第20話 こちらとあちら
冬の青空は、夏の空とはまた風情が違う。
冷たい空気を吸い込んで薄く白い息を吐き見上げた今日の空は、おおむね快晴だった。ただしおおむね。固まった雲がちらほらと散らばりときおり太陽を隠し、青空に暗さを帯びさせる。
「ルーウェン団長? 最近は来てないみたいだけど」
青の騎士団所属の学園時代に関わりがあった同期と偶然にすれ違った機会に尋ねると、以上の返答があった。
「まあ団長だから忙しいんだろうなぁ、ゼロ団長も何か任務で今いないみたいだし。そういえばアリアス病気だったらしいな? その様子だと大丈夫っぽくて安心したわ」
「うんもう大丈夫、ありがとう。それとごめん、引き留めて」
「いいやー。病気再発しないようにな!」
奇病の情報を耳にしていたらしい同期にお礼を言い、引き留めたことを謝って騎士団に戻っていく姿を見送る。
「イレーナもごめん」
「わたしは別にいいわ」
元々一緒に歩いていたイレーナに、通りすぎがてら呼び止めての一連の事を待っていてくれたことを詫びると、あっさりとそう言われた。
「それより早く戻りましょう。冷えて今度は風邪でも引いても知らないわよ?」
他の人と同じく、アリアスが奇病にてしばらく休むと聞かされていたイレーナが奇病が治ったばかりで今度は風邪を引いてしまうと言うので、アリアスは「それは避けたいね」と笑って言った。
医務室の建物に戻る道すがら、アリアスは同期の返答を思い出して考える。
ルーウェンもゼロもいない。
ゼロはサイラスを追っているためだ。
ルーウェンはここ数日、アリアスが復帰してからどこでも見かけず不思議に思った結果尋ねて明らかになったことが、そもそも来ていない。
おそらく期間としてはアリアスが仕事に戻ったと同時、地下通路に行った日の後から。やはり地下通路にあったものの関係でかかりきりなのだろうか。
*
やはり事の行方が気にかかって、アリアスは仕事が終わった夕方頃に城の師の部屋に向かった。
最高位の魔法師の部屋がある筋から少し離れたところにあるジオの部屋に向かう過程、本来なら静かな通路に忙しなさが混じっていたが、ジオの部屋の前の通路になるとこちらは静かだった。
誰一人として行き交わない通路を進み、扉をノックすると中から短い返事があって扉を開く。
「な、何これ」
入った途端に高く積まれた本に遭遇し、それが行く先にいくつもあることが見えてアリアスは驚いた。
一瞬またも本を読み散らかしたか、それもこの量、こんなに盛大にと考えが巡ったが違和感を覚えて、気がつく。
この部屋の床が本に埋め尽くされることは以前であればよくあったこと。でも、こうして高く本が積まれて読み散らかされていたことはない。
「師匠」
本の塔を崩さないように間を通り抜け、時間をかけてたどり着いた先はいつものソファー。高く積まれた本で見えなかった師の姿をようやく見つけた。
寝そべり、なぜか手袋をして本を手にしている。
「アリアスか」
「そうです。この本、一体どうしたんですか」
辺りの本をきょろきょろと見渡しつつも、本から目を離さない師に尋ねる。
よくよく見ると妙に古ぼけた本だ。装丁はシンプルながら上品な作り、随分昔に作られたのだろうと古さが加わってこれだけの量がなければ芸術品の一つとしてでも飾っていられたかもしれない。
「古い文献だ」
「古い文献って……」
「一般の書庫とは隔絶された書庫に保管されている、この国の歴史を一番古くから記した原本そのものだ」
「えっ」
これらはそんな貴重資料だったのか、触ることを躊躇っていたのは正解だった。
どうりで古そう。事実古いのだ。
「地下の境目の封じる方法をギルバートも知らなかった以上は一から探すしかなくてな」
「でも、結界魔法で封じられているんですよね?」
