第26話 分からない、分からない




 力の緩んだ腕が下がったことで、手にしていたものが地面にぶつかった音。カランという音で意識を引き戻された。

 どこかに座り込んでいる状態で自覚した視界は暗い。ついさっきの暗さと比べると、完全に自然の光が消滅した暗さ。

 見る限りで窓はなく、下に落ちた灯りだけがその場を照らす唯一の頼りで、天井に近づくほど灯りが届かず真っ暗。

 地下。周りを見渡さずとも、見える範囲だけでそんな言葉を思い浮かべる。


「く、そ……ここどこだ……」


 呻き混じりの声がした傍らを見ると、サイラスがいた。アリアスが掴むことに成功していた布から手を離すと、布はズルリと肩からもずれ落ち地に溜まる。

 灯りの照らす範囲にいる彼は顔を上げ、――アリアスを見つけた。


「……アリアス」


 顔を合わせ目に捉えられたそのときから、急に治ったはずの傷があった腹が痛む気がした。それはつまりを意識してしまっているということ、身体が覚えているとはこういうことなのだ。

 サイラスの手で傷つけられたことを思い出した体が彼を実際に目の前にして動かなくなっている。

 色々聞きたいことがあったはずが、当の機会に恵まれているのにアリアスの頭は働いてくれなかった。咄嗟に掴んでついてきたのはアリアスの方なのに、こんな状況になってしまってから分からなくなる。

 襲い来る激痛、覚えた恐怖の記憶が押し寄せて、見たこともなかった様子のサイラスを思い出させてくるから。

 ――このサイラスは

 一つの考えが浮かび、サイラスを見続けるアリアスは動くことも出来ずに布から離した手をゆっくり引いて、握り合わせていた。


 アリアスを見つけたサイラスの方も動かず、声も出さず、表情も辛うじて読み取る分には虚を突かれたよう。

 それでもしばらくして、声を発したのはやはりサイラスの方だった。


「――おまえさ、空間移動の魔法の途中に入ると危険だって教わらなかったのか?」


 呆れたように聞こえる調子で言ったサイラスは、顔にかかる彼自身の前髪を軽く避けた。

 声音と喋り方、ようやく露になった表情さえもかつて慣れていたもののようで、ここにきてアリアスの心がまともにした反応は安堵だった。

 髪の奥から覗く目の色が、はしばみ色。そのことに一番安心したのかもしれない。


「……サイラス様……」


 そのまるで「いつものような」様子の一方で、名前を呟くだけが今の精一杯だった。

 明るくはない中で見るサイラスの感情は表情からも目からも読み取れない。

 安堵を感じたばかりのアリアスの心に生まれはじめたのは、困惑だろうか。

 これまでに漂ったことのない空気が生じた場を和らげるような言葉には返さなかったアリアスが、どことなく、近づくことは未だに出来ないままであることが分かったのかどうかは分からない。サイラスが苦笑に哀しみを滲ませたものを表情に表し、アリアスから目を逸らした。


 そこでカシャン、とどこかで聞いた気のする音がして、サイラスの視線が手に移った。下を見るその視線を追うと、落ちていたのは腕輪。何かが嵌まっていたと思われる位置には空洞があるばかりのそれ。

 複数個つけてあるのだろうか、腕にまだ腕輪らしき金属が灯りを鈍く跳ね返している。

 ただの装飾品である可能性はわずか足りとも出てこなかった。

 魔法封じだ――という推測は早かった。魔法封じを竜の炎が溶かしてしまったのだと、炎が鮮明に辺りを照らしていた光景が甦る。しかし、外れてしまったものがきっとその役目を果たすことが出来ていないのは明らかだ。彼は魔法を使ったのだから。


 アリアスはどうするべきなのだろう。

 その腕を捕まえてどこにも行かないようにしておくべきなのだろうか。そうでもしなければサイラスが姿を消してしまう気がしてならず、――けれど迷う。


「ここは、地下か。なんでこんなところに……あっちに何かある、のか……」


 どうするべきなのか分からないアリアスが辛うじて出てきた考えを堂々巡りさせている間に、サイラスがふらりと立ち上がった。


「……あ……」


 駄目だ、と空間移動の魔法を使うつもりだと分かったときのような感覚に襲われた。

 通路の奥へとふらふらと覚束ない足取りで行くサイラスとの距離が開いて、アリアスの動かなかった身体が衝動的に動いた。

 立ち上がって歩みより手が逸り伸びて、彼の手を掴まえた。だが、


「――!」


 触れた瞬間、手を払われた。

 驚いたアリアスは再度動きが固まってしまう。乾いた音を立てて払われた手には痛みまでとはいかないものの、払われた感覚が残っていた。

 この拒絶は記憶にある限りで二度目。

 拒絶したのは当然、サイラスだ。


 拒絶された事実を突きつけられて、アリアスの無意識が怯える。怖い、のではなく、強いて言えば、再びすぐに手を伸ばしても拒絶されることを想像させられて、それを恐れたのだろう。

