第22話 ごめんなさい
いつからか目に入っていたのは天井と思わしき何の模様もない景色だった。白くて、何の汚れもない、認識するのに時間がかかったそれ。
「ここ……」
目を開いていると自覚して一度二度瞬きをしてアリアスは声を出したが、思うように声は出ない。喉の奥に引っ込んで出そうにも苦労しそうな感じで、少し頑張れば出ると思うがそれだけなのにそんな気は起こらない。
でも、すぐに思考を占拠したことがあった。病、病を収めなければ。動かなければ。自分が横たわっている場合ではない。
そう思うのに、妙に怠い。
身体が。
「病は……?」
小さく自分でもあまり聞こえなかったはずの呟き。に答える声があった。
「もう収まった」
声の方にアリアスは動く気力が失せている身体を抱えて、目だけを動かした。この声は。
とっさに判別ができなかったのは、勘違いだと判断した部分があったからだ。
「…………ゼロ、さま……?」
それでもいたのは彼だった。
少しだけ視線をずらせば、横にいてアリアスの視界へ入ってきてくれた人。ゼロが上から覗き込んできていた。
なぜゼロがいるのだろう。
ここはどこだろう。
ここは南部の流行り病の広がる地域のはずで、アリアスは治療に部屋を行ったり来たりしていたはずだ。
けれど今横たわっているのは明らか。アリアスも病にかかってしまったのだろうか。それにしてはここのところずっといた場所ではないとすぐに分かる。目に染み付いた場所では、壁では、天井ではない。
それに、なぜゼロが。
疑問が返り、回る。
頭がぼんやりとして動かない。
熱い、と思う。怠いだけではなくて身体が熱い。
やはり病に。
――いや、待て。帰ってきたのだったろうか。
新たな考えが、濃密に張りついている記憶の端にそれらしき記憶が引っ掛かりそうになって思い出そうとする。
たが思い出すことと視界情報の理解より前に、その間中ぼんやりと見ていた顔が近づいてきたことが見えた。
ずっと近づき触れんばかりになったときに目が自然に閉じ、唇に触れる――口づけられた。頭はぼんやりして、身体は怠いのにも関わらずそれは意外にも明確で、感触が離れたあとも名残を感じたほどだった。
目を開くと、触れてはいないけれどさっきよりはよほど近いところに顔があった。
「うつ、りますよ」
「うつらねえよ」
どうしてこうも断言できるのだろうか。あの重い流行り病かもしれないのに。
……ああでも思い出した。ここは国の南部ではない。
病は収まり、王都に帰ってきたのだ。どれくらい前かは分からないけれど、帰って来てほっとしたことを覚えている。それからなんだか泣きたくもなって……。
急に具合が悪くなったのだ。
疲労だと言われた記憶が朧気にある。
情けないと思っていたら、すでに熱が出て取り繕うことが上手くいっていなかったらしく表情に出ていたのか、見慣れた制服を着た四十代くらいかの男性魔法師によくあることだと気にしないようにと言われた。
他にも帰ってきたばかりの治療団の中で調子を崩した人たちがいて、現地で気を張って急激に緩んでしまうのは仕方のないことだ、と溜まっていた疲労に気がつかずに一気に解放されたのだろうと。お疲れさま、ゆっくり休むようにと微笑んでその魔法師は言った。
間違っても重い流行り病ではないよと言われたのは、アリアスが不安を口にしたのだろうかそれとも他の誰かが聞いたためにつけ加えられたのかは、分からない。
それはそうだ。南部から戻ってくる際には厳重なチェックがあり、持ち帰っては事、少しでも流行り病の兆候が出ていたら帰還に待ったがかけられるのだったから。
目覚めてすぐにここが南部の治療施設だと思ったのは仕方ない、ここのところの記憶はそればかり。起きなければと思ったのもそれゆえで、ずっと身体を動かし続けて、休息もゆっくりしている時間はなく「やらなければならない」と言い聞かせていたことだったから、まだ抜けていないらしい。
しかしもう違う。
――だから、ゼロがいるのだ
ととっさに思った場所と擦り合わせることのできなかった存在の疑問に戻り、ようやく飲み込める。
アリアスが横になっているベッドの側に椅子に腰かけているのであろうゼロは、手を伸ばしてアリアスの髪を頭を撫でている。
優しく、そっと、灰色の目を離さずに。
「なあアリアス、俺は怒ってんだぜ」
怒っていると言っているにしては優しい声音だった。目も。
「黙って行ったろ」
「――ごめんな、さ」
「いい、良くねえけどまあ言われてたら止めてたからな」
身体中が熱い中、アリアスは眦が熱くなったことをぼんやり感じ元々はっきりしていなかった視界が滲む。
ごめんなさい。
黙って行かれることはアリアスは自分が嫌うことであるのに、そうしたことを謝りたかった。
治療団に加わり南部に行くことをゼロに言わずに、王都を出た。言わずに行くつもりはなかったとかいうのはこうなれば言い訳にしかならない。黙って出ていった、それが事実だ。
「……め……さい」
「悪い、責めるつもりはなかったんだ」
どうにか首を振る。
どうしてゼロが謝るのか。謝るべきはアリアスで、それなのになぜかさっきよりも上手く言葉を紡げない状態でろくに謝ることもできない。
「……泣かせるって俺何してんだ……」
ぼやけて仕方のない視界でゼロが見えなくなった。その中でも彼の手がアリアスの目元を拭う。
泣いているのか。それで目の前がはっきりしないだけじゃなくて、いやに息苦しいのか。それならば泣き止まなくてはと思うけれど、色々とままならない状態では自分で隠すことも意思だけで止めることもできないようだった。
自覚したことにより涙が生まれていることが分かり、それを感じているしかない。ふがいない。
「今言う俺はどうかしてると思うが……正直言って、何で黙って行ったんだって思った」
怒っている、とゼロは言った。黙って行ったことに対して。
そのことを言っているのだろうけど、やはりその声は「怒っている」というものではなく、
「会えない期間長すぎてどうにかなりそうだったし、それよりもアリアスがもしも流行り病にかかったこと考えるとそれこそどうにかなりそうだった」
優しいというより切ないものが混ざっているように思われた。
指がアリアスの目尻を撫でて、ゼロが同じ場所に口づけを落とした。反射的に目を閉じたアリアスが気配が少し離れて目を開けると、至近距離で見下ろすゼロの顔があった。
「帰ってきたって聞いてすげえ安心したのに、いざ会いに行こうと思ったら寝込んでるって聞いた俺の気持ち分かるかよ」
分かるような気がする。反対の立場だったらアリアスは心配がすぐに頭を出してくると思うから。
それにゼロの表情に、目に表れているから。
「心配した」
ずっとずっとアリアスから離されない目が言っている。
「……」
ごめんなさい、とアリアスはまた言いかけた。でも黙っているうちに声は完全に引っ込んでしまったみたいで、それより深刻なのは見えている光景がいよいよぼやけるを通り越して狭くなっているようだった。
その前にゼロに言わなければ、何を、何でもいい。とにかく――
「……残りは元気になってからだな」
ふっと目の前が急に閉ざされた。何かに覆われたのだ、と覆ったものの正体も分かりながら暗さにつられるようにしてアリアスの意識もそちらへ向かう。
「おかえり」
閉じてしまう前、耳に届いたその言葉で帰ってきたのだと実感がじわじわと湧いてきた。涙がいつの間にか止まっていたと知ったのはそのときに泣きそうになったから。
今度はちゃんと謝って、それから――
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