「単に結界魔法を使えばいいというものではない。……境目を封じることはそう楽に出来ることではないからな」
そんなものなのか。
分厚い本を流し読みしているジオはぱらぱらと頁を捲るというより流していっている。ちょうど最後の頁に到達したようで、何も成果が得られなかった本をソファーの背もたれの向こう側へぽいと投げ、魔法で浮かせて一つの塔の天辺に乗せた。
もっと慎重に扱わなくてもいいのか。
「貴重なものですよね、これ」
「そうらしいな」
「丁寧に扱ってください。……その前にこれってその書庫から持ち出していいんですか?」
「本来は許されんらしいが、俺はあんなところで読む気にはなれなかった」
ジオ曰く「古い文献」は、一番昔に遡ってどの程度昔のものかは図りきれないものの、別に書庫を設けられているということは長く保管するための管理方法がなされているはず。そうであれば持ち出しは厳禁なのでは……とアリアスが思った通り、普通は持ち出しは許可されないところを持ち出してきたと言う。
件の書庫がどんなところかさておき、これだけくつろいで読める場所はそうないだろう。その場に倣えばいいのに、我が儘に値する。
「本、傷みますよ」
「問題ない。ある程度溜まれば書庫に送る」
「魔法でですか」
「当たり前だろう」
何を当たり前のことを、とジオは異なる本を手にとりぱらぱらと流しはじめる。
「お前も読むか」
「いや、駄目ですよね」
「大したことは書かれていない」
「書かれている内容の前に、私が手に取っていいものではないと思うんです」
「……そういえばレルルカに必要最低限の者しか触らないようにしろとか言われた気がするな。ああ、それで手袋をつけることになったんだったか」
レルルカはそんな言い方はしていないと思う。
ジオが珍しくも手袋をしているのは、そういうわけだったのだ。
「だが資料の傷みがどうとかいう問題は分からんでもないが、量を考えると人手は裂くべきだ。ここにあるのは一部に過ぎんからな」
これで一部。
ジオの言葉に、周りを見ずにはいられない。部屋を埋め尽くそうかという大量の本、アリアスであれば読み終えるのに何年かかるのかと思う量なのに、一部。
なんて途方もない作業なのだろうか。
全ては、地下にある境目のため。
しばらくぱらぱらぱら、とジオがあり得ない早さで頁を捲る音だけがしていた。
「師匠」
「ん」
「聞いてもいいですか」
「勝手にしろ」
「『あちら』ってどういうところなんですか?」
尋ねると、頁が捲れる音が失せ、ジオが目をアリアスに向けた。紫の瞳はずっと本に向けられていたわけで、今日ここで初めて目が合う。
「あ、作業を中断させてしまうのならいいです」
手を止めて答えてもらうほどのことではない、と慌てる。一刻も早くすべきなのはそちらだ。
「いや、突拍子もない問いだったからな」
作業しながらでも話はできると。そういえばさっきまでもそうだったので、今さらだった。
「『あちら』――境目の向こうの魔族がいる場所のことか」
「はい」
遥か昔、人と竜と住む場所を違えた魔族。
場所どころか空間さえを隔てられ、その唯一の出入口たる境目は魔族がこちらにこられないように封じられ、今もこうして封じる術が探されている。
昔話として伝えられ学校で習う歴史の中には魔族の存在も境目の存在もない。昔竜と人とが追い払った『邪悪なもの』が魔族だと考えられるのみ。
しかし、実は目の前の師もその魔族であるという。知ったのは二年ほど前。はじめは奇異、慣れれば強大な魔法力を持つ師だけの色だと思っていた漆黒の髪は魔族である証であった。決して老いぬ身体も、人と比べ物にならない力も。
つまりジオは元は『あちら』にいたことになるのだ。
「どういうところと聞かれると………………」
沈黙が、長い。
