第23話 取り溢した可能性






 落ちた師の姿を追い地面に膝をつけて下を見ると、師は怪我した様子はなく歩きはじめた。


「師匠!」


 声の限りに呼んでも、振り向く様子もない。

 向かう先の、力の衝突による余波も感じていないように淀まぬ足取りで離れていく。

 あれが別れだとすれば、呆気ない。王都の外にしばらく出てくるときと同じように話の流れで自然に言われた。本当に、師はこのままいなくなってしまうのだろうか。頭の片隅が嘘だ、と呟く。そんなの、嘘だ。


 どうして皆して背を向けて行ってしまう。


 漆黒の髪が風に揺れる後ろ姿に、髪よりも深く濃密な黒が滲む。アリアスからは見えない目は、赤に移り変わっているのだろうか。

 師の目的はサイラス。魔族に染まった彼は『こちら』で生きるには難しいから、師が境目を通って『あちら』に連れていく。それによって『こちら』からは脅威が取り除かれる。

 けれど代償は免れない。誰かが消えなければならないことに変わりはない。

 次から次へと、選択肢は変わってもそこだけが変わらない事実。アリアスは地面についた手を握り締めた。


 ――「あるべき場所に還る」


 あるべき場所とは何だ。今までこちらにいたのは何だったのか。外見が年齢を重ねない以外は少しだらしない人としか思えなかった師が『あちら』に戻ってどうするというのだろう。


 それにサイラスだって。確かに彼がしたことは罪ではないとは決して言い切れない。彼自身の意思ではなかったとしても、してしまったことの中には戻らないこともあったかもしれない。

 だからって『こちら』でも『あちら』でも生きられないなんてどうかしている。『あちら』のことは全く知らないけど、誰もがどちらかで生きているはずなのにそんなの不公平だ――――。


「……どちらかで……?」


 魔族は、『こちら』の魔法が染み付いた大地では生き辛いらしい。

 反対があるのは当然か。その昔魔族の魔法が人と竜とが暮らす土地に侵食して来ようとしたがために、魔族を追い払ったように、人や竜が魔族の魔法が染みついているだろう『あちら』で生きることは不可能に近いのではないか。今まで、魔族に対する『こちら』側のことしか聞いて来なかったけど。

 闘技場で、セウランが魔族の魔法を受けてしまうことは悪いものをもたらすと言っていたこと。さっき、師が『あちら』では人間と混ざりあった存在が生きるには厳しいと言っていたことが耳に甦ってきた。


 このように人や竜は『こちら』で。魔族は境目を越えた実質完全に隔てられている『あちら』で。


「でも……」


 小さな頃、拾われて以来アリアスには当たり前となっていた存在である師は魔族だ。


 気がついた。


「………………無理じゃ、ない……?」


 取り落としていた気がしていたものが何か、分かった。

 過ごしてきた年数と比べて、知ったのは少し前の数年前。邪悪さに満ちた魔族を見てからでは違いようを感じながらも受け入れ、外見の謎やらが解けてむしろそれもまた新たな当たり前の一部に溶け込んでいた事実。

 今一度、その師の事実を振り返る。

 師は魔族だ。それも、普段は意識が薄いがサイラスと違い歴とした魔族のはずだ。


 しかし何十年も『こちら』で生きている。

 置かれている事態と相反してアリアスには当たり前のことすぎて、逆に少し思考が絡まる。

 『あちらに』いた期間が『こちら』にいた年数をどれほど越えるかは分からないものの、元は『あちら』にいたと本人からも聞いた。その師が『こちら』で生きられているのならば、サイラスにもできるはずではないか。

 思考が、回り始める。


 サイラスも生きられないことはない。可能性は無いはずない。


「師匠は、『こっち』で生きてるんだから、……サイラス様だって」


 崖の下を覗き込んだきり微動だにしなくなったアリアスを心配して、落ちないように怖々と近づいていたセウランが身体を震わせた。

 アリアスは気づかない。頭に浮かんだ可能性を突き詰める。


 ――彼が魔族の性に負けなければ、きっと

 だってサイラスはあんなにも苦しそうだったから。

 争いを好み、残虐で邪悪な魔族の姿が重ならない師のように、サイラスは元々そんな人ではない。自分の血を流して、苦しんで、止めようとしていた。


 何か条件があるのだろうか。

 師はたしか、魔族としての本質が曲がっていると言っていた。赤い瞳が紫に、黒い魔法は白い魔法に。漆黒の髪が残っているのは魔族の証で、完全に別のものにはなれないということにしても、弊害なく『こちら』で過ごせているのは、魔族の本質が曲がっているゆえだと。

