第15話 突きつけられた事実
あまりに突然のこと。何を見ているのか理解不可能で、現れた存在がただ目に映る。
服装は軍服ではない。今日ここで試合をしている騎士団の団員ではない。そうでなくとも、試合でこれだけの血を流す流血沙汰があれば医務室送りになっているはず。
露な部分の腕を流れ下に落ち続ける血。あれは、この人が流している血なのだろうか。それならばとてつもない量、歩けていることが不思議だ。
「魔族です……?」
「……え」
「あれは、魔族なのです」
「セウラン、何、言ってるの」
だって、あれは――サイラスだ。
どこか足元覚束ない足取りで歩む姿。認識するのに時間はかかったが、僅かにだけ覗いた顔はやつれていようと、血がべったりとついていようとサイラスに違いない。
王都に連れ戻されたが、どこにいるか等がアリアスには全く分かっていなかった姿。
今、目の前に現れた姿は果たしてどの彼だ。六年前より以前の姿か。弱々しくて、掴まえて置かなければならない姿か。あるいは――。
「魔族――?」
顔を上げた目は予想に反して綺麗なはしばみ色ではなかった。むしろ純粋なるはしばみ色を見つける方が難しい。滲む色は、肌を染める色と同じか。
その目が通路にいるアリアスの姿に焦点を定め、指先まで血濡れた手を伸ばす。
「駄目なのです!」
赤に囚われていたアリアスの視界を遮ったのは、白。後ろにいたセウランが両腕を広げアリアスとサイラスの間に入った。
直後、小柄な姿が浮く。
「――うぅ」
「セウラン!」
首に手をかけられ持ち上げられたことで、地につかない足が揺れる。小さな手が首に巻きつく手を引き剥がそうとしているけれど、全く意味を成していない。
まずい。
サイラスから力を感じる。今でさえ悪い予感しかもたらさない光景だ。予感は当たる。
先の光景をどうやって止める。言葉では止まってくれそうにない。では、サイラスに攻撃するというのか。
既に動揺していた心がさらに動揺する。
けれどサイラスはそうしてはならないし、サイラス自身にそれが出来ないのならアリアスがあの竜の少年を守らなくてはならない。
動かなかった足が動いた。
「サイラス様、離してください!」
伸ばした手で直接サイラスの身体に触れる。
大丈夫、少しだけ。竜の少年を傷つけないように、サイラスが手を離してくれる程度に。最低限に。
苦しげに閉じかけていたセウランの目が訴えかける何かを読み取る余裕はなかった。
アリアスの手から白い魔法が生まれ、サイラスに衝撃を与える。身体がよろけ、少年の小さな身体が解放されて地面に落ちた。
「セウラン、大丈夫?」
「だ、駄目なのです。魔族に触らないでくださいです。それに強く魔法を使おうとしてはいけないのです」
「自分の心配して!」
何か言いたげだったと思ったら、何より先にそんなことを言うからアリアスは厳しい口調で言葉を返した。
「大丈夫? 何ともない?」
「だ、大丈夫なのです。ぼくたちの身体は人より頑丈です」
そう言われても先ほどの様子を見ていたら信用出来そうにない。
ひとまず咳き込みもせず怪我もなかったので一安心したアリアスは、前を確認する。
サイラスがそれほどの威力を受けるとは思えないのに、彼は壁に背を預け立っていた。
「近づいてはなりませんです」
「……セウラン」
一歩足を前に出そうとしたアリアスは、地面に座り込んだ少年に袖を掴まれていた。
セウランは必死な様子で首を何度も横に振る。
「――その小さいのの言う通りだ。そろそろ学べよ、アリアス」
声に顔を上げると、声の方向には身体を少し折り曲げたサイラスがいる。顔は見えないままに、彼は声を絞り出すように話す。
「ちょっとばかし、目が覚めた……」
「サイラス様」
「近づくなって言ってるだろ!」
怒鳴られ、アリアスの身体が畏縮する。