 けれども固まった身体でぎこちなく目だけを動かしてサイラスの方を窺い、また驚く。


「触るな。頼む」


 サイラスの表情が歪んでいた。

 それは苦しそうだとしか思えない表情で、手を払ったのはサイラスの方なのにとても辛そうに見えるものだった。

 それに――「触るな、頼む」とは。

 軽く頼み事をするような声音ではなく、重く、心の底からそれを要求しているようだ。どうしてそんなに苦しそうで、後退る彼は、触れることを怖がってさえいるようなのか。


 様子に、『怯え』に近いそれを探り当てた途端に、怖じ気づきそうになっていたアリアスの心は恐れることを止めた。

 獰猛で荒々しい、記憶の隅にありながらも信じられなかった彼ではなく、目の前にいるのは日陰で力なく寝転んでいたときのように、放ってはおけない弱々しい部分の彼。

 こうして見てみると、前からあった目の下のくまはこれ以上悪化しようがあるのかというほどに濃く、酷くなっている。


 後退りに次いで踵を返したサイラスの手を、アリアスは、掴まえ直した。


「触るなって――」

「……嫌です」

「アリアス」

「掴まえておかないと、サイラス様、どこかに行ってしまうつもりでしょう」


 だから掴んでおかなければ。

 掴む手に離さないとの意思も込めて力を込めて、サイラスを真っ直ぐ見上げる。サイラスは目こそ逸らさなかったけれど、もっと顔を歪める。


「あ……、待ってください!」

「……来るなって」


 サイラスは歩きはじめてしまった。

 止まる気のない男性を止めらる力はない。アリアスは手を離さないため、小走りでついていく形になる。どこへ行くつもりか。出口か。

 とにかく一人で魔法で飛んでしまわないようにもしものことを考えて掴んでおこうと決めると、一緒に歩かざるを得なくなる。


「……また、王都を出るつもりなんですか……」

「他に選択肢がない」

「逃げなければならないことを、したからですか」


 色々と聞いた、まだ確定していないことも混ざったこと。彼がしたということ。

 それゆえかという意味で問うと、


「違う」


 サイラスは否定した。


「それも関係はある、が、もしもオレが罪を犯しただけならオレは逃げない」

「じゃあ、どうして」

「オレは、」


 他に何の理由があって、逃げようとするのか。


「オレはここでは生きていけない」

「……生きていけない……?」


 サイラスの口から出された理由に理解はついていかなかった。


「生きていけないってどういうことですか」

「居心地が悪い」

「……? それは我慢の問題とかそういう……」

「そういう意味じゃない。単に、……ここにはいられない」


 ますます分からない。しかしそれを気にするよりも、サイラスの様子が気になる。視線がずれる。


「ここは、特に、居心地が悪くて仕方ない――『オレ』が揺さぶられて、崩れそうな感覚が出てくる」

「サイラス様?」

「だから、オレはここから逃げなくちゃならない。元々大人しく帰ってきたことが間違いだった。賊でも何でもない奴等を殺すのが嫌で、追跡が過剰になる前に戻ってきたが、無理だ」


 サイラスがずらしていた視線をアリアスに向けたことで、目が合う。


「アリアス、離せ。オレに構うな」


 そう言うわりにサイラスの方からは振りほどかない。飄々とした元の様子が見られない彼は、ずっとこんな調子で、アリアスが手を離せるはずもない。


「オレは、絶対におまえを傷つける」


 絶対に傷つける。その言葉に身体がびくりと跳ねて、さらに腹が痛むようだ。実際には傷はないと幾度も頭の中で確認したのに、それでも痛む錯覚が嫌に生々しい。


「それはどうして、ですか」


 聞きたいことが明確な形を持たずに絡まり合うばかりであった疑問の内、最初に形になった問いはこれだった。

 どうしてアリアスは傷つけられたのか。サイラスはどうしてアリアスに魔法を放ったのか。攻撃するための、単なる魔法力の塊だけの魔法を。

 一番知りたくて、理由があったとしても本人に尋ねることを一番恐れていたこと。

 流れで、恐る恐る固く尋ねてしまって、酷く緊張する。


「分からない。分からないから困っている……」


 身構えていたのに、返された答えは以上のこと。


「オレは、おまえを傷つけた」


 それは覚えている。と、呟くように、事実を確認するような噛み締めた言い方だった。


「俺がおまえを傷つけたいと思っていたわけじゃなかった。それは絶対に違う。だが、ああしたのは確かにオレの意思で、オレがしたことには間違い、ない……」


 本当に彼は惑っているようだから、アリアスの方はもっとわけが分からない。

 何もわけが分からず、状況が理解できなかったあの日、それでも抱えていた違和感が今こうしていて大きくなっていくばかりだとは感じていた。

 伸びっぱなしの髪、はしばみ色の目。それは変わらないのに、飄々とした快活な笑みがないどころか彼は何かを恐れて逃げようとしている。言っていることも、もうアリアスの問いに答える形を失ったもので、要領を得ない。

