまで目覚めぬ。ここまでは良いか」

「は、はい……」

「安心せよ。二つの問題を抱えていたおまえではあるが、記憶は魂が刺激される余程ことがなくては甦らぬ。力も余程引き出そうとしなければ引き出せぬように出来る。そうしていた。おまえはずっと耳飾りをしていただろう」

「はい」


 幼い頃からしていた。言われて無意識に手を耳にやると――予想していた感触がなくてぎょっとする。耳のどこにも金属の冷たさはなくて、耳に何かついているという感覚がなかったことに今気がついた。

 咄嗟に鏡で見てみると、白い髪を避けて露にした耳には馴染んだ耳飾りの輝きはなかった。


「あれはただの耳飾りではなかった」


 外してはならない気がしてずっとつけていたものがなくて僅かに動揺しはじめていたアリアスは、鏡を下ろす。


「飾りの部分の金属の中に石が入っておったろう」

「……はい」


 なぜ、知っているのか。今耳にない耳飾りがどこに行ってしまったのか知っているのだろうか。


「その石は魔法石だった」

「魔法石……?」


 短い鎖で繋がった先には中が空洞になる形の紋様が金属で描かれ、空洞となった中には真珠ほどの小さな石がちらりと顔を覗かせていた。


「人から見ると非常に稀少な魔法石でな、あの小ささで非常に大きな魔法力を溜められ、魔法を込められる代物だ。それを魔法力を移動させる魔法具とやらにしておったのだ。そう、おまえの中の竜としての大きな力をそうやって体に溜め込まぬようにしておった」


 竜は魔法具は使わない。魔法具、と何やら慣れない様子で口にしたシーヴァーは、魔族の手によるものだと教えた。

 師のことだと察したアリアスは、少し驚いた。

 師は思いもよらないところで関与している。師は知っていたのか……とこれまでの師の様子を思い出そうとしたけれど、無駄に終わった。


 竜の谷と呼ばれる、竜が住処とする谷には竜が泉と呼ぶ魔法力を溜められる泉があるそうだ。言わば魔法石のようなものだが、大地から切り離された魔法石と異なり大地に直結する特別な泉の貯蔵量は無尽蔵だと言う。


「壊れてしまったゆえな、今はないのだ」

「壊れたんですか」

「外に出ようとする魔法力の強さに耐えられなかったようだ。――おまえはとても無茶なことをした」


 ここで初めて、シーヴァーは苦笑とみられる表情をした。勝手にアリアスは叱られる子どものような気分になる。


「余程力を引き出そうとしなければ、壊れぬ。『余程』を行った自覚はあるだろうか」

「……あ」

「何、おまえの願ったことを責めているのではない。ただ、今のその身には危険なことであるということはこれからのために分かってほしい。魔族を『こちら』で生きることを可能にすることは、大きな力を払う。なぜならその行為は、根本に定まってしまった在り方を変えることでもあるためだ」


 荒れ果てた地で、溢れんばかりにあった力。願い、強く願った結果の力。

 あの場の何もかもを留めたかったアリアスに、何をおいてもしたいと思うかと言ったセウランの苦しげな様子と泣き顔を再び思い出し、流れていったかのように思えていた代償の話に思い至った。

 あれがシーヴァーの言う無茶。魔法具を壊すほど、『余程』力を引き出そうとしたになること。


「危険だったのだ。挙げた二つの問題点は、一つ目と二つ目が強く結びついておる。竜の力は言うたように人の身では受け止められぬ。これも問題ではあるが、一つ目が及ぼす影響が問題となる。竜の強大な力は魂に宿る。その力を大いに使えば……魂を揺らがし、魂が揺らげば残ってしまっている記憶が甦り、最悪一生目覚めぬ身になる恐れがあった」

「――それが私が願い、力を使った結果払いそうになった代償、ですか」


 シーヴァーが首肯する。


「心配はいらぬ。もう魂は落ち着いた。よってこのように会うことが叶っておる。全ては過ぎたこと」

「……私は現実?ではどうなっているのでしょう」

「眠っておる。何日になるか。嗚呼、場所は人の国の都の塔の一室だ」


 たぶん、アリアスの部屋。懐かしいベッドで眠っている、のか。


「シーヴァー様も、そこに?」

「無論」

「収めてくださるために、来てくださったのですか……?」

「我しか出来ぬゆえな」

「あの、ありがとうございます」

「良いよ。我が子のためだ」


 シーヴァーは、清らかに微笑む。

 我が子と言われたアリアスは何度か瞬く。


「竜の魂を持っておる者は全て我の子だ。本当に、無事に収まり良かった」


 心の底からの安堵の声音。女性のように繊細で綺麗な手がアリアスの顔を確かめるように触れる。眼差しが、親のような……外見とは裏腹に長い歳月がちらつくせいか祖父が近い。

 撫でられるままになるのは、嫌どころかむしろ不思議と心地が良い。









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