「その変な色した子どもについて言いたいことは山ほどあるが、とりあえずおまえら近づくな。――気持ち悪い感覚しかしない」
「……魔族だからなのです……」
立ち上がったセウランが怯えた様子でアリアスに身を寄せながら小さく呟いた。
「余計に傷つけたくなる……。対抗する力が無いのに、近づくな」
どうすればいいのか全く分からなくなったアリアスの前で、サイラスから血飛沫が飛んだ。話している間にも、その場に留まった彼の足元に広がっていた血溜まりに新たに血が加わる。
前触れもなく、腕を抉りはじめた。その動作を見て、濡れた腕に酷い傷があることに気がついた。血を覆い隠すように色が広がっていたことで分からなかった。
「何、自分に何をしているんですか」
「傷をつけたい衝動を、抑えている。だが、これには限りが、あるらしい。自分で、死ぬことを許してくれない。それより先に、矛先は……外に向く」
一度、同じような姿を見たことがある。
思い出したくない出来事の記憶がついてくる日。時刻は夜に近づく頃合いだった。暗い中、人影を見つけて近づくとそれはサイラスで――自分で腕を傷つけていた。記憶の奥底に沈んでいた記憶が、日常で重なることがあり得ない行動を前に甦らされた。
前回は、行動の意味を理解する間も考える間もなかった。
あのときと同じで、あの血は彼自身のものだというのか。
このときになって初めて、呆然とするアリアスは通路に満ちる血生臭さを嗅覚が認識した。
――目の前にある光景を、頭が拒否をする
姿、色、音、臭い。全部。
ここはどこだと。そう、つい十数分前まではこんなこと……。
どうしてサイラスはあのようなことになっている。今までにも衝撃的なサイラスを見てしまったが、ここまでではないと思うのは現在目の前にある影響だろうか。
近づくなと言われて、それを無視して近づいたとしてもどうすればいいのか、分からない。
サイラスの様子は、再び会った今未だ不可解なまま。一体、彼に何が起きている。
「アリアスさま」
「セウラン、私、」
頭が拒否しているからか、映したものを上手く捉えられない目をぎこちなくセウランに向ける。
セウランは心底心配そうな目をしていて、これではいけないという考えはどこかで生まれても、陥っている状態では無駄に終わる。
それに追い討ちをかけたのは、苦しげなサイラスだった。
「とっとと、離れろ馬鹿が。早く、オレを殺せそうな奴連れてこい」
「殺――どうして、そんなこと――」
「じゃないと、今度こそ見境なく殺すことになる」
アリアスは、息を飲んだ。
「……オレに、殺させないでくれ……」
覗いたのは、顔を歪ませた弱いサイラス。彼の声と目に身を引き裂くような悲痛な叫びを見てとった。
「は、離れますです。ここにいてはいけないのです」
どこにそんな力が隠れているのかと思う強い力でセウランに引っ張られた。手を握って引く少年によって、アリアスは強制的に歩まざるを得ない。
「サイラス様を……」
とにかくあの状態をどうにかしなければならない。
どうにか。捕まえてもらうのか。
――「早く、オレを殺せそうな奴連れてこい」
違う。そんなことのために人を連れて来ない。サイラスの言葉を思い出し、アリアスは唇を噛んだ。
サイラスを止めてもらうのだ。
幸いここには騎士団の実力者が集まっている。間違っても
「サイラスを止められる人を、呼ぼう」
「ですが、魔族は人の手では止められませんです。可能性としては、ゼロさまに……でもヴィーグレオさまは駄目なのです……でも、このままでは……。どうすれば良いのか分からないのです」
アリアスの手を懸命に引くセウランは泣きそうな声で言った。
――魔族
セウランが、サイラスを示して魔族と言う。
そして、サイラスの目。
「魔族って、何、何で……」
困惑。まだ受け止められていない声を溢したアリアスにゆっくりと落ち着くような時間は与えられない。
