第11話 雨降る中
風邪の兆候が見られていた同僚はぱらぱらとしていただけだったけれど雨粒に降られたことが追い討ちをかけたか、見事に風邪を引いてしまった。
三日経つが今日も宿舎で休むことになっている。出た熱は下がったからそろそろ大丈夫だろうとは思う。
今日も雨が降っていた。小降りの雨がサアァと地面に降り注ぎ他に立てられる些細な音を吸いとり、通路の壁に設けられたガラス越しに窓の上部からぽたぽたと水滴が落ちる。
「降らないと思っていたのに、降らないどころか降り続くわね」
「そうだね」
「シーツ、室内干しよね。乾くのかしら」
「でもやみそうにないから溜めるのにも限界があるもんね……え」
「どうしたの?」
「……うん」
生返事になりながら足を止めたアリアスは雨が降る中に目を凝らす。
誰かが歩いているのが見えたのだ。
「……何してるのかしらね、雨が降っているのに」
同じものを見ただろうイレーナの声を背後に、アリアスはガラスに張り付きより注視していた。
結構な距離のある先を。離れていっている背中を。そして、素早く背後を振り返る。
「イレーナ私ちょっとだけ抜ける」
「珍しいわね、アリアスがそう言うの。いいけどどこか行くの?」
「外」
「外……ってアリアス、雨降ってるわよ!」
「うん」
目についただけでは終わらなかったのは、それが知っている人だと思ったから。予想通り、幼いときから会うのは決まって外でだった人がそこにいた。
*
傘を持っていくようにとの声が最後に飛んできたから、アリアスはそのまま飛び出しそうだったところ傘を掴んで出ていった。
ぱしゃぱしゃと水溜まりだけは避けるが薄く水の張った地面を走って走ってようやく追いつくというところで、声を張る。
「サイラス様」
一度目はまったく反応がなくて、もう一度。
「サイラス様!」
直後に追いついて服を捕まえる。服は、外に出てきたばかりではないことを表しずぶ濡れ。
「……アリアス?」
引っ張ってようやく止まったサイラスはアリアスの存在に気がついた様子で目を落としてきた。単に服を引っ張られたときに気がつき、声は耳に届いていなかった様子でもある。
髪ももちろん濡れていて同じく濡れた顔に張りつき……全身が濡れている。
「雨降ってますよ!」
「――おぉ、そうだな」
曇天を晴天に対するように見上げる様子は本気かと思うが、なぜか安心した感覚が心のどこかに起こった。ゼロと剣を交えていた最中で見たきりだったので、そのときを思い出して胸がざわりとして走りだしてきてしまったから。
一気に力が抜けたアリアスは傘をサイラスの上に差し出す。今さら遅いかもしれないが、これ以上濡れるのとでは違うだろう。
「何してるんですか……」
声に呆れが混じったのは許して欲しい、状況的に仕方がない。
新たな雨粒に打たれることはなくなったサイラスは水滴の伝う顔を拭おうとかせず、気にせず「んー」と首をかしげる。拭おうと思ってもすべて濡れているから無駄か。
「なんていうか、散歩?」
「こんな天気でですか」
「まぁ嘘だが」
「そうでしょうね。すぐ分かるような嘘つかないでください」
アリアスはため息をつきそうになってすんでのところで止めることに成功した。ポケットからハンカチを取り出して「せめて顔だけでも拭いてください」と差し出す。タオルを持って来れば良かったと後悔。そんなことを考える余地はなかった。
「いい、いい。どうせ変わらない」
「そうですけど……」
同意してしまった。顔を拭いても髪が濡れているのでそこからまた垂れてくるのは目に見えているのだ。
「散歩でなければ結局何をしていたんですか?」
「仕事の一環中だ」
「魔法具作りのですか?」
「そうそう」
「だからってこんな天気のときにしなくても……」
「旅してたときは普通に濡れっぱなしだったからな、雨が降っている降っていないを気にしなかった。どうせ風邪も引かない」
前も風邪を引いたことがないとか言っていたけれど、だからといってこんな時期に冷たい雨に濡れて引かない自信はどこから来るというのか。
「お城に戻りましょう」
だからアリアスはサイラスを屋内に戻すことにして、促すとサイラスは意外と素直に歩き始めた。
「窮屈なんだよなぁ」
「お部屋に籠るお仕事だからですか」
「それもある」
歩きはじめてしばらく、サイラスがぼやいた。
「オレは一所に留まるっていうのが性に合わないんだ」
やっぱり、王都を出たいのだろうか。この前言っていたことを思い出した。
この人は六年も帰って来なかった。今回も呼び戻されたということらしいし……なぜそんなにも自分から帰って来なかったのだろう。
「ここでは、駄目なんですか?」
「だってつまらないだろう?」
聞くと、サイラスは彼らしいことを言い笑った。
二人は中庭から城の通路に入った。
「屋根って偉大だなぁ」
「サイラス様、絶対着替えてくださいよ。髪もそのままにしないで拭いてください」
「おまえは成長したが年頃の女子っていうよりどこかの母親みたいだぞ」
「サイラス様にその辺りの信用ができないんです」
水滴が落ちる服に包まれた腕を上に、呑気に伸びなんかをしているサイラスを横目に、まったくと嘆息しアリアスは傘から雨粒を振り払う。