 サイラスから何事かを読み取ろうとしてそちらにばかり気をとられていると、手が、離れた。


「……あ」

「おまえは、なんで……どうして安らぐ、傷つけたくなる」


 追おうとした手は届かない。

 サイラスが遠ざかった。


「本当に、分からない。オレは、何なんだ……どこに行けば楽になれる――」

「サイラス様!」


 まずいと思ったけれど、予想に反して魔法は使われなかった。その代わりに遠ざかったサイラスはもっと遠ざかっていく。前に向き直って、どこかへ進んでいっている。

 不意を突かれて呆気にとられていた反面、我に返ったアリアスは追いかけはじめる。


 靴音が反響し、持った灯りがガチャガチャと揺れ音を立てる。騒々しい音に気を使っている余裕はないから、ひたすらに懸命に追いかける。一体どこに向かっているのか。目的がないにしては、前方を行くサイラスの足取りが淀む気配がない。


 それにしても迷路のように伸びる通路に、ここは例の地下かと余裕がないなりに思考の隅で思い当たる。ここ最近来ることになってしまった地下……地下の一階部分か二階部分かは不明だが……。

 どのみちこんなところでサイラスから離れては完全に一人になれば、途方に暮れて一歩も動けなくなるに違いない。そういう意味でも必死でついていくしかない。

 しかしながら容赦なく引き離されていくから、サイラスから手を離して彼がどこかに行ってしまったらどうしようという焦燥とこんなところに一人になる不安が増えていく。

 そのとき、灯りを出来る限り前に出して目を凝らして、それで辛うじて捉えられている姿が消えた。空間移動の魔法ではない。魔法の光はなかったから、角を曲がったのだ。

 まずい。見失うかもしれない。


「サイラス様、……待って、ください……!」


 意味がないとは知りながらも、頼まずにはいられずにアリアスも角を曲がる。

 自分の足音ではない足音は、たぶん聞こえている。けれど自らも動いている中で他の足音を聞いて距離を図るなどという能力は持ち合わせてない。


「……え」


 どうかまだいてくれるようにと思い曲がった先で、アリアスは足を止めた。


「あれは」


 いつの間に、こんなところに。

 いつから光があったのだろう。サイラスに集中していたから気がつかなかった。


 青みを帯びた白い光が満ちる通路にいた。


 サイラスも立ち止まっている上に、姿がはっきりと見えていた。

 彼よりもっと前方にあるものによって、それが発している光がその場に明るさをもたらしているから。

 あれは――境目だ。清らかな光を発する氷の柱を思わせるものの中にあるのは空間の亀裂。封じている結界魔法の独特な色の光。

 地下の地下。

 それもここに来るなんて、と目を奪われていたアリアスはとにかくサイラスが止まってくれたので慌てて近寄る。


「サイラスさ」

「……あれに、引き寄せられたのか……あの中は……」


 いち早く服でも掴んでおこうと伸ばした手が服に届く前のこと。見上げたサイラスのを目にして、動きが鈍った。

 見入られているようでいて、それだけではない気配を醸し出す目つきになぜかぞっとした。


「……サイラス様、あの、離れましょう」


 ここにいてはいけない。

 サイラスの様子に直感したことと、あの境目の封じは今かけ直す方法が探されていることもあって、ここはいてはいけない場所だと思った。

 とりあえず彼とここから離れなければ、となんとか声をかけることができた。

 さっきまで彼にちらついていた弱々しさと戸惑いが消えていると感じて、そっと遠慮気味に袖を引く。


 その袖を引く動きも止まらざるを得なくなった。


 見下ろされて、勝手に身体が竦む。

 睨まれるほどの鋭さはなかったけれど、異変を感じた目がまともに向けられてその『異変』を目に見える形で気がついた。


 ――影が落ちたことで暗さを帯びて印象が変わっていたはしばみ色に、何か、異なる色が滲み出している。

 その正体を見極めようとして、アリアスは目を凝らす。

 何が。

 針の先で刺しただけのような僅かな点が、奥からじわりじわりと染み出すようにはしばみ色を侵食しようとしている源は。


「っ」


 首に指先が触れた。

 手を伸ばされていることを察していなかったアリアスはそれだけのことのはずが、もっと身体が強ばる。

 目だけに集中していた注目をサイラスの顔全体に広げると、彼は追いかけはじめる前とは雰囲気をガラリと変えていた。

 身を引きたくなるような無の表情。目に宿される感情から哀しみ苦しみが虚ろに、鋭く、獰猛で危険を覚えるような――首に触れる手に力が入ったことを感じた。


「邪魔だ。何もかもが、煩わしい」


 ――一体、何がサイラスをここまで変えているのか。

 抵抗するとは思いつかなかったのは、このような状況に陥っているのにも関わらず信じられなくて、思考が嘘みたいに動きを止めていたのだ。

 首に指が食い込んでいく。しかし、身体は縫いつけられたように動かなかった。自分の身に危険が迫っていることを頭は認識していなかった。

 このままではいけないと思うのに。

 瞠目して見ているサイラスは知らない顔、知らない目。彼は、




「ふざけてんじゃねえぞ!」


 白い魔法の光が瞬いた。






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