「まさか、忘れたんですか」
「お前は俺を何だと思っている」
「いえ、時々少し前のことも忘れていることもあるのでそうなのかなと」
「……さすがに覚えている」
心外だと言わんばかりだ。
もう少し待てば良かったかなとアリアスはちょっと反省する。
「『こちら』とあまりに正反対だからな」
「正反対、ですか?」
この世界の正反対とは如何様なものなのだろうか。
「魔族の魔法は地を荒れさせる。その魔法が人間と竜の土地まで侵食しようとしたことが追い出された理由にもなるからな。――そんな魔法しか持たない魔族だけがいつまでも争うために魔法を使い続けている土地がどうなるか想像は難しくないだろう」
容易そうに言われても、残念ながらアリアスには想像ができない。想像力が追いついてこない。
この世界、アリアスが見ている景色と正反対の景色。地を荒れさせる魔法が満ちた世界。
「植物という植物は絶え、光が射さず暗い場所だ。生き物も、魔族以外には存在しない。例えるとするならば北にある『荒れ果てた地』か、あれをもっと酷くすれば『あちら』になる」
「えぇ……」
あの地より酷いとは、ますます想像が難い。
植物が育たず何もない、戦地に相応しいとされる土地。光が射さないのは、あの地が夜になったようなものか。
そんなところで生きられるのか。
「……住み辛そうですね」
「大抵の魔族にとってはそうでもない。争うことが出来ればいいからな」
「師匠はそれに飽きたんでしたよね」
「そうだ。元々何もないからやることが限られているのにも関わらず俺は争いに飽きた。争いに飽きると『あちら』でやることが一つもなくなった。『こちら』に来る前はほとんど寝ていたな。こんなことを聞いて面白いか」
「面白くは、ないですけど、興味はあります」
「『あちら』にか」
紫の瞳がちらと向けられたのでアリアスは横に首を振って否定する。まさか。
「師匠のことです」
「俺か」
それ以外にない。魔族である師。境目の向こう、師がいた場所にして実質行き来できない場所。
謎だらけで、何も知らない師のこと。出会ったばかりのときは最高位の魔法師であることは知らなかったし、時が経ってもだらしがない普段の姿が見慣れていても、むしろその姿しか知らない。
魔族だという正体は、知らなかった師の情報をはじめてまともに知ったものだったのかもしれない。
だから言うと、ジオは少しばかり不思議そうにした。
「俺のことを知ってどうする」
「師匠のことについて知っていることが増えるだけだと思います」
「そうだろうな」
ジオは本に目を戻した。
再び勝手にしろという姿勢とアリアスは捉える。
「師匠はいつ『こちら』に来たんですか?」
「五十……いや、六十かそれくらい前だ。以外と俺は長くはいないぞ」
五十年か六十年かはっきりしないのはどうなのか、長いか短いかも微妙だ。
外見だけを見ると二十代なのでそこだけで考えると長い、となるかもしれない。だが、アリアスは師が魔族だと知る前は大きな力を持っているために外見年齢を重ねるのがゆっくりな実は年齢三桁の師、と思っていたのでその場合短いと感じるべきか。しかし本来『あちら』にいるはずの魔族であるのなら……。
「その頃って戦争があった頃ですか」
「よく知っているな」
歴史に擦り合わせるとどこからいたのだろうと思っていると、ぱっと思い浮かんだ事。
「よく」というほどではない。基本的な事項の一つだ。
二年前に起きた戦の前に起きた戦はなんと六十年ほど前だという。それより以前に戦が多く起こっていた頃の話なら未だしも、その戦は最後の戦――今は違うが――としてと、大いに苦戦したという史実で伝えられている。
結果としては一人の魔法師が強大な力をもって戦争を終わらせたと伝えられる。
「ん……?」
あれ? まさか……?