またあの嫌な感覚に襲われ、アリアスが背後を見ると、通路に立った姿。はっきりと頭を上げた目は変化を遂げていた。離れているのに分かる、宿される感情は刺々しく獰猛。感じるのは危険。
「まずいのです」
鋭い魔法の力が生まれ、攻撃的な魔法はアリアスたちに向かう。逃げ道はない。少し先の曲がり角まで行っている内に背後を撃たれる。
即座に身を守らなければと結界魔法を使おうとするけれど、一瞬の間に間に合う未来は見えず、結界を張っても防ぎきれるとは思えなかった。だからやったことは、サイラスの手に代わりに捕まえられたときと同じで前に出ようとするセウランをそのまま背後に押しやること。
そして目を瞑った――横を、風が通りすぎた。
視界を瞼で覆ったアリアスが聞いたのは、通路に反響した魔法がぶつかり合った独特の音。
「アリアス、下がれ」
アリアスの目の前には、広い背中があった。――ゼロだ。
瞬時に分かったその人の姿に、アリアスはなぜだか泣きたくなるような強い安堵が胸に広がった。
「気のせいで済ませてる場合じゃなかった。嫌な感じがするわけだ、まさか脱獄されてるとはな」
アリアスとセウランに襲いかかろうとしていた攻撃魔法を相殺したゼロは、油断なく前を見据えている。
「――ゼロ様、サイラス様の、目が、」
「アリアス、落ち着け」
魔法が当たったと思われるサイラスがゆらりとゆったりと体勢を立て直す様を睨んでいた瞳が、アリアスを見る。灰の目は、油断はせずとも動じた様子は欠片もない。
そこから分かる、一つの事実。
サイラスの瞳が赤に侵食されていることに、動じていない。
「魔族って……」
以前、アリアスは自分の目で見た変化により師にサイラスには魔族が憑いているのかと聞いた。師の答えは否定だった。
けれど次に会ったときも不可解さは取れなくて、その正体は。
竜の少年が魔族だと断言した。サイラスの瞳が、今度こそ赤みを帯びていた。
ゼロは目を逸らすようにして前に向き直った。
「あれは――魔族の魂を持った人間だ。とうとう飲み込まれちまいやがった」
ゼロの肯定は、アリアスにとってはとても重かった。
決してセウランの発言を疑っていたわけではない。だが実際に見ているのに受け止め切れていなかった。
今、その事実が確定する。眼前に突きつけられる。
魔族の魂。そういうことだったのか。腑に落ちる点さえある一方、完全に言葉を失った。
「アリアス」
案じる声に、アリアスは僅かに首を振る。
気にしないでほしい。いくつ目かの突然に見舞われて頭の処理が追いついていないだけだから。それ、だけだから。
気を抜いてはいけないことは、分かっていた。
「ヴィーグレオさま」
「……それで呼ぶな」
アリアスの後ろの少年が横に出てきて、ゼロに向かって聞き慣れない呼び方をした。
「す、すみませんです。それより少し遅かったですが、攻撃魔法は使わないでくださいです」
「あ?」
「下手をすればおそらくここ一帯が吹き飛びますです!」
吹き飛ぶ。
言われた凄まじいことがうっすらと耳に入る。
「このまま戦えば、魔族を殲滅するように魂に刻み込んだ本能に飲み込まれるのです」
「……自分のことながら、物騒すぎるな。でもな攻撃魔法使うなって言われてもあれを放置しろってのか? 冗談だろ。戦うな、もしくは魔法無しで戦えっていうにも、このままあっちが大人しくしてくれるならいいがしてくれねえだろうな」
前方で体をゆらりと揺らすサイラスの顔形をしたものは唇を吊り上げ、歪に笑う。血を流してのその姿は異様にして、恐怖。
不揃いな髪の間からこちらに向けられる目に見える色彩は――。
空気で感じさせられた。
彼は、脅威だった。
「不利すぎる」
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