「風邪なんか引かないと言っている人こそ油断していて風邪引くんですから」
断言はできないが。サイラスのようにあれほど濡れていては可能性はある。
それとも今から自分が医務室にでも走ってタオルをとってくるべきかとまで考えを及ばせたときだった。
腕を掴まれた。サイラスのいると思っていた方ではなかったので意表をつかれて驚くも、サイラスだと思って見ると、
「ゼロ様」
違った。
眼帯が片目を覆いもう片方の灰色の目がアリアスを見て、立っていた。
なぜここにと瞬間的に思ったのは、ここのところゼロとは騎士団の諸々の訓練場近くで顔を合わせることが多いのでそのためである。
「またな、アリアス」
「え、あ」
それにしてもその顔は真顔で一体どうしたのか。と訊ねる前に後ろの方から、思い違いではなくやはりその方向にいたサイラスが言った。アリアスは直ぐに見たのだけれど、サイラスはすぐそこの曲がり角を曲がったか、もういなかった。
全身ずぶ濡れの彼がそちらに向かったと示す水の跡が石の通路に残されていた。
「アリアス」
「――はい」
この跡は部屋まで続くのだろうかなどと考えて水により色の濃くなっている部分を見ていたアリアスは顔を逸らした形となる方に返事した。
向くと未だにアリアスの腕を掴んだままのゼロが変わらずの表情。雰囲気も固めと知り少しと言わず緊張する。
「サイラス=アイゼンと何してた」
気を効かせたかどうかは彼の性格では不明なものの、去ったサイラス。彼が去るまでは一緒にいたアリアス。
何をしていた?
尋ねられたことは特に変わったことではなく、なぜ聞くのだろうとは思いながらアリアスはとりあえず答える。
「えぇと、サイラス様が雨の中傘もささず雨避けもせずに歩いてらっしゃったので、風邪を引かないうちに城に戻っていただこうと一緒に……」
言うとすればこんなことになった。一緒に来たのはサイラスが戻りそうになかったからなのだとか、他の微々たる要素は口から出すときにはまとまらず省いた。
それとは別に声が最後にいくにつれ萎んでいった。ゼロの声音がいつもと違う。表情と相まって厳しめになっている。
「知り合いか」
「はい。昔私がお城に来たときにはまだいらっしゃったので……」
怖くはないが、アリアスは困惑に近い感じになってわけが分からないまま答えゼロを窺う。
答えを受けたゼロの視線がアリアスの背後に動き、しばらく黙した。
「……それもそうだよな。ルーも知り合いって言ってたし城にいたんだ、アリアスも知り合いでもおかしくなかった」
灰色の目がアリアスを映す。
「急に悪い」
「いいえ、いいんですけど。何かありました?」
ゼロがアリアスの腕を離してその目元が和んだことで、アリアスは内心でほっと一息つく。
「――いいや。ただ、見た瞬間なんか焦った」
もう一度視線が背後に、おそらくサイラスが去った方へ。
「外で問題行動してるからってさすがに考えすぎてるか……」
「ゼロ様は、サイラス様をご存知なんですか?」
話しかけるとゼロがこちらを向いた。
「ああ、ちょっとはな」
「六年、あの方が何をされていたかご存知ですか?」
先日の切り合いを見ると遠慮なしと見方をすれば交流があってもおかしくはない、かもしれない。
「それ、ルーには聞いたのか?」
「聞きました」
「何て言った?」
「放浪魔法師をしていたと」
「まあ、言うならそのくらいか」
そのくらいとはどういう意味だ。とアリアスが続きを待っていると、
「機密なんだ、答えられなくて悪い」
「い、いえ、それならいいんです。少し気になっただけなので」
ゼロが謝ったので首を振る。
サイラスが思わせ振りな言い方をしていたので少し気になって聞いてみただけだから。
機密になるほどの役目をしていたのか。それでは曖昧にするのも頷ける。そういうことだったのだ。
「それよりサイラス=アイゼンと外から来たよな」
「はい」
「あの人外にいたのか?」
「部屋に籠るのが性に合わないそうで、この前もお庭にいらっしゃいましたよ」
「この前だけじゃなかったのかよ。だからって雨の中なあ……アリアス、濡れてねえか?」
「少しだけです」
「風邪引かねえようにしろよ」
二人で入る大きさの傘ではないのでアリアスも少し雨に濡れたのだ。それでも服は肩のあたりが湿っているかな、という程度。大丈夫だと笑って言えば、湿り気を帯びた茶の髪に触れら撫でられる。
それにしても。
「雨が、降り止みませんね」
この季節には珍しい雨が数日続いている。通路のすぐ外で別世界を作る雨、その地面に降り落ちる微かな音だけが屋根のあるこちらにまで届く。
その日から、アリアスはサイラスの姿を見かけなくなった。元々が偶然続きだったのか、彼がいそうな庭には雨が降り注いでいるから庭を目で探しても仕方がない。
渋々部屋に籠っているのだろうか。それならいいのだけれど、それともとうとうまた城から、王都から出ていってしまったのだろうか。
風邪を引いて寝込んでいる可能性は浮かばなかった。
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