「アリアス」
「まさか、……え? 何ですか」
「そういえばお前は何のためにここに来た」
「何のために……」
何かとんでもない情報と繋げられた気がして頭が急に別のことを考えられない。
「それより師匠、」
コンコン。
それよりもしかして師匠は、と言いかけたときだった。
ノックの音が聞こえ、アリアスは口をつぐんだ。誰かがきた。
「ルーだな」
ジオの返事に部屋に誰かが入ってきた音がしたが、振り向いても立ちはだかる本でその姿は見えなかった。
それでもアリアスがここまで来たように本を上手く避けて近づいてくる気配がある。
「師匠、お話が……」
やがて現れたのはジオが言った通りにルーウェンで、彼はアリアスを見ると虚を突かれたような表情になり、声を途切らせた。表情は変わる前は非常に真剣な顔をしていた様子が一時だけ見えたような。
「アリアス」
ともあれ今のルーウェンはとても驚いていた。
些細な事で動じる性格ではない兄弟子がそんなに驚いているところを見てアリアスはそんなに驚かせてしまったかと思う。
「来ていたのか」
「はい」
ルーウェンは驚きの表情も瞬く間に収め、緩やかに微笑んだ。
「ルー、話は何だ」
「……いえ、急ぎではありませんから後で」
兄弟子は何か話をしに来たようで、最高位と騎士団団長、と他には回らない重要な情報がいち早く入ってくる立場の彼らである、アリアスは席を外した方がいいものなのかもしれない。
気になっていた境目のことは現在方法を探し中、姿を見なかったルーウェンとは偶然にも会えたから。
「じゃあ私、宿舎に戻りますね」
「もういいのか?」
「はい。境目のことが気になったこともあるんですけど……ルー様の姿を最近騎士団で見かけなかったので会えたらいいな、と思って来ただけなので」
首を傾げていたルーウェンに正直に言うと、
「そっか」
彼の緩い笑みが深まり、どこか嬉しそうに頭を撫でられた。
頭を撫でられることは相変わらず子どもに対されるようだと感じる。けれどそうされることは嫌いではないのでされるがままになって兄弟子を見上げていると、何か違和感の欠片のようなものが感覚に過った。
見ているのはルーウェンの笑顔、さっきとても驚いていた表情ではない。
それなのに、今度はアリアスの方が内心首を傾げることになる。何だろう。
「ルーが今騎士団の方に顔を出せていないのは単に地下の件に関わっているだけのことだ」
「そうなんですね」
笑顔で頭を撫でるルーウェンの代わりに本に目を通し続けているジオが、ルーウェンの姿が騎士団にない理由を明かした。
思っていた通りだったようで、早く解決すればいいなと思う。
「ルー様も古い文献を読んでいるんですか?」
「そうなんだ」
「……大変ですね」
「確かに量は多いんだが、師匠がこの速さだからなー」
ジオのあれは速読以上の速さである。
「方法も、思ったより早く見つかるんじゃないかと思うな」
そうだといい。アリアスはジオの手で送られていく頁を眺める。
「アリアスは、久しぶりの仕事は大丈夫だったか?」
「はい、大丈夫でした」
初日に思いっきり尻餅をついたのは予想外のことだったけれど、なぜか急になついてくれた竜のことはその内ゆっくり話せればいいと思う。医務室でも同じく大いに心配され、アリアスが申し訳なくなってしまうほどだった。
それ以降は順調に仕事の感覚を取り戻していっている。
「そういえば……休んでいる理由が奇病にかかってたことになってました……」
「奇病?」
「はい。かなり珍しい厄介な病にかかっていたことに」
衝撃の大きかった理由を呟くと、ルーウェンがソファーに寝転ぶ師を見る。
「理由は、師匠が作ったものでしたか?」
「俺ではない。レルルカに任せた」
「レルルカ様が……作った理由なのか」
腑に落ちていなさそうなルーウェンもアリアスと同じところに引っかかりを覚えた様子。レルルカが作った理由には思えない。
「俺が具体的な日数を出さなかったからかもしれんな」
そういう考え方があるか。
「何にしろ、無理をしないようにな」
「はい」
「あと身体を冷やさないようにするんだぞ、寒いから。風邪を引かないようにな」
「はい。ルー様もですよ」
「俺も?」
「忙しいと思いますけど、無理はしないでください」
その言葉の終わり、アリアスはその場を後にする前に違和感の正体が分かった。
「あの、ルー様」
「うん?」
兄弟子の瞳の青空が、太陽が隠れたときの色味に見えてならなかった。おそらく、ずっと。彼が本の向こうから姿を現したときから生まれていた小さな違和感はこれだったのだ。
普段との小さな、わずかな違い。
「――いいえ、何でもありません」
ルーウェンの微笑みがいつも通りだから、アリアスは気のせいだと思いそう答えた。疲れているのかもしれないから、問題の内容が問題だから早急に解決策を探っているのだろうけど、本当に無理はしないで欲しい。
地下にあった境目の件に関わっているらしいルーウェンの姿は、それからまたしばらく竜の降り立つ建物や騎士団では見かけなかった。ただし大抵医務室や竜の育成の建物にいるアリアスが見かけないだけで短い時間なれども顔は出しているのだとは聞いた。
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