 魔族としての本質とは――魔法と争い。魔法とは強大な魔法力、地を荒らす魔法力。争いとは、魔族がひたすらに争うことを好むこと。

 これらが曲がっているとは、つまり、どういうことか。

 争いを好まないようになれば、飽きればいいのか。でもそれには飽きるまでの途方もない過程が必要かもしれず、そんなことをしている暇がない。

 それに、サイラスとて本心から争いを好んでいるような人ではない。


 他に、師が言わなかった要素があるのだろうか――? 彼が違う方法を取るということは、サイラスには何か要素が足りないのか。

 こんな時になってすぐそこに、もう一つ選択肢が見えてきたのに指先に掠りそうなところで手が届かない感覚。


「どうしよう……師匠も、サイラス様も、ゼロ様も」


 サイラスが魔族の性に侵され、ゼロやルーウェンが窮地に立たされたあの光景自体は、アリアスにとっては本当の絶望や恐怖ではなかった。

 いつだって怖いのは、誰か身近な人を失うことだ。欠かしては酷い喪失をもたらす人。でもそれが最もな恐怖であることは、アリアスの身に降りかかるかもしれない直前に一番よく分かる。

 今。

 このまま続けばどうなってしまうか分からない人。アリアスが行けない、会えない場所に行こうとしている人。どの道でもどちらの世界にも生きることを許されない人。


「――――失いたくない」


 全部失いたくない。

 我が儘であってもいい。


「何も、失いたくない」


 心の底から出てきた言葉が音となってアリアスの口から出ると、傍らで、今度こそセウランが大きく震えた。

 アリアスはそれに気がつかない。吐き出して、言って、何か勝手に変わってくれる奇跡は、ない。何かしなければと走り出し、側に行くことも今は『危険』。

 何の力も持たないアリアスに与えられたのは、地面に座り込んで、全てが終わるところを見ていること。


「失いたく、ないです……? 全部」


 ぽつん、と少年の声が小さく落ちる。

 周りにも甚大な影響を与えている力の中心に近づき、一方で遠くなっていく姿を見ていたアリアスは、ぎこちなく顔を上げる。

 声の主、いつの間にか師と入れ替わりに近くに立っている少年を見上げる。


「全部魔族に任せ、魔族が両方共『あちら』に行ってしまえば解決するのにです?」


 セウランは大きな瞳でアリアスを一生懸命に見つめる。アリアスから目を逸らしたいのに逸らすことを我慢していることが、瞳の揺らぎで分かる。

 小さな子どもの姿をした彼は何か言おうしている。

 息を吸い、言葉を繋ごうとしている様子なのに――どうしてそんなに震えているのだろう。言ってはいけないことを今から言おうとしているように、口を開きあぐねている。

 震えを収めるために握られた小さな手は、力を入れすぎて次はそのせいで震えている。


「ぼくは、分かりませんです。魔族に対抗する力があるヴィーグレオさまを引き離さなかったことが正解だったのか、あなたをここに連れて来てしまったことも、です。魔族がここにいるはずではないのです。ヴィーグレオさまが戦わなければいけないことは、もうないはずだったのです。でも、……そうなってしまったのであれば、仕方ありませんです。そしてそれは止めていただかなければなりませんです」


 ようやく続きを話しはじめたかと思えば、かなりの早口で、アリアスはセウランの様子に再度違和感を覚えて地面から手を離す。


「私が――私がここに来たのも、ゼロ様が戦っていることも、セウランのせいじゃないでしょ? どうしてそんな風に言うの?」

「ぼくには、力がないので、見ることしか出来ないから、です」


 力がないなど、そんなことないはずだ。闘技場で周囲を守っていたのはこの少年でもあった。

 それなのにセウランが何も出来ないと言ったことに、まさにたった今の自分を鏡写しで見ている気分に陥る。セウランの怯えた視線がアリアスから外れ、向こうを見て、すぐに戻る。


「アリアスさまは、全て失いたくないと言いますです」

「…………うん」

「ですが、それは容易に出来ることではありませんです」

「……うん」

「でも、もしも、」


 少年は、大きく息を吸う。


「もしも、です。あの場の何もかもを、ここに、『こちらの世界』に留めるための方法があるとしたら、です」


 もしも、と前につけられていたにも関わらず、期待に勝手に心臓が反応する。


「あなたは、あなたの全てを犠牲にしても、何を置いてもそれをしたいと思いますですか…………?」


 期待していた言葉と、思いもかけない言葉が合わさった言に、アリアスは瞠目する。

 もしも。

 自分の何かを、何もかもを差し出せばあの場全てを失わないとしたら。





 ――今日に限らず、酷い出来事が周りや目の前に起きたとき。最後の最後は決まってアリアスに手は届かない。幼い頃を経て、魔法を学び、さらに学園で学んでもどうにもならないときはどうにもならないのだ。

