第41話 彼の者の正体
タイミングを考えるに、薄々予測していた通りに境目の影響だったのだろうと思う。子どもの竜は大人よりも繊細で弱く、巣ではなく境目のあった地下のある城の近くで生活しているのだ。
実際には境目のことを知っていたと考えられる立場のエリーゼは何も言わず、原因不明のまま、子どもの竜の問題も収束に至った。
残ったのは、今回の異変の様子が事細かに記された記録のみ。
ゴリバリと肉を骨ごと咀嚼する食欲旺盛な様子が戻った子どもの竜からも、具合悪かった様子は完全に消えた。
「おーおー食べる食べる」
「すっかり元気だ」
よく眠り、よく食べる姿が戻って来れば、心配していた全員が安堵を覚え、ようやく安心した空気が広がっていた。
心配のあまり連日徹夜で目を血走らせていた先輩魔法師は隅で眠りこけ、食事中の竜の様子を周りが見守る。とても平和な光景である。
*
最悪だ、とゼロは胸中で何度目か分からない言葉を吐き捨てた。
ゼロがいる場所はほの暗い場所、自然の光が入ってくることのない地下。等間隔に設置されている蝋燭に灯された火がその場を最低限なほどには照らしている。
境目がある城の地下ではなかった。城内からは入れない、外にある地下牢の壁に寄りかかり、ゼロは前を見ていた。
すぐ前の牢屋は
現在この牢に入っているのは一人だけ、一番奥に収監されている者だけである。
「ジオ様……待ってました」
長い階段を降りてきた気配に、ゼロは壁から背を離すと同時に言った。
闇から溶け出してきたかのようなジオを、ゼロは待っていた。ジオの後ろからは灯りを手にしたルーウェンが続いている。
「ルー、大丈夫かよ」
「歩いて来るだけだからな」
城の地下の境目を封じ直したルーウェンには、その日以来会ってはいなかった。復帰の知らせは聞いてはおらず、私室で安静にしていたはずであり、体調は回復したというのか。
という意味で尋ねたところ、そんな返答があったのでそういう意味じゃなくてだなと返そうと思っていたら、前を黒い影が通りすぎる。
「奥だな」
「――はい」
ゼロの前を通り過ぎたジオは案内されるまでもなく、対象のいる場所を把握しているように歩む。
続いてルーウェンが前へ来たので、まあいいかとこの場に置いての用件を済ませてもらう思考へ切り替える。
「一番奥です」
ゼロも進み始めた奥への方向。人を払っているため、三名以外には人は居らず。
足音が微かに立てられること少し、目的の牢の前へ着く。
他に収監されている者がいない中、唯一入れられている者の牢。牢の中、灯りが届かない奥の壁にもたれかかり顔が見えない男の名は――サイラス=アイゼン。
顔が窺えないのは、項垂れていることと髪が覆い隠してしまっていることが原因。鎖と枷に繋がれている姿は覇気と力なく、雰囲気からやつれている。
「これか」
ジオは立ち止まり正面から牢の中を見る。その紫の瞳は、おそらく暗さを物ともしていない。
中にいる男の姿をちらとも視線を動かさずに見ていたジオは、短く言葉を投げかける。
「どんな気分だ」
一歩離れた位置にいるゼロはジオからサイラスへ視線を移す。
果たして、この男は反応するだろうか。連れ戻し、逃亡前にあくまで疑いかけられていた罪を認めたきり、ろくに口を開いていない。今も、牢の前に複数人が現れたことに欠片も反応を示さなかった――
「……酷い気分だ」
口を閉ざしていた男が、口を開いた。
掠れた声が、うわ言のようにぽつりぽつり、ぼんやりと述べる。
「酷く、何かを傷つけたい衝動に駆られる」
擦れた鎖が音を鳴らす。
「目に見える全ての光景が馬鹿みたいに思えて、壊せと叫ぶオレがいる」
腕を動かそうとしているが、動かない。鎖がぶつかり合う音だけが作り出される。
「――今のうちにオレを殺してくれ」
またこれか、とゼロは顔をしかめる。
ろくに口を開いていない、とは稀に口を拓きはしているが、口を開いたときにろくなことを言っていないという意味だった。
このサイラスの反応を前に、ジオが「なるほどな」と呟いた。
「憑かれていれば直に見れば明確に気配があったはず、だがお前はただ『不可解』だった。……お前は人ではないな」
不可解という感覚は多少の差異はあれど、大方同じもののはず。ゼロも以前サイラスの逃亡前に感じ、連れ戻して探り当てるに至った事を、早くも掴んだようだった。
これが置かれた『身の上』の差か。
ゼロが横目でジオを窺っていると、不意にゆらりとその姿が黒を纏う。次いで目の紫に何か、他の色が混ざる。
地下に蔓延る暗さが増した気がして、ゼロはいきなり何を始めるのかと声を上げかける。
「壊したいか荒らしたいか戦いたいか殺したいか」
赤い瞳の男は、酷く無感情な声を発した。黒髪が、これほどまでに似合うと思ったことはない。