 地下の結界のときも、ルーウェンがいなくなってしまうかもしれないのに為す術は無かった。

 喉から手が出るほど欲しい方法が、ある。


 けれど、代償がいるとも言う。


「全てって、その方法をすれば私は……死んでしまうとか、そういうこと?」

「……分かりませんです。力は十分かと思いますですから、力不足で死に至ることはないです。ただ、おこなった後どうなるか分かりません」


 分からない。一か八か。

 果たして、その方法を師が望むか。サイラスが望むか。ルーウェンはどう思うか、ゼロはどう思うか。頭に色々なことが駆け巡った。

 。仮にアリアスが死ぬことになるのなら、自己犠牲というアリアスの自己満足になる。


 迷っている暇、じっくり思考している時間はなかった。師が行ってしまってからでは遅い。

 アリアスは、考えた。

 そして、決めた。


「教えて、セウラン」


 全てを失いたくないという傲慢を叶える、もしもがあるというのなら。


「……します、です?」

「うん。でもね、セウラン。死なないから大丈夫。そして、命があるなら大丈夫。成功」


 大丈夫だと、死なない覚悟があると言えるのは、ここぞというときの周りの姿勢がそうだったからだと思う。

 ではアリアスも今、やれると、大丈夫だと覚悟があるだけの根拠のない自信が湧くのは不思議なこと。

 さっきまでの追い込まれた心境が嘘みたいに、心は落ち着き静かになっていた。アリアスが落ち着いた声で言うと、セウランが一瞬気を取られた表情に。


「では、ぼくは、お教えしますです」


 ぽろぽろと涙を流す。


「どうして泣くの?」

「ぼくには、これが正しいかどうか、分からないからです」


 分からないと、またも言う。この少年は、とても迷っている。アリアスより余程迷い、苦しそうだ。

 懸命に顔を上げて、アリアスに答えようとする。


「このままの状態でそれを望むのであれば、ヴィーグレオさまも止めていただかなくてはなりませんです」

「ゼロ様も……?」

「あの魔族は自力で戻ってもらうように言いましたですが、ヴィーグレオさまを止めるには、あなたの力が必要です。

 今のヴィーグレオさまがそこまでかどうかは分かりませんが、魔族の戦った竜は魔族がいなくなった後も荒ぶる力を周囲に及ぼしましたです。それを止めるために、竜は癒しましたです。あの魔族を、純然たる魔族ではなくした力と同じなのです」


 師を指していると捉えても良いのだろうか。聞いている時間はないから、アリアスは改めて尋ねる。


「私が、このままの状態でゼロ様を止めて、師匠とサイラス様を留めるにはどうすればいい?」

「願ってくださいです」

「……願う……?」


 予想していたものとは異なったことで、繰り返す。

 願うとは。

 セウランは真剣な顔で頷く。


「願いを魔法に、形とするのです。それが、魔法の原形です」


 魔法を教えてもらっていた当初、想像してみるようにと言われた覚えがある。想像することが魔法力を外に出し、魔法を意図する形で使う助けになるから、と。


「強い願いこそが唯一の魔法を生み出すのです。強ければ強いほど、魔法も強くなりますです。ぼくたちが魔族にはない翼を得て、人が力の差を補う、竜にはない独自の結界魔法を得たように」

「でも、それだけで……」

「出来ますです。あなたがあそこへ行こうと思えば、行けますです。止めたいと願えば、可能なのです。、強く願えば」


 橙の瞳と一緒に断言されて、アリアスは戸惑いも僅かにこの竜を信じてみようと思った。

 虚言であれば、そんなにも苦労して言うことではないとは、様子を見ていて信じるに足ると確信は十分。


 魔法は万能ではない。やりたいこと、成したいこと全てを実現する力ではなく、救えないものもある。今それが、セウランは可能だと明言する。


 見たのは、この世の終わりのような場所で戦っている人たち。結末が与えようとしている存在が歩み寄る。


 ――時間はない。他の方法もない。唯一示してくれた方法。やらなくてどうする。


 集中するために自然と下りた瞼で、全ては隠れる。

 目を閉じる直前、閉じた後。あるのは固めた覚悟、決心。誰も諦めたくない願い。

 それだけ。後悔はしたくないと、強く願い集中した耳には喧騒は失せ、最後に聞いたのは――――







 ――耳元で何かがひび割れる音











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