冷えた声に呼応し、気温まで下がったような錯覚を受ける。同時に不快な力が滲んでいるような。
不快さを感じた瞬間だった。
ゼロの内側で騒ぐ部分あり、どこか一部分が反応しているわけでもないのに、反射的に掴んだのは自身の腕。そうでもしないと、掴みかかりそうな衝動が自らの中に潜んでいた。
この衝動は。
「ゼロ?」
「……何でもねえよ」
だがこのまま続けばどうなるか、予想がつかない。
ゼロがルーウェンの問いかけの最中も睨むように見ているジオは、前を見ている。
声を向けた牢の中へ。
ガチャン、枷が鎖に留められた音。
牢の奥、収監されている男の、枷に捉えられた手が握り締められ、爪が肌を抉る。
血が、生まれる。
「壊したい荒らしたい戦いたい――――殺したい」
唸るがごとき声。
下にばかり向けられていた顔がもたげられ、長い髪の間から異様な光が覗く。否、異様な光を宿した鋭い目。
本来、はしばみ色をしているはずのその目は――うっすらと赤い。
唇が僅かに上向きに歪み、不気味な笑みを描く、かと思うと瞳が混じった色なんてなかったように、はしばみへ戻る。
「っ、く、そ……っ」
表情も苦悶へ豹変。苦悶の声を上げる。
「それがその証拠だ」
牢の中へ注目していれば、気がつけば牢の外の男の色彩も、邪気を感じさせない紫に戻っていた。
ゼロの中の衝動も、同じく収まっていた。
「これは純粋なる人間ではない。だが魔族でもない」
「それはつまり、こいつは」
「魔族の性が人間に収められていると考えると、よく抑えている。素晴らしいと言うべきくらいだ。本来の魔族と比べるに、これは戦で戦い賊しか殺していないだけましな方だろう。まだ人間の理性が残っているな」
直接的には肯定が返ってこなかったが、認められたも同然だった。
実はゼロがサイラスの目の色の片鱗を目にするのは初めてではない。すでに疑惑はそうだったのかと、今まで考えてなかった可能性が急激に浮上してきたことにより、確信近くにまで変わっていた。だから他の団員におちおち任せるわけにもいなかった。
頻繁にその色が表れているということもないようなので、何も知らない者が見てもろうそくの火のせいかと、細かいことは気にしないかもしれないが。
「空間を違えているっていうのに、こんなことがあり得るんですか」
「境目という空間への繋ぎ目があり、開いていたときもあると考えると可能性はある。そもそもこうして目の前にいる以上疑いようもない。これで全てが納得出来る」
竜と人ほど近く存在していなくとも、完全に隔てられているわけではないからあり得る。確かに、そうだ。
「この変化はどう思いますか。この様子ではこの男は元から
「お前の時はどうだった」
「俺にはきっかけというきっかけはありませんでした。急激な変化という経験もなく自然にという感じで、左目は元からこれでしたし」
「魂は当然生まれつきものだからな……そうだな。性質を思うと、生まれたときは人間として普通だったが、お前の事情と比べるとこの地の魔法は魔族に合わんからな、その影響で呼び起こされたのやもしれんな」
言い、ジオは一度ゼロに向けていた視線を再度牢の中へ。
「不憫なものだな。どちらにも染まりきっていないからこそ間の存在であり、揺らぐ。どちらかに転ぶことができればいっそ楽かもしれんが、出来ない。さらに本来この地に適合しない性質ゆえのこの有り様だろう」
自分でも自分の変化を理解しきれていないようだったサイラス。いつの間にか鎖の音も止み、彼は何物にも疲れたように頭を垂れていた。
その様子を本音で哀れんでいると受けとれそうな、ジオの言葉と視線。
「いっそ殺してやった方がいいのかもしれん」
「――師匠」
「無論、これの処分を決めるのは俺の独断というわけには出来んが、このまま収まる確率はこの地ではより低いだろう」
ジオは一度言い放ったことは別段引き下げず続け、「哀れだな」ともう一度言う。
「この状況を改善させる手だてはありませんか」
「ないな。魂の性質の問題、言ってしまえばそれが本来の性質になるわけだからな、目覚めてしまった以上は自分で付き合う他ない」
改善の道はないと来た。
それではこの男をどうすべきかとゼロは考えらはじめる。とりあえず正体はお墨付きなのでその報告をすべきだろう。
それから念のため魔法封じをより強力なものにする。今以上に強力なものはあったか……?
「出来ることといえば」
ジオが振り向いた。
「ルー、ゼロ、俺もだがお前たちが近づけばこれの魂を騒がせるだけだ。近づくな」
それのみを言い残し、正体は魔族の男は一番奥の牢の前から去っていく。
――サイラス=アイゼン、彼は魔族の魂を持つ人間
それがジオが見出だした結論。
サイラスの虚ろな瞳は、今は、はしばみ色。
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